その後番外編:裏切るならばあなたがいい
木造の牢の中、格子を挟んで向かい合う。多分、私はどうしてこうなったと、苦虫を噛み潰したような表情をしていたと思う。
そうか、この世界の技術では、まだ鉄格子の地方普及は難しいのだなと。両手を回しても届かない太さの木枠の向こうに押し込められて、現実逃避気味にそんなことを考える。
製鉄技術が帝国に独占されていたのも今は昔。例えばこの国の王宮にある牢だったなら、完全鉄格子完備だったのだけれど、幸か不幸かここは辺境にほど近い地方都市。木格子でもこれだけ頑丈そうなのだから、わざわざ高価な鉄を罪人の牢屋に使う理由もない。
じんわりと滲むように押し寄せる冷気に、ぶるりと震えて膝を抱える。どうして牢屋っていうのはどこも地下に配置されるのだろうか。
石造りの牢屋はまるで冷気を抱えているようで。旅装も碌にとかないままだからまだどうにか凍えずにすんでいるけれど、それでももう手足の先はかじかんで感覚がない。
公爵は、珍しく本当に驚いたような表情をした。ここにいるはずがないのに、とでも言うような。
「こちらとしても大変困っておるのです。まったく、不遜にも王女の名を騙るような」
「卿は、王宮に伺候したことがないのだったか」
「は?」
公爵を先導して来た男が振り返る。その先には、薄く笑みを刷いた公爵が。
その笑みをうっかり視界に入れた私は、ぞっと背筋が粟立った。のに、男にはまったく何も感じられなかったらしい。
多分、媚びるような表情でも浮かべたんだろう。男は媚びを大量に含んだ声音で公爵に話し続ける。
「ええ、ええ、お恥ずかしながら、未だ北の都には赴いたことがありませんで。いやはや、これも商売に精を出しすぎているせいですかねえ」
一歩、公爵が近づいてくる。
その間も男はずっと公爵に話しかけ続けているけれど、多分、あれはまったく聞いていない。そもそも男の存在自体、眼中にないようにも見える。
一歩、二歩。あちらが視線を逸らさないから、私はぷいとそっぽを向いてやった。子どもっぽいってことは自覚してる。
でも、あの瞳は。あの緑の瞳だけは駄目だ。
射すくめられて、逃げられないという気分にさせられる。だから逃げたい。こっちを見ないでほしい。
「姫」
公爵が私を呼ぶ。ずっと話し続けていた男が、ひゅっと息を呑む音がした。
「貴女の護衛たちは、有能なのか無能なのかわかりかねますね」
それは、僅かな間でも公爵の監視を振り切ったことを言っているのだろうか。それとも、今こうして護衛対象である私があっさり牢に入れられちゃっていることを言ってるんだろうか。
前者なら、私の大切な幼馴染と、問題児過ぎるけれどそれなりに付き合いの長い部下なら当たり前だと答えるけれど。後者の方は、正直言い訳のしようもない。
「ひひひひひ姫と、姫と、仰いましたか閣下!?」
ではこの方は。狼狽し、ざっと血の気を引かせた男を、公爵は手のひと振りだけで追いやった。
飛ぶように男が逃げて行く。ああ、あれは夜逃げされるなと。耳障りな音を立てて閉まった地上に続く扉の向こうで、何事か使用人たちに怒鳴り散らす男に思う。
最悪だ。土壇場で捕らえ損ねて、それどころか自分が捕まって。そうして結局、逃げられるなんて。
国の内外を遍歴するにあたって、私は当然身分証明書を持ち歩いていた。直系王族にしか所持を許されない、特殊な印章。材質も、かけられた魔術的な守りも、偽造しようと思ってもできない、高価なもの。
だから、油断していたんだろう。
(まさか、本気で私の旅券を『贋物』として握りつぶそうとするお馬鹿貴族がいるなんて)
王族としては、この土地の領主も自分の臣下ということで。悪事に手を染めるにしてももう少しやりようがあるだろうと、他人事ながら情けなくなってくる。
最初に耳にしたのはただの噂話だった。ある男爵領で、移民を積極的に受け入れているのだというもの。根無し草の生活に飽いた旅人や冒険者、各々の事情で生地を追われた人々が、その領に行けば住む家と仕事をもらえるのだという。
