小さな恋のメロディが眩し過ぎて胃が痛い。
鏡越しに目が合った自分の表情はあまりにも暗かった。
むしろこれ、目が死んでる。死んだ魚の目ってやつだ。ドレスとか化粧とかが外行き用なだけに際立つこの目の死にっぷり。ふっとやさぐれた息を吐いたところで、髪をまとめていたマグダが咎めるように眉をひそめた。
「ひどいお顔をなさっていますよ」
「……残念だけど、今さら顔かたちは変えられないわねえ……」
「そういう意味ではないと、わかっていらっしゃるでしょう」
じとりと鏡越しに睨みつけられて、肩をすくめる。
だってねえ。だって、だってなんだよ。
思わず某有名な変身ヒロインアニメの主題歌みたいなことを思ってみたけれど、それだけこれから行かなきゃいけないお茶会は気が重いのだ。
押しかけ賓客として帝国の皇子様方が来たのは一昨日のこと。何やら政治的なややこしいことは昨日の内に国王やら大臣やらとお話合いを済ませていて、今日は皇子王女同士で仲良くお茶会、というわけだ。
実際は友好的どころか諸々の思惑をお互い抱えているんだけれど、どんなに白々しくても国同士のオツキアイってそういうもので。いくら帝国の皇子様方とはいえ、アポなし押しかけ客をおもてなしとかナイワー、なんて本音はまるっと隠して応対しなきゃいけない。
たかがお茶会ということなかれ。ここでうっかり粗相をして、体よく帝国側に攻め込む大義名分なんかを与えないようにと、国王大臣揃い踏みで懇々と言い聞かされるくらいには重要なお茶会なのだ。参加メンバーは私に王太子、公女様に皇子二人と、人数比的には全然安心できない。王太子を戦力外だと考えれば実質孤軍奮闘状態だ。
こころなしきりきりと痛む胃を擦り、ホスト国の第一王女として私は他の参加者たちよりも先にお茶会の場所で待機した。
今日は幸い良く晴れた気持ちの良い日で、東屋に設えたお茶会のテーブルの上に並んだ茶器やお茶菓子たちはまるでそれ自体がきらきらと輝いているかのように眩しい。演出効果は完璧だ。隅っこで設営担当のメイドさんたちがガッツポーズを決めていた。流石です、メイドさん。
先に来たのは公女様だった。次に側近に引きずられるようにして王太子が。おいお前私と一緒でホスト側だろと睨みつけても、つまらなそうに欠伸をするだけ。その様子に、マグダまでもが呆れたように小さく息を吐く。公女様の揺らがない微笑にかえって申し訳なさが募った。もう本当、ウチのぼんくらがすみません。
「お待たせしてしまいましたか」
そう言って颯爽と現れたのは、帝国第二皇子デュエロ殿下。その後ろに続く第五皇子イズミル殿下の表情は見るからに硬い。
椅子をすすめて、形式通りの挨拶をして。さてこれで役者が揃ってしまったわけだが、今日は一日引きこもるつもりでいたところを引っ張り出された王太子の機嫌は底辺をさまよっているし、イズミル殿下はそんな王太子を友好的とは言い難い目つきで観察している。不幸にも間に挟まれる形になった公女様は一触即発のふたりに困り顔。対して、弟を諌めるべきデュエロ殿下は考えの読めない微笑を浮かべたままと来れば、これをどうにか和やかで友好的な雰囲気に持っていかなければならない私の心痛、おわかりいただけるだろうか。是非ともおわかりいただいて、その上で場所を変わってほしいのだけれど。
王太子の側近は役に立たない。王族どころか皇族まで揃った場で不用意に口を開けば即刻首が飛ぶ可能性があるからだ。ちらっちら寄越される視線に耐えきれず、私はとりあえず、安全牌だろう公女様に話を振った。
「公女様とイズミル殿下はご友人と聞きましたが」
「ええ。親しくさせていただいておりますわ」
助かった、とほっとした表情を見せる公女様に内心苦笑する。さあ、そんな男どもは知らん顔で、友好的なお話をしようじゃありませんか。せめて私たちだけでも。
「とは言っても、ものごころつく以前からの付き合いで、友人というよりは幼馴染か、年の近い兄妹のようなものなんですの」
「羨ましいお話ですね。私などはずっとこの離宮で籠りきりでしたので」
