安息日
*お気に入りユーザーover500記念お礼公爵視点
*無駄に長い
*試行錯誤の結果、当初より公爵の気持ち悪さが八割減(当社比)。諸々マイルドになりました(当社比)
早朝。男は朝もやに包まれた庭に下りる。
それは最早日課のひとつだった。お抱えの庭師が丹精込めて手入れするそこに花が咲かぬ季節はない。咲き染めの水仙を見つけて、しっとりと朝露を纏った姿に彼は躊躇うことなくそれを手折った。
もうしばらくすれば薔薇も咲く。華やかで人目を惹く大ぶりなものよりも、小さくとも形良いもの、あるいは香り豊かなものを植えさせていた。そちらの方が彼女に贈るには相応しい。そう考えたからだ。
この水仙だとてそうだ。昔から雅を好み道楽好きと揶揄されながらも、男は少しでも自身の興味をそそるものにはとりあえず手を伸ばしていた。それは草花を代表する自然の産物でもあるし、人の手が生み出す絵画や彫刻、美術工芸でもあり、時には音楽や観劇でもあった。おかげで今では国内外を問わず名の知れた趣味人となり、一部芸術家たちの間では「芸術の庇護者」などというおかしなあだ名まで戴いている。武人然とした容貌には似合わぬ審美眼は折り紙つきだった。
最も、そんな男であっても造園や建築に理解はあっても自ら成そうと腰を上げたのはごく最近のことである。目的があればそこにかかる労苦など露程も厭わず、むしろその手間こそを楽しむ性質であったが、こと今回に限っては過ぎるほど手をかけて念入りに事を進めている自覚があった。
美術品が鑑賞に堪えうるのは、それに相応しい環境にあるからだ。ロングギャラリーに飾れば無名の画家の絵であっても高雅な肖像画に見える。どれほど高名な芸術家の手による彫像でも、どぶ川のほとりにあればそれはガラクタに過ぎない。
この屋敷も、近い将来彼女を迎えるならば――男の中ではそれは既に願望ではなく確定的な未来である――些か無骨に過ぎる。ならば彼女にふさわしくと、専門の者と意見を交わしながら自ら図式を引き始めたのである。
男は慣れた手つきで葉を茎を整え、花束にしつらえた水仙を片手に口の端を上げた。
想像するのは、これを受け取る彼女の姿だ。
彼女を心に想うのに、瞼を閉じる必要はない。いつでも好きな時に、自在に彼女を思い描くことができる。彼の前ではいつだって肩に力が入り、ちらとも笑わない女のことを、彼はどうしようもなく愛しく思っているからである。
ようやく二十を幾らか過ぎただけの彼女と、四十をとうに過ぎた男と。老いらくの恋だなと嘲笑されもした。自身でもそう評したことがある。だが老いらくの恋だからこそ、彼の想いは深く強く、おいそれと誰かに退けられるようなものではなかった。
恋に落ちたきっかけなど瑣末なことである。国一の粋人と言われる彼には、そんな理屈屋めいた真似をする意思はない。何故なら彼はまさに落とされたのだから。彼女の意思も彼の意思も介在しない次元の話で、責任の所在を求めるような無粋なことは彼の嫌うところでもあった。
降るような賛辞も、豪奢なドレスや宝石も、心を尽くした愛の言葉も日々手ずから手折る花々も。何一つとして彼女の心を動かしはしない。それが憎らしくもあり、愛おしくもあり、同時にひどく哀れでもある。伏せ籠に入れられてもなお、触れられるのを拒む蝶のような頼りない拒絶すら愛らしい。
これは庇護欲ではないと男は理解している。かと言って恋情であると言い切れるようなお綺麗な感情ばかりではない。曖昧模糊として混沌を成すもの、感情の底の底、自分でも認識していない根本から揺さぶられ、眩暈がするほどの酩酊と衝動、情欲をもたらすもの。それでいて、花を贈りそっけない一瞥を受け取るだけで満たされる幼稚さすら孕んでいるのだから始末に終えない。
自室に戻ると、そこには既に数種類のカードと愛用の万年筆が用意されていた。