胡散臭いですね、と初めに断じたのはエリザ。あの土地にそこまで多くの人間を受け入れる体力はなかったはずではと資料を引っ張り出してくれたのがマグダ。
ちょうど直前の橋の人身御供云々の騒ぎがひと段落したタイミングだったこともあり、それじゃあ次の目的地はその男爵領にしましょうかと、軽率に行先を決めたのが私である。今は反省している。あまりにも軽いノリ、その場の思い付きで決めてしまっていたと。
移民として受け入れられたはずの人々が、奴隷同然の扱いを受けていたこと。元々の領民たちはそれを当然のように思っていて、領主ともども、面白おかしく遊び暮らしていたこと。目の当たりにした時は、憤るより何より、愕然としてしまった。
私が前世、古代ギリシャやローマ時代の在り様を思い出したのも仕方がないと思う。なるほど確かに、領主が移住を望む人々に住む家と仕事を斡旋していることに間違いはない。嘘は言っていないではないかと、ふんぞり返る領主の言い分も、百歩譲って認めよう。だけど。
現状を探り、なるべく詳細な報告を弟王にしようと欲張ったのが悪かったのか、狭い土地柄で悪目立ちしていたのか。多分どっちもだろうけど、領主の私兵に「国家反逆罪」とやらを着せられて追い立てられた時は、流石に言葉が出なかった。え、私? そっちじゃなくて? と。
身分証明のための旅券には、バッチリしっかり「王女」であることを示す印章が刻まれていたのだけれど、贋物扱いされればもうどうしようもない。逆にこれこそ国家反逆罪の証として、嬉々として地下牢に押し込められた。
さっき逃げて行った男は、男爵に使われていた商人だ。もちろん、売買している物品は後ろ暗いものばかり。
領主だけじゃない。この土地は、領民ごと腐敗していた。
マグダはちゃんと、私の指示通り動いてくれているだろうか。弟に宛てた手紙は、握りつぶされず届いただろうか。エリザは、無駄に敵を作って戦闘狂さながら暴れていたりしないだろうか。
「気になりますか」
公爵が尋ねる。何を指しての言葉だろう。
姫。格子越しの声にさらに顔を背ける。拗ねた子供みたいだと自嘲するも、まともに顔を見て会話したい相手ではないのだ。
「強情ですな」
笑う気配。聞き分けのない子供に言い聞かせるように、低い声が続く。
「私は何も、貴女に苦行を強いたいわけではないのですよ、姫」
ああまったく、なんて無駄に良い声をしているのだか!
うなじの辺りがぞわぞわと落ち着かない。私は絶対に相手の顔なぞ見てやるものかと決意を新たにした。
「貴方は」
はい、と公爵が答える。嫌味なほどに礼儀正しい男だ。
「何故、この土地をずっと見逃してきたの」
「姫は、どうお考えですかな」
質問に質問で返すとは。私は思わず公爵を睨みつけてしまった。
声の近さから薄々気づいていたけれど、公爵は本当に格子のすぐ傍に立っていた。
緑の瞳がゆるりと細められる。確かに笑んでいるのに、そこに浮かぶ感情は驚くほど酷薄だ。
「奴隷のように扱われても、漂泊の日々を続けるよりはと集う者達がいる。自らが自侭に暮らせるのならば、他者などどんな目に遭っても構わないという者達がいる。始まりは、利害の一致に過ぎないのですよ、姫」
「追い詰められた人間の弱みに付け込んで、一方的に搾取するための詭弁にしか聞こえなくてよ」
「さて、ではどうなされますかな」
あの怠惰な領民たちを見ただろうと。公爵は言葉にせず問いかける。
元の世界、旧約聖書に登場するソドムとゴモラの二都市を思い出す。堕落した人々。神が怒り全て流し去った悪徳の町とは、この土地のようであったのかもしれない。
昼日中から酒を飲み、歌い、放埓に騒ぐ人々と、ぼろぼろの布一枚を纏い、時に鞭を振るわれながら労働する人々と。
その在り様に納得できないのは、私が平和な世界で生きていた記憶を持つ人間だからだろうか。これは、無関係な人間の余計なお節介なのか?