本当に小さい頃は亡き母の遺言から。お披露目後は主にあのはた迷惑な公爵のせいで。お金と身分があって世界常識的にも率先して表に出る王女ってのは好ましくないとされているからいいけど、一歩間違えればただのヒキニートですがなにか。しかも友達? なにそれ美味しいの? 状態ですけどなにか。
もし母親が生きていれば話し相手という名の婚約者候補とかが各家から招かれていたのかもしれないけど、そんなこともなく。王太子は後ろに控えている側近連中が確か元お話相手じゃなかったかな。あんまりよく知らないけど。
(十歳前後の子が『幼馴染』って、ちょっと違和感あるなあ)
前世の感覚をがっつりひきずっちゃってる私から見れば、公女様はまだ「幼い」分類なのだ。いくらイズミル殿下が公女様より年上だからって、せめて後二、三年はほしいところ。
「ぼ……私の生母が公女の母の従姉妹なのです。その縁で、たびたびお互いのところに行き来していました」
使いなれないんだろう敬語と一人称で、イズミル殿下はどこまでも真面目に且つ真摯に言葉を紡ぐ。真っ直ぐに公女様を見つめたまま。
「初雪が降った時は勉強をさぼって庭で遊んだり、春には一緒の馬に乗って遠駆けをしたりしていました」
「そうなのです。それはもう、殿下は本当の兄のように優しくて」
公女様の笑みが引きつっている。それ以上喋ってくれるなとイズミル殿下に必死で目配せしているけれど、それに気づかずに――いや、むしろ敢えて無視して?――イズミル殿下は仲良しエピソードを話し続ける。
「そういえば、公女は刺繍が苦手なのですよ。初めて刺したのは確か黄色い花だったのですが、どう頑張ってもただの糸の絡まりにしか見えなくて、それを正直に言ったら拗ねてしまいまして」
ア、コレアカンヤツヤ。そう私が思ったのとほぼ同時。公女様の行動は実に素早かった。
「も、もう、殿下! 少しお喋りが過ぎますわ!」
最終手段、公女様が作法を度外視してスコーンっぽい焼き菓子をイズミル殿下の口に突っ込んだ。まさに物理的に口を閉じさせたわけだ。
もがもが言うイズミル殿下が何を言いたいのか、私にはさっぱりわからない。でも公女様がやくざよろしく殿下の襟首を掴んで何事かぼそぼそ言い聞かせているのを見るに、公女様には伝わっているのだろう。近づいた顔に若干頬を赤らめているイズミル殿下にはまったく気づいていないみたいだけど。
生ぬるい目になっていることを自覚しつつ、私はカップの紅茶をひと口飲んだ。だってねえ。どうするよ、アレ。
イズミル殿下が仕掛けたのはある意味わかりやすいほどの挑発だ。自分はこんなに公女様と仲が良くて気心も知れているんだぞ、と。水面下とはいえ婚約、引いては結婚話が出ている公女様とウチのぼんくらに対して、喧嘩を売っているに等しい。少女漫画ならすわ三角関係かと盛り上がるところだ。
だがしかし。私は横目で王太子を見やった。
退屈そうな横顔だ、相変わらず。いったい世の中の何がそんなにつまらないのか、膝づめで小一時間ほど問いただしたくなる半目と投げやりな雰囲気。これが二次元定番の「なんでもうまくでき過ぎて世の中つまらん」タイプならまだ許せ……いや許せない。そんなチートは認めない。苦労は買ってでもしろと率先して押し付ける。
まあともかく、王太子はまったく出来がよろしくない。端的にいえばできないから面白くないという典型的な勉強しない子パターンだ。ちなみに、この「できない」はかなりの割合で「しない」とイコールだってことは補足しておくべきだろう。いったい今まで何人の講師が王太子の「つまらない」のひと言でやめさせられていったことか。彼ら、彼女らの無力感は察してあまりある。
そんな王太子だ。そもそもイズミル殿下の話に興味が微塵もないことは明白で、実にどうでも良さそうに茶菓子に手をのばしている。その手の甲を扇で強かに打ちつけてやりたい誘惑にかられるが、ここはぐっと我慢だ、我慢。そんなことをしたら即座に王太子の後ろに控えてる側近達にこれでもかといちゃもんを付けられるに決まってる。
