その後番外編:流浪の王女は逃げきりたい。
※王女さまご一行旅のひと幕
※弟王子即位一か月半後くらい
男は、生まれながらにして全てを持っていた。
高貴な血筋、遊び暮らしても尽きぬ財、豊かな領地に忠実な民、そしてまた、さらに財を生み出す明晰な頭脳と恵まれた体躯、多くの貴婦人たちが夢中になる男らしい色気にあふれた端正な容貌。
およそ男に生まれた人間が望む全てを持って生まれた男は、しかし、とうてい叶わぬ恋に落ちる。
男は全てを差し出した。地位を、財貨を、栄誉を、武勲を。親子ほどに年齢の離れた年若い娘に、年甲斐もなく跪いて、額づいて、愛を請うたのだ。
けれど、ああ、美しく冷酷な彼の女王は男の願いを一顧だにしない。大粒の紅玉も、青玉も、あふれるほどの黄金も、綾雲の如き絹地も、王冠すら彼女が望むなら捧げようとする男に、残酷な娘はとうとう姿すら垣間見せまいとした。
男は、そうして、途方に暮れた。全てを手にして生まれた男の、手にした全てが彼女を惹きつけるには足りなかった。
娘の眼差しも、声も、果ては姿すら与えられなくなって、男は焦がれて、焦がれて、焦がれて──そうして、悟った。
彼の方は私に何も与えてくださらない。何も与えさせてくださらない。私の望みの何も受け入れてくださらない。残酷な姫。ああならば、どうして私は彼の方の望みを聞き入れなければならない──?
*
はた、と気づいた。
場末の酒場、吟遊詩人が歌う、身の毛もよだつような恋物語。
これはひょっとして、いや、ひょっとしなくとも――自分とメデルゼルク公爵のことなのではないか?
「いやあ、事実は物語より奇なり、とは言いますが、こう聞くと大層な悪女ですね、殿下」
「やめてちょうだい」
ええもう、切実にやめてもらっていいかな、エリザ。私のいったいどこが悪女だっていうのさ。
大粒の紅玉、とか多分あれだろうなあとか、黄金とか山ごと見つけて献上しようとしてきたやつかなとか、綾雲の如きかはわからないけど確かにすごい上等そうな絹布はもらったような覚えがあったりなかったりするかもしれないけど、勝手に贈りつけてきたのは向こうなのだ。え、こういう言い方がさらに悪女っぽい? だって他に言い方なくない!? ある日起きたらサンタさんよろしく枕元に置いてあった金銀財宝権利書その他諸々をいったいどうしろと!?
あちこちで、地位と権力と金と美貌があっても――公爵の容貌への評価がソレで本当に正しいのかはさておき――振られる時は振られるんだなあと、しんみり酒杯を傾けるむくつけき男たちと、えー貢がれてみたーい!と他人事よろしくきゃっきゃとはしゃぐ夜の蝶たちで酒場は今夜も盛況だ。
吟遊詩人の歌がいよいよ国王の崩御とその後の混乱に差し掛かった辺りでふいと意識を外し、さてはてと、ここにはいないマグダの話題に戻る。
「あの子がこんなにてこずるなんて、その文官はなかなかのやり手なのねえ」
「蛇みたいな男でしたからねえ」
「貴女の許婚くんも、その点ではいい勝負だと思うわよ」
マグダいわく、少々大人のお付き合いをしていただけの相手が街の門前で待ち構えていたのはつい二日ほど前のことだ。
当然私には見覚えがなく、苦虫を噛み潰した表情のマグダと、いつもと変わらぬにこにこ笑顔のエリザにあっ、察し……となってしまったのも無理からぬことで。
(だって似たようなこと、エリザの許婚くんもやらかしてくれたからね……!)
