Petit mademoiselle
大きな国の大きな街。
首都ではないものの、すぐ近くには港。隣の国との国境も近いこの街は豊かに発展してきた。
隙間なく横一列に並ぶレンガや石、木造の家々は色とりどりに美しく、人々は明るい。
石畳の上を馬車が通り、ブラッセリでは旅人同士の話が弾む。そこに住民が加われば、さながら宴のようだ。
街の大通りを1人の男が歩いていた。無精ひげに薄汚れた服。だらしなく突き出た腹を揺らしながら、乱暴に突き進んでいる。すれ違う人々を理由なく睨みつけ、追い抜いていく馬車には唾を吐いた。私は下品だと主張するようなその様子と酒の臭いに紳士は顔をしかめて道を譲り、婦人達はお喋りをやめて押し黙った。
そんな様子も気にしないのか気づかないのか、男はどこかへ向かって歩いていく。肩に担いでいるこれもまた薄汚れた麻袋を重そうに担ぎなおしながら、やがて大通りから一本裏道に入った。
そこは小さな家々とこじんまりとした店が並ぶ、いわば住民達の場所だ。男は何かを探しながらその道を進んだ。
男が足を止めたのは、小さなアンティークショップの前だった。
くすんだ白い壁に三角の屋根。木製の小さな扉の脇にはくすんだ色つきガラスのショーウィンドウ。
右にはパン屋。左には花屋。花屋から出てきた婦人が男を見るなり逃げるように去っていった。
パンの香ばしい香りと色鮮やかな花屋の雰囲気に挟まれて、その店は実際よりも古びて見える。
キィ、と細い音に男が上を見ればそこには質素な木でできた小さな看板が揺れている。
【Solitaire】
消えてしまいそうな文字を一瞥して、男は扉を開けた。
カラン、ドアベルが一度だけ乾いた音を立てるが、中はシンと静まり返っている。大柄な男にはこの扉は少々窮屈だった。
明かりはついているのにどこか薄暗い店内は物で溢れかえっていた。壁一面の棚には空いているスペースなどなく、入りきらなかったのであろう甲冑一式や大きな縫いぐるみ、背の高い東洋の壺。あらゆるものが所狭しと並べられている。
男は少し待ったが、人の気配はない。麻袋をもう一度担ぎなおして店の奥へ進んだ。ギィと木の床が軋む。奥といっても小さな店だ、突き当たりは入った時から見えている。
壁の右に扉、左には扉はないが区切られた部屋らしき場所が見える。そしてそのちょうど間、壁の前に小さく丸いテーブルが見える。男はそこを目指していた。
と、何歩か進んだ時、突き当たりにあった扉が開いた。
「いらっしゃいませ、旦那様」
特に慌てる様子もなくその人物は言った。
それはなんとも不思議な雰囲気を持った人物だった。痩せ型で髪はスッキリと短く黒く、中性的な顔立ちをしている。男性としては少し小柄、女性としては少し長身かもしれない。
「お前がここの店主か」
「えぇそうです。祖父から受け継ぎました」
店主が歩くと、コツコツと革靴の音がする。男の目の前に立つと、やはり小柄だ。その見た目と愛想の良い微笑みを男は鼻で笑った。
「枝みてぇなやろうだな。気持ちの悪ぃ、男か女かもわかりゃしねぇ」
「申し訳ない。身長はこれから少しは伸びるでしょう、お許し願いたい」
嫌な顔1つ見せない店主に、今度は苛立った様子で男は鼻を鳴らした。
「それで、本日は何かお探しですか?」
まるで貼り付けたような笑顔で問う店主を、意味もなく男は睨んでいる。
「買い取りもやってんだろ?」
「えぇ。何かお持ちいただけたのですか?」
そう言いながら店主は麻袋を見ている。男の持ち物といえばそれだけなのだから当然だ。
床に降ろされた袋はドンと重い音を立てて、男が手を離しても自立していた。
「拝見しても?」
しばらく袋を挟んで沈黙した後、店主が問う。男が返事の代わりにふい、と横を向いたのを肯定と取って店主はズボンのポケットから手袋を取り出した。
袋の前にひざまずき麻袋に触れると、外壁のようにくすんではいない真っ白な手袋が少し汚れる。固すぎるくらいに結ばれた口を開くと、袋はあっさりと床に落ちた。
その瞬間、店主の目に映ったのは見事なブロンドの髪と白い肌を持った幼い少女だった。その肌と服は埃やら何やらで少し汚れている。
「これは美しい」
少しばかり驚きで丸くした目を、店主はすぐに優しく細めた。
少女が身に付けているものといえば、膝丈のノースリーブのワンピース一枚である。白地に裾から立ち上るような青で描かれた蔦と小花の柄が幼さを際立たせる。