手のひらにおさまるほどの紙片にどんな言葉を紡ごうかと、男は毎朝暫し悩む。どんなに言葉を尽くしても己の気持ち全てを彼女に伝えることは不可能で、だというのに言葉を尽くさねばその片鱗すら彼女に示すことができないという矛盾。因果なものだと嘯いて、流れるような筆致で紙片に黒を描いた。
書き終えたカードを先ほどの花束に添え、従者が捧げ持つ色紐で結わえる。趣味が高じて自身でも絵画やら彫刻やらに手を出している男にとって何ということもない作業だが、そのひとつひとつを殊更に丁寧に行うのはほとんど無意識のことだった。
――彼女に贈るものは、全て最上のものでなければならない。
気負うでもなく、男は素直にそう思う。
もちろん、この「最上」という定義が金銭的な価値に拠らないことは当然である。男は黄金で出来ただけのガラクタに興味はない。己の審美眼に適い、且つ彼女のためだけに誂えられたのだとひと目でわかるもの。そういったものだけを彼女は傍に置くべきであり、身につけるべきであると男は思う。
「せめて、名を与えてくれれば良いのだが」
そうすれば、どのような手を使ってでも彼女をこの屋敷に迎えることができるのに、と。
この国の王族、中でも特に直系筋の女性王族は、誰かと婚姻を結ぶまで名を秘すのが慣例である。
古い時代の名残り、名は魂を象徴し、魔術師達は他者の名を以って呪いを施すのだと信じられていた頃からある、埃を被ったような慣例であるが、それが古い血筋の人間には今でも有効なのだと知っている人間はどれほど残っているだろう。
もちろん、男は知っている側の人間である。そもそも男の血族自体が古い血筋に当たり、この国の王族もまた、珍しく後生大事に血筋を守っている。だからこそ、この国の王女である彼女の名を知る者はいない。
カードに目を落とす。宛名を書くべき場所に記す名を男は知らない。そのことがどうしようもなくもどかしかった。呼びかけるべき名すらわからないとは。
今日も、男は自身の名すら記さずに花を贈ることにした。仮初の名など呼ぶどころか書く気にもなれない。きっと彼女は男の意図に気づかないだろうが、疑問に思っていると聞いている。それだけで十分だった。
思い出すのは、先日の夜会の時の姿だ。
主賓であるサディラ公女より目立たぬよう、華美になり過ぎないシンプルなドレス。腰骨付近までぴったりと体に沿いながら、パニエで膨らませたスカートは総刺繍の綾布を絶妙な配分で紛れ込ませ、一国の王女として相応しい凛とした佇まいだった。
彼女が会場に入ってきた瞬間、男は既視感に襲われた。数度の瞬きですぐにその正体を理解する。彼女が纏っていたのは、彼女が初めて後宮から出、公の場に姿を現した時に身に着けていた純白のドレスを手直ししたものだったのだ。
あれを手がけた職人はかなりの腕と美的センスを持っているなと、思った途端に覚えのあるデザイナーを脳裏でさらった。だが、その誰も目の前にある意匠を作り出したとは思えない。ならば、彼女個人の伝手か、彼女に仕える者か。いずれにしろ見事なものである。
(少し、面白くはないが)
最上のものを、与えたいのだ。
男とて今まで彼女のためだけを思って作らせ贈ったドレスは少なくない。彼女が袖を通してくれることはないだろうと理解していたが、それでも彼女の傍近くに自分が選び贈ったものがあるのだということに幾ばくかの満足を得ていたから、飽きもせず贈り続けていた。
そんな男にとって、あのドレスは作り手からの挑戦状に似ていた。
自分のほうが、男よりも彼女のことを理解しているのだと。確かに今まで自分が贈ったドレス全てと比べても、遜色がないどころかあのドレスの方が遥かに彼女の魅力を引き立てていることがわかるだけに、純粋に作り手の技術と審美眼に感嘆する気持ちと、面白くない気持ちが交じり合う。
これが嫉妬かと、男は少し笑ってしまった。