あれはそう、ふたつ前の街でのこと。ぼろぼろ号泣しながら抱きついてこようとする少年騎士をエリザは笑顔のまま千切っては投げ、千切っては投げ……うん、この話はやめようか。私たち三人ともなんか面倒なストーカーくっつけてるってことなんじゃない? 疑惑、今回の文官待ち伏せ事件によって証明されちゃいましたねあはは、とか朗らかに笑ってるんじゃない、エリザ。貴女だってその一角なんだからね。
結局その時は説得(物理)で強引に引き下がらせたけど、アレは良くも悪くも許婚くんが脳筋一族だったおかげ。求婚作法が決闘っておかしくなーい? って私の中の常識がびしばし伝えてくるけれど、気にしたら負けだぞ、私。
ともかく、マグダだ。主人をこんなことで煩わせるわけにはいかないと、きっとおそらく確実に公爵と繋がってるので吐かせてきますと息巻いて別行動して、はや二日。そろそろご主人様としても乳姉妹としても心配になってくる。
「どうしましょう、エリザ。無理矢理マグダが……なんて思うと、私、うっかり貴女の殺人を見逃してしまいそう」
「あのマグダに無理強いしようとした時点で切り落とされていそうな気もしますが」
「まあ」
いやまあ、うん。正直そんな気がしなくもない。まだまだ女性の貞潔どうこうと煩い昨今、そのくらいしなければ暗黙の同意があったとか言われかねないものね。うん、間違っても私の乳姉妹が殺意マシマシなわけではないのだ。多分。
「それもそうかもしれないけれど、何事も万が一、ということがあるでしょう?」
「そうですねえ。その時は私もうっかり手が滑ってすぱっとやってしまうかもしれませんねえ」
言って、エリザはとてもイイ笑顔で腰の剣をぽんと叩く。
なんだかんだ言って、マグダとエリザは仲が良い。照れ屋で素直じゃないマグダは認めないけれど、友人と言ってもいいんじゃないだろうか。
(私には無縁の関係性だわ……)
乳姉妹のマグダは家族同然だからいまさら友情も何もないし、エリザは部下としては頼もしいけど友人はちょっと……な変人だし、社交界なんて無縁だったから……そうね、どこに出しても恥ずかしくないぼっちね私……。
余計なことを考えて勝手に落ち込む私が手持無沙汰に杯をくるりと回した時、おや、とエリザが酒場の入り口を見た。
「お疲れ様、マグダ。後処理の手伝いは必要かな?」
「結構よ。……お待たせして申し訳ありません、姫様」
「お帰りなさい、マグダ」
はーやれやれ、と首を回して近づいてきたマグダに、エリザは笑顔で小皿を勧める。
(親切に見せかけて自分の嫌いなおつまみを横流ししてるわね、この娘……)
私とマグダ、ふたりにじと目で見られてもどこ吹く風。好物のチーズをかじりつつ、「首尾は?」なんて尋ねるものだから、本当に図太いったらない。
「向こう三か月は追って来られないよう、懇切丁寧に心を折ってきたわ」
「首ではなく?」
「貴女と一緒にしないでほしいわね。姫様の御前よ」
「三か月立ち直れなくなる心の傷……結構なトラウマなのでは……?」
「さっさと諦めないアレの自業自得ですわ、姫様。お気になさらず」
そう……かなあ。自業自得、いや、マグダのこの性格を知っていて求愛してるんだからそれでいい、の、かなあ……?