薄着であることを恥じらう様子も、初対面の店主に怯える様子も見せず、彼女は睨むようにしっかりと前を見据えていた。とても利口そうな大人びた表情をする少女だ。
「失礼ですが旦那様、これはどちらで?」
「母親のモンだ。死んだ」
少女の眉がピクリと動き、店主はひざまずいたままで男を見上げた。
「それは…お気の毒に」
沈痛な表情を見せる店主に対し、男はいつの間にどこから取り出したのか葉巻に火をつける所だった。
深く吸い、存分に煙を吐き出せば店内はその臭いで満たされる。
チッと舌打ちの音と共に無造作に落とした灰が床に黒い染みを作ったが、それもお構い無しのようだ。
「あの婆ぁ、親父の遺産やらなんやらどれくれぇ溜め込んでるのかと思ってたのによ」
少女の表情が一層険しくなった。
「蓋を開けてみりゃ、後生大事に持ってたのは古くさい家とそいつだけだ」
くそっと悪態をついて、また舌打ちを一つ。もう少女の表情には初めに見せた冷静さなどどこにもない。今にも男を振り返り飛びかかり、血祭りにあげてしまいそうだ。
いかにもろくでなしのこの男は、死んだばかりの母親を悼むこともせず遺品を片っ端から売っては酒や賭博に費やしているのだろう。この少女もその被害者というわけだ。どんなに悔しいことだろうか。
その様子を見かねたのか、店主がその肩にそっと手を置く。すると少女は驚いた様子に店主を見て、困ったように微笑むその顔に少しだけ表情を和らげた。
「で、そいつはいくらになる」
「そうですね…」
話を進めたい男は苛立った様子で返事を急ぐ。店主は改めてじっくりと少女を見ると、お待ちください。と言い残して奥へと消えた。
そして次に戻ってきた時には木製のカルトンを持っていた。お待たせいたしましたと。やはり愛想よく微笑んで、それを男へと見せる。
「こちらでいかがでしょうか」
カルトンには何枚かの紙幣が乗せられている。その額をザッと見た男の眉がピクリと動き、次の瞬間には建物を揺るがすような大声で笑ったのだった。
「ここの店主はとんでもねぇ目利きらしい!こんなガラクタ、大通りの店じゃあ、この半値もつけなかったぜ?!」
自分がどれほどの額で買い取られようとしているのか、少女にはわからない。頭上に見えるのはカルトンの底だけだ。不思議そうな、不安そうな顔で男と店主の顔を見比べている。
「ご不満ですか?」
男の嫌味も意に介す様子もなく、店主はなおも愛想よく笑っている。男の馬鹿笑いがピタリと止まり、面白くなさそうに鼻を鳴らすと毟り取るように紙幣を取った。金額には満足したのだろう。
ありがとうございました。と頭を下げる店主を振り返ることもなく、男は乱暴に扉を閉めて去っていった。
衝撃でドアベルは狂ったように鳴り、それが収まると店内に静寂が戻ってきた。
ふぅっとため息をついた店主が下を見ると、少女もこちらを見上げていた。
「災難だったね」
そう言ってまた跪くと、今度は布を取り出して少女の汚れを拭い始めた。
そしてふいに目が合うと、顔まで汚れてしまっているね。と優しく微笑んで少女の頬を拭ってやる。
「私の顔がわかるの?」
少女が初めて口を開くと、店主はもちろん。と当たり前のように答えた。
しかし少女は納得のいかない様子だ。
「わかるわけないのに」
「わかるから、こうして話しもできるんじゃないかな」
むぅと拗ねたように黙ったのを見て店主は笑う。だがその笑いは、決して少女をからかったり、意地悪をしている笑いではなく、娘を見る父のようであり、妹を見る姉のような優しいものだった。
「ちゃんと見えるよ。足も腕も、全部見える」
「そんな人初めて」
「だろうね」
ふふっと笑って、ワンピースの裾を払ってやる。大体の汚れは落ちたようだ。心なしか少女の顔色もよくなったような気がする。
「陶器だね。少しのヒビも欠けもない」
あの男には君の価値はわからなかったらしい。と店主が肩をすくめる。
「東洋の物だ。模様の絵の具の発色も良い。派手ではないけれど、品がある。絵の具に金も混ぜてあるんだね」
傷一つない少女の価値を男が知ったならば、こんな所で手放しただろうか。大通りで店を構える商人とやらも程度が知れる。いくらの値がついてもおかしくない彼女だが、店主が見出だした価値は金銭ではなかった。
「君は、とても大切な人への贈り物として作られたんだね」