いいや。私は首を振る。
「埃を被った法律でも、存在する以上遵守させるべきでしょう」
「おや、ここで帝国法を持ち出しますか」
「表向きの形式がどうあれ、事実上の奴隷制を認めては、近隣諸国に付け込む隙を与えかねない。それは困るのよ」
ただでさえ、帝国ではもう小規模な小競り合いが起き始めている。
最初にフラウルージュから血痕の付いた手紙が届いた時は面食らったものだ。「ちょっとこめかみに傷が付いた」とあっけらかんと書いてくる程度に、彼女の方もごたついているらしい。
いずれ、小競り合いは帝国内だけでは収まらなくなる。元帝国貴族たちも、それぞれ支持する皇子皇女を担ぎ上げ始めている今、付け込む隙を見せればどうなるか。下手をすれば、地図からこの国が消えかねない。
それがわかっているのか、いや、わかっていて敢えて放置していたのか。公爵は僅かに首を傾げた。
「姫は、この国を守りたいとお思いで」
「最低限、王族として生まれた義務だと考えているわ」
ふっと、公爵は小さく息を吐く。
眩しいものでも見るように目尻を下げ、瞬きひとつした後は、緑の瞳はもう穏やかな光をたたえていた。
「感情論や倫理観を盾にされたのであれば、表舞台から退いていただくよい口実になったのですが」
おもむろに袖口から公爵が何かを取り出した。
反射的に身構えて、ランプの光を反射する小さな金属を注視する。
真鍮の鍵。それは恐らく、この牢の鍵だった。
「残念です。私はまだ、貴女をお迎えできないらしい」
牢の鍵が開く。格子戸を開け、一歩、公爵が退いた。
……何を、考えているんだろう。私はじっと公爵を見上げた。
王都を後にして、あちこちさまよって。この男は何度も私に接触してきたし、その度に自分の元に来ないかと、誘い文句のようなことを言ってきた。
実際、本気で私の身柄を確保しようと思えば、この男にはとても簡単なことなのだ。公爵という身分、使える手駒、彼自身の頭脳に武力。どれを取っても私とマグダ、エリザだけの三人に抗いきれるものではない。
お誂え向きに、私は旅の途上。消息を絶っても、捜索はされるだろうが行方知れずのままでも誰も疑問に思わないだろう。せいぜい、どこぞの野辺に立つ十字架の下に埋葬されているかもしれないと思われるだけだ。
だけど、これだけ都合がいい条件が揃っているのに、公爵は強引に私を連れ去りはしない。私が断れば、ある程度食い下がった後に去っていく。まるで模範的な紳士のように。
「……貴方が何を考えてるのか、まるでわからないわ」
そもそも、この男が何を考えているのか、わかったことなんて一度もないけれど。
警戒よりも困惑を露にする私に、公爵は何も答えない。
相変わらずの薄い笑み。胡散臭くて不気味にしか思えないけれど、これがイイという貴婦人も少なくないのだから、世間一般の美意識というものはよくわからない。
バタバタと喧騒が近づいてくる。微かに聞こえるのは、あれはマグダの声だろうか。私のことを呼んでいる。そこにエリザが茶々を入れて、マグダが怒声を返すまでがワンセットのようだ。
(……何してるの、あの子たち)
額を押さえる。
いつも通りのやり取りといえばいつも通りなのだけど、妙に力が抜けるのは何故だろう。うん、いつも通り過ぎるからかな。
「姫様ああああぁぁぁ!!」と叫ぶマグダの声は渾身の力が込められ過ぎてるし、「あっはっは! 化けの皮、いや、猫の皮がはがれてるぞ、マグダ殿!」と笑い声を上げているエリザはもう本当自重してほしい。
あ、野太い悲鳴。エリザの高笑いもする。ああ、捕まえたんだね……うん、有能だよ、君達……有能なんだけど、「阿鼻叫喚」とか「惨憺たる有様」みたいな言葉しか浮かんでこないのは何故だろう。
おやおや、と公爵が肩を竦める。居たたまれない。身内がやんちゃ、というかはしゃぎ過ぎてるところを知人に見られた気分だ。恥ずかしいとは言わないけど、さっきまでとは違う意味で「こっちを見るな!」と言いたくなる。
いいんですか、と面白がる瞳で問われた。警戒して、意地を張ったままだとあのふたりによる被害がもっと増えるぞと、言われずとも悟る。
立ち上がる。ずっと座り込んでいたからか、少し背中と腰が痛い。石の床に直座りは、流石に堪える。まだ土の床の方がマシだった。
牢の扉をくぐると、すかさず公爵が手を差し出してきた。もちろん、そこに手を重ねたりはしない。公爵も、小さく苦笑するだけですぐに手を引いた。
地上に繋がる階段を上がる。すぐ後ろに公爵がついて来たけど、そんなことより徐々にひどくなっていく外の阿鼻叫喚っぷりの方が気になる。