そしてそして。この場で警戒すべきなのは実はこっちなんじゃないかと、私は視線を向けないまま第二皇子デュエロ殿下に全神経を集中させた。
本来なら、こんなイズミル殿下の不作法を諌めるべき立場であるデュエロ殿下は、挨拶からこちら、ずっと沈黙を保ったまま。皇太子を差し置いて次期皇帝とかなんとか言われちゃう人だ。何を考えているのか皆目読めず、ただひたすらに沈黙が怖い。
「何を慌てる必要があるのです、公女。僕はよく覚えていますよ。野花で作った花冠で、貴女はあんなに喜んでくれていたじゃありませんか」
「それは五年も前の話で……っそもそもどうして、よりによってそんなことばかり……っ」
ガタリ、ととうとう王太子が席を立った。
「王太子殿下」
「ユノーです、姉上」
そんなことは知っている。別に私は名前を忘れたわけじゃない。
咎めるために呼んだのに、王太子は微塵も悪びれた様子なく肩をすくめた。
「ここにいても無駄みたいなので、帰ります」
「あ、殿下……!」
「失礼します、姉上」
引きとめる隙もない。さっさと身を翻した王太子を、側近たちが慌てて追い掛けて行く。って、どうして追いついたのに引き戻して来ないんだ側近たちよ……!
追いすがるように伸ばされた公女様の腕が寂しい。イズミル殿下は達成感に満ちた勝ち誇った表情ををしていらっしゃる。が、それも公女様の体がふるふると震えだすまでだった。
公女様は一度俯いて腕を下ろし、二度、三度と深く息を吸い、吐いた。そしてギッとイズミル殿下を睨みつける。
だが。
「僕は謝らないからな」
公女様が何か言う前に、彼女に負けずとも劣らずの不機嫌さでイズミル殿下はそう口にした。
もちろん、そこで黙っているような公女様じゃない。
「いくらイズミル殿下とはいえ」
声は憤りに震えている。それもそうだろう。彼女はどうやら責任感の強い性格みたいだし、たとえ相手があんなぼんくらでも政略結婚なんだから気にしないと言ってのけたのだ。あそこまであからさまに横やりを入れて妨害されて、怒るなと言う方が無理だろう。イズミル殿下に惚れているわけでもあるまいし。
「ユノー殿下へのあの振舞い、礼儀を知る紳士が取るべき態度とはとても思えませんわ」
本当はもっと言ってやりたいことがあるのだと、公女様の表情は雄弁に語る。多分、ある意味部外者の私がここにいなければ大声で怒鳴り散らすくらいはしたかもしれない。どこまでも自制の効いてしまう子で、流石に不憫になってきた。
だというのに、非難する公女様の言葉と態度に、まるで自分こそがその権利を持っているのだとでも言うようにイズミル殿下は顔を歪める。
「あの男は、公女には相応しくない」
「殿下!」
えーと。一応、その「あの男」側である私がまだここにいるんですけれど。
今度こそ公女様は声を荒げた。敬語もかなぐり捨てて、「アンタなんてこと言ってくれてんの!」とイズミル殿下の胸倉をわし掴んでいる。……結構口悪かったんですね、公女様。
「大体、相応しいとか相応しくないとか、どうしてそんなことアンタに言われなくちゃなんないのよ!」
「黙ってたら、お前はアイツと婚約でも結婚でもしてしまうつもりだろう」
「当ったり前じゃないの! 私がなんのためにこの国に来たと思ってんの? ユノー殿下と政略結婚するためじゃないの!」
「だから、それを止めにきたと言っている」
「そんなの初耳よ!」
だんだんとお互いヒートアップしてきたのか、ほとんど怒鳴り合うような言い合いに控えていたメイドさんたちがおろおろしている。これはいっそ人払いすべきかとマグダに視線をやれば、小さく首を横に振った。このタイミングで席を外させた方が問題か、やっぱり。
そろそろ落ち着かせねばと止めに入る言葉を探していると、とうとう堪忍袋の緒が切れた、というようにイズミル殿下がひと際大きく叫んだ。
「っだいたい、お前は俺に名を与えただろう! なのになんで他の男と結婚なんて話になるんだ!」
え。
ちょっと、待って。
今、イズミル殿下、何て言った?