なんとも言えない表情になる私に、マグダは微笑ましいものを見るように目を細めている。まるで幼子を見守る慈愛の瞳だ。とてもじゃないけど、ついさっき全治三か月の心の傷をつけてきた人間には思えない。ついでに私の前じゃなかったら首をぽっきりやっちゃってたかもしれない女傑にも見えない。
「しかし、厄介ですね。私たちを引き離しにかかるとは」
「見抜かれてるのよね、貴女たちがいないと、私に旅を続ける力なんてないって」
見抜かれるとか見抜かれないとかいうレベルじゃない、暗黙の了解ではあるだろうけど。 そりゃあ、十数年もずっと引きこもってた、どこに出しても恥ずかしい世間知らずのお姫様だもの。そもそもエリザとマグダ、ふたりしかお供にしていないだけで、ずいぶんな冒険だと思う、我ながら。
こんな私でも、王家に生まれた以上、個人資産なんてものがある。亡き母が嫁ぐ時に持ってきた持参金と、父王が生前贈ってくれた別荘とその周辺、本当に猫の額ほどの所領があるのだ。
当面この旅の目的は、あっちこっちふらふらしながらその所領に向かうこと。なんでまっすぐ向かわないのかというと、そこの管理を委任している代官がどうも不正をしているらしいということがわかったから、証拠固めのため、時間稼ぎをしているのだ。いや、していた、のだ。
「例の代官、どうだって?」
「表向き、告発者は別荘付きの家令ということになっているらしいわ。長年不正の片棒を担いでいたのに、見返りもロクになく罪を擦り付けられそうになったから、ですって」
「馬鹿だなあ。爵位もない平民が貴族の資産に手を付けるなんて、一族郎党死罪だろうに」
「告発というより、自首して減刑を望んだのでしょうけれど……」
五親等までの一族郎党死罪が、三親等に減じられる程度だろう。父母や子どもらはもちろん、兄弟姉妹、甥姪、孫に至るまでが絞首刑後野ざらしにされる。乳飲み子だろうと、容赦されることはないだろう。
冥界に送られた死者は、生者の弔いによって死後の生活が左右される。満足に埋葬もされず野にさらされるのなら、死後も流民か奴隷として永遠の苦しみを味わうと信じられているのだ。
私たちがまっすぐ領地に向かって水戸黄門よろしくババーンと不正を暴かなかったのもこのためだ。貴族に対する平民の犯罪、発覚した時の罰は苛烈で容赦がない。だからこそ、万が一貴族相手に何らかの罪を犯した平民は、文字通り死にもの狂いで隠滅を図る。死人に口なし、王女様なんて来ませんでしたと知らぬ存ぜぬを通されれば、お忍び旅の私たちの足取りを掴む方法などない。
だからこうして、慎重に慎重を重ねて遠回りしていたというのに……。
「裏で糸を引いてるのは、十中八九公爵です」
マグダを追いかけてきた文官は、どうやら色々と情報を吐いてくれたらしい。うん、どうやって吐かせたのかとか私は聞かない、聞かないからね。
王女、つまり私の財産を管理する官吏は当然城にもいて、王の代替わりが行われたのを機に、ずいぶん高齢だったその官吏も退職、引継ぎ書類を確認した財務官がおかしな数字に気が付いた……というのが、表向きの顛末だ。
裏はもちろん、その退職した官吏が私に不正の疑いありと奏上してきて、こつこつ溜めてあった証拠を持って後はお任せ申したとすたこらさっさ、引退してしまっただけである。なあなあで回していた責任を問われる前の鮮やかな撤退、流石あの王城でのらりくらりと生き延びてきた老官だけはある。
当然、引継ぎ書類など財務官僚に回しているわけがない。回しているわけがないけれど、回っていたことになった。あるいは、手を回して本当に諸々の証拠を財務官が入手できるようにしたんだろう。私たちが領地に乗り込む前に、片を付けるために。
「なんならあのお屋敷の前で待ち構えていそうですよね、殿下」
「やめてちょうだい、想像しちゃったじゃないの」
「いえいえ、ですが二度あることは三度ある、と言いますし。私、マグダ殿とふたり続けて『来た』わけですから、ね?」
「小首を傾げてかわい子ぶっても、言ってる内容がまったく可愛くないのよね……」
遠目にでもあの男が見えた日には、即馬首を巡らせて方向転換するからね、私は! そのための乗馬技術……あ、でも、念のため望遠鏡が壊れてないかよく確認しといてね、マグダ。豆粒くらいにしか見えない段階で即座に戦略的撤退ができるように。