その後番外編:いずれ覇道となる歩み
その音は、人ひとりの命を奪ったにしてはあまりにも軽く響いた。
日が落ち夜闇が空を覆うまでの僅かな時間。薄明の空に二度、三度と鮮烈な光と音が瞬く。
襲撃者たちはもちろん、それを迎え撃つ者たちもまた声ひとつ洩らすことなく、気が付いた時には全ての襲撃者たちが地に伏していた。そのことに、イズミルはもう何度目かわからぬ戦慄を覚える。
彼の隣では、襲撃者たちが最初の一矢を撃ち込んできた時もそれ以降も、変わらず近くの樹木に背を預け、黙々と隼が持ってきた書に目を通すフラウルージュが佇んでいる。自ら襲撃者たちを迎え撃つことも、また護衛の騎士たちに指示を出すこともせず、ただひとり我関せずとばかりに。
全員を縛り上げ、その処遇についての判断を仰ぎに黒髪の騎士が歩み寄って来る。そこでようやくフラウルージュはちらりと視線を上げた。
「ロシュフォリアの刺客なら捨て置け。どうせすぐに自害する」
「そうならぬよう、処置したつもりです」
「連れて行くのは手間だ」
にべもない。再び書に目を落とした彼女に、黒髪の騎士はため息を吐いた。
そして、ひとり茫然とするイズミルを安心させるように苦笑する。
「……置いて行くのか」
「主命ですので」
「だが、ここは〈闇の森〉だぞ」
その名の通り、闇に属するモノ――魔物や悪魔、悪霊、魔女たち――が支配する森だ。そのただ中に四肢を拘束したまま置き去りにするということは、つまり見殺しにするということ。
イズミルが襲撃者たちが辿るであろう末路に気を重くしていると、拘束された者たちは突然、次々と頭を落としていった。
ぱっと黒髪の騎士が振り向く。監視に当たっていた騎士たちが襲撃者たちの首筋に手を当て、首を横に振った。
フラウルージュがため息を吐く。広げていた書を畳んだ。
「埋めていくぞ。死霊にでもなられたら、始末が面倒だ」
シジェス王国を発って、三日。襲撃の回数は両手の数をとうに超えた。
少しでも早く帝都に着くため、フラウルージュが選んだのは土地の者ですら深奥に立ち入ることを忌避する〈闇の森〉を横断する道程だった。
〈闇の森〉は帝国の東北東から南東にかけて広がる広大な森林で、その向こうにある草原の支配者たる騎馬民族の侵略に対する天然の要塞でもある。昼間でも薄暗い森は奥へ進むほど闇を深くし、恐ろしげな逸話には事欠かない。実際、記録にあるだけでも百年以上前から多くの行方不明者を出しており、魔の森と俗称されることも多いのだ。
シジェス王国から帝都を目指すならば、大きく西に迂回する道程を取るのが普通である。確かに森を抜ければ日数は二日以上短縮できるはずだが、それはあくまでも地図の上での話。実際に〈闇の森〉全域を踏破した者は未だひとりもおらず、土地の者に案内を頼もうにもその土地の者たちですら森の端がはっきり見えるところまでしか森に分け入ったことがないという。
無謀だというイズミルの主張は、当然のように黙殺された。宥めるように黒髪の騎士が行きも同じ道程だったのだと教えてくれたが、安心などできようはずもない。
(だが、彼女のあまりにも早い到着の謎はそれで説明できてしまう)
兄デュエロの予想では、フラウルージュに追いつかれた時には既に大勢が決しているはずだった。まさか彼女が〈闇の森〉を横断するなどという道程を取るなどと、予測できたはずもない。
フラウルージュの言葉を受け、黒髪の騎士が指示を出していく。
墓穴を掘るのもこうたびたび襲撃を受ければ手馴れたもので、騎士たちは剣を収めた鞘で手早く穴を掘り、そこに作法通りに死体を入れ、聖水を振る。短い呪句は、本来冗長な祈りの言葉を短縮した、主に戦場で用いられる言葉だった。
最後のひとりを埋め終わると、土の下に眠るものがいることを示す印をフラウルージュが地面に突き刺した。十字に組まれた枝には、いつ用意したのか小さな花輪がかけられている。
「来世は、もっと主君を選ぶんだな」
外套を払う。それを合図に、一行は再び歩き始めた。
先頭を行くのは赤毛の男だ。フラウルージュとイズミルを除いて、一行の中でただひとり騎士の格好をしていない。腰に下げた剣もなく、旅には不向きなつま先が反り返った靴を履いているというのに、僅かたりとも疲労を滲ませはしなかった。
イズミルがまだ成長途中にあることを差し引いても、見上げるほどの大男だ。筋骨隆々という体型ではないが、引き締まった体躯は適度に筋肉がついている。中でも異彩を放つのは、顔の右半分を隠すつるりとした陶器の仮面。夜が迫る森の中ではあまり見ていたくはない不気味さがある。