「アンタに私が名前を教えたって、だからそれで何だって」
「公女様、それは本当ですか?」
割り込んだ私の声。そこでようやく、二人はその場にまだ他の人がいることを思い出したらしい。
不良同士の喧嘩よろしく、立ち上がって額を突き合わせていた状況にも気がついたのだろう。そそくさと椅子に座りなおして小さくなる二人は、その幼さも合わせて微笑ましい。――さっきの問題発言さえなければ。
手にした扇子を握り直して、目配せひとつで人払いをする。元々私付きのメイドさんたちだけしか控えさせてなくてよかったと心底安堵した。彼女たちなら、不用意に口外することもあるまい。
「イズミル殿下に名を与えたと、先程そう聞こえたのですが」
頼むから聞き間違いであってくれ。そう祈るように尋ねたのに、返ってきたのはあっさりとした肯定。思わず頭痛もしようってものだ。
「身分の高い女性が男性に名を与える意味をご存知……ないようですね、そのご様子では」
「え、え、あの」
「イズミル殿下。説明もなしに公女様に名乗らせたのですか」
「……説明も何も、名乗ってきたのは公女だ」
「デュエロ殿下」
「私には、何とも」
もしや、公国は忘れてしまった一族なのか。
この国に限らず、王侯貴族、中でも特に直系筋の女性は、誰かと婚姻を結ぶまで名を秘すのが慣例である。
理由は古い時代の名残りだとされているけれど、本当はそうじゃない。それは名は魂を象徴し、魔術師達は他者の名を以って呪いを施すのだと信じられていた頃からある、埃を被ったような慣例だけれど、いわゆる古い血筋の人間には今でも有効だったりするのだ。
名前ひとつと侮っちゃいけない。例えば私の場合なら、うっかりにでも公爵に名前を知られた日には求愛を受け入れたとみなされて即日で寝台に引っ張りこまれるだろう。両親と本人以外、血を分けた兄弟姉妹や乳姉妹であっても明かされることのない名を明け渡すということは、所有権を明け渡すことに等しい。ちなみにどうして女性限定かというと、女性の方がそういった魔術的感受性が強く影響を受けやすいからなんだそうだ。
いくら今ではその「古い血筋」とやらがどんどん減っていっていて、ほとんど形骸化した慣例だとはいえ、この国と同じかそれ以上に古い公国の直系の姫に影響がないはずがない。帝国は言わずもがな。
かいつまんで説明していく内に、公女の顔色はどんどん悪くなっていった。これは、どうやら本当に知らなかったらしい。どうしようと震える指先を見て、もうこれはお茶会どころじゃないなと私は解散を告げた。
「王女殿下、私、私、どうしたら」
「今は、とにかく落ち付かれることです。大丈夫ですから」
いや本当は正直全然大丈夫じゃないけどね?
でもここでさらに公女様を追いつめることなんてできないだろう。マグダに公女様を送るよう頼んで見送る。イズミル殿下は公女様がいないなら用はないとばかりにさっさといなくなった。……あっちもあっちで問題児っぽいなあ。
ところが。二人になったところでデュエロ殿下はわざとらしいくらいにっこりと笑った。
「少しお時間よろしいですか、王女殿下」
「……ええ、構いません」
よろしくないとは言えないだろう、この状況。
はてさて、傍観に徹していた皇子様はいったいなんの用件だろうか。
歩きながらという言葉通りに東屋を後にして廊下を歩く。デュエロ殿下はおもむろに話し始めた。
「イズミルは昔からずっと公女と結婚するのだと言っていたので、焦ったのでしょうね」
「そのようですね」
うん、言いかえれば考え足らずで暴走したとも言えるよね?