愛だの恋だの、そもそもそんな感情とは無縁であるはずだった。人とはすべからく欲望によって動く動物である。少々知恵を付けた類の人間が欲をさらけ出すことを恥じ、その代わりに耳障りの良い言葉を並べ立てて善人面をする。いっそ欲望など存在しないとでも言うように取り澄ました顔をした人間の方が、ともすればねじ曲がり鬱屈とした欲望を抱えていることが多いのだから面白い。
その代表的な人物が、無粋にも夜会に乱入してきた帝国の皇子達だろう。
彼らが密かに手勢を連れて帝国を出たことは知っていた。男が独自に各地に放っている密偵達が報告してきたのだ。半月も前に。いったいこの妙な時期に何をするつもりかと静観していたところに、昨夜のあの騒ぎ。難しい顔をする国王を尻目に、なかなか面白いことになったと男は感じていた。
帝国がその権威を失墜させて久しい。きっかけとなったのは大陸南部の砂漠地帯を統一、支配した獅子王とのアスガルド戦役における大敗だが、実際はそれ以前からゆっくりと斜陽に向かっていたことを史書は示していた。
中でも、帝国始祖の血を受け継ぐ証、「七色に変わる蒼の瞳」が直系筋にすら現れなくなったことで、急速に人心が帝国皇族から離れていった。
やがて、生まれた順序や性別、直系傍系問わず「瞳の色」が帝位継承条件第一位になっていった時、確かに一度、帝国は破滅の足音を耳にしたのだ。
瞳の色ひとつ、と嘲るわけにはいかない。「七色に変わる蒼」というのは唯一神の恩恵をひと際強くその身に受けた者に備わるとされている。神によりこの大陸を支配することを許されたと嘯く帝国にとって、その加護が薄れつつあるとも取れる事態はまさに死活問題だったのだ。
だが、瞳の色以外、本人の持つ資質などまるきり度外視した継承がそう上手くいくはずもない。一度暗愚な皇帝を輩出して以降、実権は有力諸侯たちに奪い取られ、皇帝は傀儡同然になった。そこに、寄せ集めの蛮族と侮っていた獅子王の軍に対する、度重なる敗北。アスガルド戦役で決定的な大敗を喫して以降、それまで地方貴族だった諸侯たちは次々に王国の建国を宣言し始めた。事実上の帝国崩壊である。
巷間では吟遊詩人が今の世を嘆いていると聞く。そこに自身のことも悪徳の誉れとともに挙げられていることを男は知っていた。斜陽の王国、謀略に勤しむ奸臣、悲劇の王女。名こそ明確に示されていないが、それが誰のことを指しているかなど周知のことである。麻のように乱れる世、まるで遥か昔、帝国建国以前の英雄の時代と同じだと嘆くのだ。
男に心酔する者たちなどは恐れ知らずの吟遊詩人たちに神経を尖らせている。だが男は、ならば魔王が必要だろうと笑うだけだった。民草の支持を集めるために帝国始祖、勇者とも英雄とも称された男に利用された哀れな生贄の羊。魔族と呼ばれた一族が、かつて「森の民」として尊崇を集めていたことすら葬り去り、数多いた神々を邪神に堕とし、自らが祀る神のみが唯一にして絶対だと傲慢にも言ってのけた故事を繰り返せと、そう世相は望んでいるとでも言うのだろうか。
「時間か」
音もなく姿を現した配下を視界の端に捉え、男は腰を上げた。いつの間にか、空は完全に明るくなっていた。当然、朝もやも既にない。
花束を確実に彼女に届けるように指示した後、男は幾つか必要な書類に目を通した。自領のことだけでも執務は膨大にある。代官に任せておけば楽にもなるが、それらを監督するのは男の役目だ。生かさず殺さず、その按配ができない人間のなんと多いことか。
いわゆる善政を敷けば悪政を敷くよりも実入りは多い。それを男は知っていた。だからこそ無理な徴税も圧制も行わず、宮廷での悪評とは裏腹に、領主としての男は領民に感謝と畏敬の念を向けられる絵に描いたような「良いご領主様」だった。
その一方で、清廉潔白とは程遠い手法を毛嫌いされることも多い。どのような些事であれ逆らう人間に対して容赦してやるほど温厚でもなく、「良いご領主」だからと男を甘く見た先の代官は文字通り首を道端に転がすことになった。年若い彼女に熱を上げているとの報に、監視の目が緩んだと錯覚したのだ。