「姫さん」
赤髪の男がフラウルージュを呼ぶ。
気安い口調に最初の頃こそ目を白黒させていたイズミルだが、流石にもう慣れた。慣れた、が、違和感を覚えないかと言えばそれはまた別の話である。
外套のフードを下ろし、フラウルージュがイズミルの横を抜ける。追随するのは黒髪の騎士だ。
イズミルには何も見えない空間を、赤髪の男が示す。フラウルージュは鬱陶しげに髪を払い、おもむろに懐から何かを取り出した。
(あれが、魔導銃)
帝国で、いや、恐らく大陸中でただひとり、フラウルージュだけが扱う武器。
ヴァイルハイト男爵家が抱える技師の天才的な手腕は有名で、中でも魔力を動力として作動する機工機関に関しては他の機工機関技師とは比べ物にならないほど高度な技術力を誇っている。彼の家の人間が当たり前のように使っているほとんどの機工機関を、他の技師が作り出そうとすれば後百数十年かかると言われているといえば、その並外れた技術力が理解してもらえるだろうか。
当然、それほど優れた技術となれば血眼になって手に入れようとする人間は幾らでもいる。だが問題の技師はかなり手厚くヴァイルハイト男爵家によって保護されていて、居場所は疎か姿すら誰も見たことがないとされている。領地の広さも豊かさも、目ぼしい資源すらない男爵家が、帝国内でも一定の発言力を有する理由が、彼らの抱える技師の存在であった。
中でも、魔導銃に関してはフラウルージュが持つ二挺しか存在しておらず、彼女が持つ魔力でしか作動しないという念の入れようである。身体能力的に劣る彼女が、並み居る男たちにも劣らぬ戦闘力を誇るのはそのためだ。
大砲ならばいざ知らず、ひとりで持ち歩きが可能な小型の銃自体、最近になって開発されたばかりの武器である。一度に装填できる弾数も限られ、予備の弾を用意するにも限りがある。その点、魔力が尽きない限り弾切れの心配がなく、普通の銃に比べ遥かに銃身が軽いフラウルージュの魔導銃は文字通り彼女のために作られた武器であった。
銃身に刻まれた術式をなぞり、最後に指で弾く。そうすればちょうどなぞった部分だけが赤く光り始めた。
物質に特殊な術式を刻み込み使用する魔道具の類は、確かに他にも存在する。魔術士という限られた人的資源ではなく、より多くの人間が魔術士相当の魔術を行使できるよう、特に戦乱に明け暮れた暗黒時代に盛んに開発された技術だ。
だが、それを持ち歩き可能なほど小型に改良したのは、イズミルの知る限りヴァイルハイト男爵家の技師のみ。しかも、それを機工機関と組み合わせるなど、他の誰も成功していない境地である。
フラウルージュが引き金を引く。放たれた光弾は何もないはずの中空で弾け、罅を入れるように広がっていく。
硝子の割れる音に似た、硬質な破砕音が響いて、次の瞬間には一行の前に目深にフードを被った見知らぬ人間が現れていた。
「ご挨拶だね」
怒りと言うよりは、呆れ混じりにフードの人物が言う。女の声だった。落ち着きはあるが、老いた印象はない。
いきなり現れた人影に身を固くするのはイズミルだけで、フラウルージュはもちろん、彼女に随行する騎士全員が当たり前のようにフードの女の存在を受け入れていた。
「この森は一応、関係者以外立ち入り禁止なんだけど」
フードの女は、居並ぶ武装した男たちには目もくれず、先頭に立つフラウルージュだけを見る。
迷惑そうな態度を隠そうともしない女に、フラウルージュは肩を竦めた。
「文句なら、道案内を買って出たシュグルに言え」
「盟主」
「悪い悪い」
へら、と赤毛の男が軽薄に笑う。悪いと言ってはおきながら、微塵もそうは思っていないことは明白だった。
「行きを通せば帰りもある。予想できたことだろう?」
「そうは言ってもね、お姫様。人が増えるなんて聞いてなかったよ」
矛先を向けられて、イズミルは表情を硬くした。
彼以外、フラウルージュの一行に増えた人間はいない。フードの下からじっと見知らぬ視線が投げられるに、イズミルは強いて挑むように見返した。
ふい、と女の視線が外れる。今度は黒髪の騎士を向いて、「アンタも苦労するね」と小さく呟いた。
黒髪の騎士は「もう慣れた」と苦笑する。言葉とは裏腹に不満のひとつも滲まない表情に、女は仕方がないかとため息を吐いた。
「増えた子の分、代価は上乗せしておくれよ、お姫様」