「私と妹は、元々あまり似ていないと思っていたのですが」
「似ていないでしょう。貴方と王太后とでは、まったく」
「ええ、私もそう思っていました。ですが」
する、とうなじの後れ毛を掬い取られた。
びくりと肩が跳ねる。何をするのかと振り向くと、公爵は背筋が寒くなるような甘ったるい瞳をこちらに向けていた。
「『こんな国、いっそ滅びてしまえばいいのに』」
「っ」
「ご存知でしょう。他でもない、私の妹が貴女にこぼした言葉だ」
足が止まる。
階段の途中、私が先に歩いていたせいで、目線は同じ高さにある。
私も彼女も、黒衣に身を包んでいた。私の母の喪がまだ明けていなかったのだ。喪服の花嫁。彼女は父に嫁いできた時、そう呼ばれていた。
臣下として父に仕え、初の女公爵となるはずだった彼女が、あの時何を思っていたのか。正確なところはわからない。でも確かに、やりきれなさそうに、内に秘めた激情を押し殺し、それでも抑えきれなかったかのように、彼女はそう呟いたのだ。
「こんな国、いっそ滅びてしまえばいいのに」、と。
私の表情を見て、公爵は口の端を吊り上げた。
「同じですよ。滅びてしまえと願いながら、ただひとりと決めた人が守れと言えば、その言葉には逆らえない」
似ているでしょうと、公爵は言う。私は何も答えられなかった。
「姫様、ご無事でしたか!」
地上に戻ると、そこはまさに阿鼻叫喚の惨憺たる有様だった。
ごろごろ転がる人々を、エリザがにこやかに足蹴にし縄で縛っていく。両手両足を一緒くたに固定する徹底ぶりだ。あれではロクに力も入らない。棒で吊るせば家畜を屠殺でもするかのような格好になるだろう。
駆け寄ってきたマグダは、返り血こそ付いているものの無傷のようだった。そのことに、頼もしさと空恐ろしさを同時に感じる。何を目指しているんだろうか、私の家族は。
だけど、安堵と喜色に溢れた笑みは、一瞬で敵意に満ち満ちたものに変わる。原因は言うまでもない。当然のような顔をして私の後ろに控える公爵のせいだ。
「状況を報告してもらえる?」
まあ、この反応もいつものことなので、何事もなかったようにスルーさせてもらおう。べ、別に暴走列車上等、アドレナリン分泌されまくってる状態のマグダが公爵に突っかかって行くのを宥めるのが面倒くさかったとかじゃない。ないったらない。
バリバリ公爵を警戒しながらも、マグダは私に倣って公爵をいない者扱いすることに決めたらしい。エリザ、他人事だと思って楽しそうに傍観してるんじゃない。
「ご指示通り、近隣から手勢を集めて領主邸に侵入、男爵並びにその妻子、側近たちの捕縛は完了しました」
「そう。領民たちは?」
「逃げ出したみたいですねえ。後ろめたいと思える程度に理性を保ててる連中は」
剣を担いでエリザが寄って来る。……マグダがお仕事モードになったから安全だと思ってやって来たな、この子。
つい胡乱な目になる私に、エリザは異常に爽やかに笑いかけた。それで誤魔化されるのは貴女の本性を知らない相手だけだからね?
「それで、どうしましょう? 逃げた領民も追いますか?」
「ただの領民なら追う必要もないでしょう。ただし、ここで何らかの地位を持っていた者は捕縛したいわ。自ら望んだ移民とは別の、人身売買に関わっていた可能性があるもの」
「御意に。ではまた暫し、御前失礼致します」
胸に手を当て、エリザは騎士の礼をする。
次いで、私はマグダに視線を向けた。
「マグダは私と。増援部隊の旗頭は誰? 少し話を」
「それならば、私が伺いましょう」
「…………」
マグダを見る。物凄く不本意そうに顔を歪めているけれど、反論はない。
顔だけ後ろに振り向けば、公爵はわざとらしくにこりと微笑を浮かべた。
(……近隣諸侯で、旗頭になっても表向きどこからも文句が出ない高位貴族、とは言ったけれど)
なるほど確かに、筆頭公爵と名高いメデルゼルク公爵が旗頭ならば、どこからも文句は付けられないのだろう。マグダ同様、物凄く不本意ではあるけれど。
「……事態の収束と、その後の領地経営について話をしましょう。他諸侯に話す前に、ある程度固めておきたいの」
「姫様」
「良いですな。我が姫から直々に助力を請われるとは、想像以上に心地良い」
「公爵」
少し強めに公爵を呼ぶ。が、多分まったく効果はなかった。
「姫の命なら如何様にでも。さあ、それでは参りましょうか」
「マグダ、領主邸まで馬の手配を。どうせなら事情聴取も一緒に済ませてしまいましょう」
領主邸に、の言葉に公爵が肩を竦めている。信用がない? あると思っているのなら、侍医に診てもらうべきだろう。主に頭を。