領地経営は築き上げるに難く、崩すに易い。代償が首ひとつで済む程度まで泳がせて、見せしめとして野に晒した。これで向こう十年は命知らずも出ないと良いのだが、と男は思う。彼女に関することならばいざ知らず、その他の些事に無駄な手間をかけたくはないのだ。
「ほう。これは」
変わり映えのしない報告書に紛れた一枚の紙。そこには珍しい名前が記されていた。
「相変わらず、筆跡ばかりは美しい」
声音に皮肉めいた響きが混じるのは、彼の者が動くということが必ずしも男にとって吉兆とは限らないからだろうか。
訪問の許可を求めるでもなく、かといって男に何か要求するでもない文面は、ただその送り主がこの国に入国したということだけを素っ気なく知らせていた。どこへ行くとも、何の用事があるともない。
男は配下の者を呼び、いくつか些事を言いつけた。招かれざる客人は愉快な見世物を演じることだろうが、観客に徹するか演者となるかは見極めなければなるまい。神をも恐れぬと評される男だが、その彼にも諸々の事情から事を構えたくない相手はいる。彼の者は、その数少ないひとりであった。
(わざわざ知らせを寄越したということは、邪魔はするなとの警告か)
彼の者の願いを、男は知っている。
それは哀れなほどに滑稽で、だからこそ切実であった。常であれば男が気に掛けるほどのことでもない願いだが、それを望むのが他ならぬ彼の者であるということが、その実現を甚だしく困難なものとしているのがわかるだけに面白い。なればこそ、男のような者には格好の娯楽であった。
さてどうしたものかと、男は椅子に背を預ける。思案するのは彼の者の目的だ。
本来ならば、彼の者の思惑に対して男は傍観者である。協力はしないが同時に妨害もしないと、数年前に密約を交わしてあった。拘束力などないに等しい密約だが、下手に手出しするよりも傍観に徹した方が面白いことはわかりきっていたので、破るつもりは毛頭ない。いや、なかった、と言うべきだろう。
男は、彼の者がこの国でなそうとしていることが手に取るようにわかった。そしてそのために、彼女と接触を図るだろうことも。
排除することは簡単だ。だが、その後を思えばそれは憚られる。愉しみが減るばかりでなく、ほぼ確実に、事を構えたくないもうひとりの領域を侵してしまうからだ。だがいつものように傍観していては、彼女に最悪の協力者ができかねない。
彼女が手の中からすり抜けていくことを想像して、男は無意識に眉間に皺を寄せていた。彼の者と彼女が手を結べば、その最も歓迎されざる事態が現実のものとなってしまうかもしれない。それは到底看過することはできなかった。
執務を切り上げて、男は王宮に伺候した。国王との謁見では帝国の皇子たちの扱いについて意見を求められ、ご機嫌伺いと称して王妃である妹を見舞う。
「ご機嫌よう、メデルゼルク公爵」
シーツの白に埋もれるようにして、王妃は男を一瞥した。
「ご機嫌よう、王妃殿下」
目上の貴婦人に対する礼をしながら、男はついと目を眇めた。
本来、王妃の私室に足を踏み入れることができるのは夫たる国王その人のみである。だが、今回はその国王自ら王妃を見舞ってはくれないかと言われ足を運んでいた。咎められることなくここまで来れたのもそのためである。
男と王妃。二人の間に流れる空気はけして暖かなものではない。血の繋がりが色濃く現れた目尻にかかる髪をはらい、王妃はひとつ息を吐いた。
「相変わらず、悪趣味ですこと。不手際を犯した妹を嗤いにでも来られたのかしら」
苛立たしげな様子を隠しもせず、王妃は吐き捨てるように言う。
子どもの我儘を受け流すように、男は肩をすくめた。肯定も否定もしない。それが無意味だということを知っているからだ。
色白がもてはやされるからと、ほんの幼い頃から日焼けを厭った王妃の肌は白い。だが今は、それも過ぎて青白いほどだった。体調が悪いというのも、どうやら建前ばかりではなかったようだ。