もうここまで来れば立派な外交問題だ。責任を取らされるのは公女様だろうに、それを知ってか知らずか「名を与えた」なんて公言するイズミル殿下が理解できない。なりふり構っていられないのか、そこまで考えられなかったのか。いずれにせよ、恋は盲目というやつなんだろう。
謝罪の言葉がデュエロ殿下から出ないのは予想通り。困った弟ですとか白々しく言っても駄目だ。そこも計算通りなんだって、笑っていない瞳が如実に物語っている。
「我が国と公国があまり仲良くなるのは面白くありませんか」
「仲間外れはいけないと思いませんか?」
つまり、この政略に帝国も一枚噛ませろと。いったいどうやって?
するりと、わざと結わずにおいた髪のひと房を掬い取られた。視線が交わる。薄いアイスブルーの瞳が、甘さを微塵も乗せずに私を捉えた。
「例えば、イズミルと公女、私と王女殿下が夫婦になるのは如何でしょう」
仲介役を気取ろうとでもいうのだろうか。それでは帝国ばかりが得をする。
外見だけは麗しい皇子様のアップに心臓が跳ねたけれど、それはときめきとかそういう甘ったるいものじゃなかった。こんな温度のない瞳に見つめられてときめけるほど特殊な性癖はしてないよ、私。
背筋を流れるのは冷や汗だ。この皇子様、ヤバい。知らず後ずさろうとした時、私の背後から「これはこれは」と慇懃無礼な声が響いた。
「このようなところで奇遇ですな。デュエロ皇子」
「メルデゼルク公爵」
デュエロ殿下が身を引く。私は即座に距離を取った。後ろは見ない。見たら負けだ。
「先程イズミル皇子ともお会いしましたよ。何やらおひとりで何処かへ向かわれたようだが」
行かなくて良いのかね? と副音声が聞こえる。おひとりで何処か? 果たしてそれはイズミル殿下の意思だろうか。それとも、公爵の策略か。
デュエロ殿下もそう思ったんだろう。表情を硬くして、社交辞令の笑みを浮かべて謝辞を述べる声はわざとらしいほど平坦だ。応じる公爵も慇懃無礼そのもの。なんだこれは。狐と狸の化かし合いか。是非とも私のいないところでやってほしい。
「また後ほど話をしましょう。今度は二人で」
「ごきげんよう、デュエロ殿下」
否とも応とも答えないのはもちろんわざとである。
それがわかったデュエロ殿下は肩をすくめて、さっそうと踵を返した。ちょっと早足かもしれない。イズミル殿下が心配なんだろう。
それじゃ私もと即座に一歩踏み出したのに、二歩目が地面に付く前にさっと腰をさらわれた。誰にかなんて、考えるまでもない。
「お探しいたしました、姫」
「……放しなさい、公爵」
背中に当たる体は硬い。私を横向きに抱く腕は腰と肩に置かれて、伝わる温度は熱いほどだ。
抱きしめられていると意識すると鳥肌とか嫌悪感とか諸々手に負えなくなりそうで、必死に意識を反らしているのに、まるでそれを咎めるように公爵が喉で笑う。
「我が姫」
低音が掠れ気味に響く。唇が耳に寄せられて、睦言を紡ぐように「私は気が長い方ですが」と言葉を紡ぐ。
「これほど焦らされた上嫉妬させられては、無粋なことでもしてしまうやもしれませんよ」
それは明白な脅しだった。
ぞっと背筋が粟立つ。半ばパニック状態で肘うちすれば公爵は案外簡単に私を放してしまったけれど、嫌でも視界に入った表情の獰猛は正視に堪えない。私は一目散に逃走を図った。
礼儀がなんだ。作法がなんだ。ドレス姿で全力疾走。最早体面なんて気にしてる余裕はない。
「可愛らしいことだ」
背中にかかった言葉は、聞かなかったことにしたい。