少女は言葉が出ない様子で、唇を噛み締めて俯いた。じんわりと涙を浮かべ、やがて床に怒りをぶつけ始めた。当然よ!と真下に吐いた声は少し震えていた。
「私は、旦那様から奥様への贈り物として作られたの!奥様は喜んで、とても大切にしてくださったんだから!!」
「仲の良いご夫婦だったんだね」
「そうよ!旦那様が亡くなってからも奥様はずっと私を・・・っ」
長い時を共に過ごしてきた仲の良い老夫婦が目に浮かぶようだった。
誕生日か結婚記念日か、理由は何でも良い。妻を喜ばせたいがために、夫が腕の良い職人に作らせたプレゼントは、彼女にどんな喜びを与えただろうか。
そしてそのプレゼントとして贈られた少女は、どんなに誇らしいことだっただろうか。
「それなのに、あの男・・・っ」
悔しそうに震える少女の瞳から、ポタポタと涙が落ちて床に染みていく。
最後のお別れでもできなかった、すぐにお屋敷から連れ出されて、と一生懸命に話す様を店主はただ黙って見つめていた。
しかし、やがて少女が大声を上げて泣き始めるとその小さな体を抱きしめてやった。
少女の体はひんやりと冷たく、人のそれとは違っていたが店主は驚きもせず、離しもしなかった。
何度も何度も、奥様、奥様と呼びながら号泣する少女は、まるで迷子にでもなったかのようだ。
「っ・・・あたし、どうしたらいいの・・・っ?」
存分に泣いて、やっと落ち着いたらしい少女はしゃくりあげながら問う。その顔は先ほどの大人びたものとは違い、他の少女達と同じようにか弱いものだった。
「ここで、次の主を待つんだよ」
「いつまで?」
「見つかるまで。ここはそういう場所だからね」
「見つからなかったら?」
「それなら、ここにずっといるだけの話だよ」
ね?と店主が微笑むと、一度鼻をすすって頷いた。
「それじゃあ、場所を決めなくちゃ。君はとても綺麗だから看板娘だね」
どこがいいかな。と狭い店内を見渡して、店主は一点に目を留めた。
よいしょ、と抱き上げると、重そうなその様子に少女は不快そうな表情を浮かべる。店主はそれに苦笑いして不手際を挽回するように丁寧に抱きなおした。
数歩歩いて、少女が下ろされたのは入り口の横にあるショーウィンドウだった。
「ここなら皆様に見て頂ける」
店主の声を背に少女は外を見た。色つきのガラスを通して暖かな光が降り注ぐ。
うっすらと青緑色をした日光が少女の体を照らすと、絵の具の中に混ぜ込まれた金がキラキラと輝いた。
パン屋から出てきた親子が少女に気づくと、幼い子どもが少女を指差して何か言う。肯定するように頷いた母親は店主に気づき、少しばかり会釈をした。店主がそれに返すと子どもは少女に笑顔を向けたまま去っていく。
何気ない日常だが、それが不思議と少女を安心させた。
「どうかな?」
ぼんやりと外を見つめたままの彼女を店主が覗き込むと、少しだけ振り返り、にっこりと笑った。
「悪くないわ」
素直ではない彼女の最大の賛辞。店主は安心した様子で笑った。
「ママ、綺麗なお人形だったね」
「さっきのお店の?」
うっとりとしたため息まじりに幼い子どもが言った。母の左手にはパン屋の袋、右手は子どもとしっかり手を繋いでいる。
パン屋の隣にあるアンティークショップは、いつも営業しているのかいないのかわからない。
だが、店の前を掃除している若者を何度か見た。あれが店主なのだろう。そのくらいの認識だった。
しかし今日は初めて、ショーウィンドウに品物が飾られる瞬間に立ち会ったようだ。
きれい!と声を上げた我が子にそうね。と答えた時、あの若者と目が合った。やはりあの人が店主なのだ。
「あれはね、お人形ではないのよ」
幼い我が子には、あれが大きな人形に見えたのだろう。色つきガラスで少し見えにくい所もあった。
そばに並べてみれば同じくらいの身長かもしれない。
「あれは、トルソーというの」
大通りから一本入った道に、寂れたアンティークショップがある。
くすんだ白い壁に三角の屋根。木製の小さな扉の脇にはくすんだ色つきガラスのショーウィンドウ。
そのショーウィンドウに飾られた子どもほどの大きさのトルソーが1つ。
それはまるで堂々と胸を張っているように、今日もキラキラと輝いている。
【小さなお嬢さん】
トルソーってあれです。
胴体しかないマネキンさんというかなんというか。
大きいのも小さいのも可愛いですよね。でも、首部分から枝分かれしてアクセサリーをかける仕様の物は、見るたびに「パラサイトイ○みたいだな」と思います。