不手際と、自身でそう評したにも関わらず、王妃はどうやらその言葉が不満らしい。男がその言葉を繰り返す前に、繊手を翻して侍女を呼び寄せる。
静々と侍女が捧げ持ってきたのは青硝子の小瓶であった。中には何かの液体が入っている。
受け取り、掲げてみせた王妃に、男は「これは?」と説明を求めた。
「わたくしが飲んだ毒よ、間抜けにもね」
「おやおや」
わざわざ国王から王妃の見舞いを促されることといい、珍しいこともあったものである。
王妃も公爵も、自分たちが大多数の王国貴族からよく思われていないことなど十分承知している。憂国の士を気取る輩から、単純に地位の成り変わりを目論む者まで、様々な思惑が彼らを脅かそうと狙っているのだ。
だが、それはメデルゼルク公爵家に生まれた時から変わらないこと。臆するどころか利用し、粛清し、時に見せしめの報復をしてみせてきたのがメデルゼルク公爵家である。当然、男はもちろん、王妃もまた同じように降りかかる火の粉を払いのけてきた。
だというのに、である。なるほどだから不手際かと男が得心したところで、王妃は「調べてくださらない」と言って薬瓶を男に差し出した。
「王宮にも侍医はいるだろうに」
「その侍医が手ずからわたくしに飲ませてくれた毒だもの」
知っている癖にと、王妃は顔をしかめた。男が王宮どころか国中、大陸中に手の者をばら撒いていることを、王妃は知っているのだ。
男は僅かに口角を上げた。
暫しの無言。互いに目をそらすことはせず、薬瓶を差し出した王妃の腕もそのままだった。
果たして、折れたのは王妃の方だった。
「明日の茶会への出席を許可します」
「それは光栄」
果たしてそれまでに王妃の体調が戻るのかは疑問だが、今ここで宣言したということは何とか調整するのだろう。
王妃主催の茶会はけして珍しいわけではない。ただ、今回は訪問中のサディラ公女をもてなすという趣旨で開かれ、ごくごく身近な人間のみを招いてという形をとるだけだ。本来ならば主賓である公女の他に主催者である王妃、それに国王と王太子、王女が臨席するだけの会を予定していたが、帝国の皇子が押しかけてきた今、彼らを招待しないわけにもいかなくなった。そのため急遽、有力貴族たちも招待客として茶会の場に同席させることとなったのだ。
それでも、王女と男の接触を嫌う王妃は男宛ての招待状を頑として用意しなかった。いくら招待客を増やしたとは言ってもやはり茶会としては小規模なことに変わりはない。ただでさえ恋い焦がれる王女との逢瀬が限られている男にとって、王妃の提示した条件はまずまずの及第点であった。
小さな薬瓶を手に、男は王妃の前を辞した。内宮へと戻りながら、わざと遠回りをして王女の住まう離宮へと向かう。
帝国に習い、この国では如何に国王であっても王妃以外を妻とすることは許されておらず、一夫一妻制を取っている。妃の位を与えられるのは王妃ただ一人であり、たとえどんなに国王からの寵愛が厚くとも、それ以外の女は全て愛妾となる。現行法では、婚姻関係にない男女の間に生まれた婚外子にはあらゆる権利が認められていない。それを哀れに思った何代か前の王が、寵愛する愛妾とその子のためにたとえ王妃であっても干渉できないよう造らせたのが、王女の住む離宮である。
先代王妃の子とはいえ、紛れもなく現王の血を引いた瑕疵のない王女に、その離宮を宛がう皮肉。我が妹ながら悪趣味なことだと笑ったのは、そう昔の話ではない。
見上げた王女の部屋のベランダは固く閉じられており、まだそう遅い時間でもないというのに厚いカーテンが引かれている。手の者の話では何か心配事を抱えている様子で、昨夜の眠りも浅かったというから、もう寝台に入っているのかもしれない。
男は暫し、地上から王女の部屋を見上げ続けた。
ざわりと木々が風に大きく揺れる。陰り始めた空に雨の気配を感じ始めた頃、ようやく男は身を翻した。
「明日は、どの花を贈ろうか」
僅かなカーテンの隙間からは、男が手ずから摘んだ水仙の白が覗いていた。