「後でシュグルに届けさせるさ」
「約束だよ。いいかい、これは森の魔女との契約なんだ。破ったらひどいからね」
では、お行き。
その言葉を聞いた瞬間、イズミルの視界は暗転した。
倒れた子どもを部下に背負わせ、黒髪の騎士はそっと前方を盗み見る。
並んで歩く片割れは、今はシュグル・アル・ルカアと名乗る赤毛の男。大柄な体躯をして、鮮やかな緑の瞳をくるりとおどけて回してみせた。
「何か言いたそうねえ、隊長」
「……せめて事前に説明くらいしてやれればと思ってな」
「そのガキに?」
「イズミル殿下、だ」
仮にも帝国の皇子をガキ呼ばわりしたことを諌めると、シュグルはひらひらと手を振ってそれを遮った。
本来ならば三日以上かかる迂回路ではなく、森を抜けることで行程はかなり短縮できたと言えるだろう。騎士の見立てではあと二日。それだけあれば、帝都の姿が見えるはずだ。
だが、フラウルージュやシュグル、そしてイズミルまでもが揃ったこの顔触れでそれほど順調に旅程が進むはずがない。
森の主はフラウルージュとの取引を承諾し、一行を森の出口まで一気に転送した。魔法での移動には身体面と精神面の双方に負荷がかかる。
結果、何の説明もなされずに転送魔法を受けたイズミルは当然のように気絶した。それを見たフラウルージュが、一瞬何が起こったのかわからないという表情をしていたことに騎士は頭を抱える。
彼女は、本当に、心底、転送魔法の影響でイズミルが倒れる可能性など、微塵も予想していなかったのだ。
一方、そういう方面に疎い彼女とは違い、いわば専門家でもあるシュグルにこの事態が想像できなかったはずもないのだが、ことこの男に誰かへの気遣いを求めること自体が間違いである。まして相手は皇族である。馬の鞍にでも括りつけておけばいいと適当なことをのたまうので、流石に騎士が嗜めた相手はまだ子供だぞ、と。
「シジェスは荒れるな、これから」
不意に、フラウルージュが言った。
皆が彼女を見る。代表して声をかけたのは、シュグルだった。
「どーしてそう思うのか、聞いてもいい感じ?」
「メデルゼルクと話した」
はた、と空気が固まる。
平然とした表情をしているのはフラウルージュばかりで、騎士たちはもちろん、いつもは飄々としているシュグルですら、パシリと額に手を当てて天を仰いだ。
「なんつー命知らずなことしてんの、姫さん……」
「いったいどんな男かと思ってな。いや、なかなか有意義な時間だったぞ」
「……いつですか」
黒髪の騎士が呻く。護衛役の苦悩を、フラウルージュは「王女が茶会を開いている間にな」とまるで気に留める様子がない。
「隊長、アンタあんなに付きっきりで姫さんの護衛してたのに……」
「まあそう責めるな。ルシアスは生真面目だからな。自己嫌悪で憤死されたらかなわん」
「でしたら、どうしてそのようなことをなさったのですか!」
ルシアス、と呼ばれた黒髪の騎士は、耐え切れずそうフラウルージュに詰め寄る。
彼は彼女の護衛だ。随行する一隊をまとめる隊長でもあるが、それよりも彼女の護衛任務の方が優先される。
語弊を覚悟で言えば、ルシアスにとって、フラウルージュさえ無事であればそれで良いのだ。今回、万が一滞在中にシジェス王国で内乱が起こったとしても、彼女ひとりならばなんとしてでも国外に逃がす覚悟はあった。
それが、己の知らぬ内に最も危険視していた相手と接触していたなどと。
納得いく説明がもらえるまで一歩も引かぬ構えのルシアスに、フラウルージュはふと口元を緩めた。
「よく似ていたよ。あの男は」
「似ていた?」
「たったひとりのためならば、どんなことでもやってのける気構えが、な」
シジェスは荒れる。繰り返し、最も、とフラウルージュは不敵に笑った。
「帝国はそれ以上に荒れるかもしれんがな」
「そーならないように、今急いで帰ってんでしょうが」
「違いない」
「お待ちください、今のはどういう……!」
「ルシアス」
フラウルージュは先を歩む。
その後を当然のようにシュグルが付き従い、ルシアスが慌てて二人を追う。
かつての光景をなぞるような構図にルシアスが既視感を覚えるより前に、フラウルージュは視線だけで振り返った。
「お前とあの男は似ていたが、私はシジェスの王女と似ても似つかない。そのことだけは、シジェスにとっての幸いだろうよ」
ルシアスは、暫し言葉を失った。
シジェスにとっての幸い。であれば、帝国にとっては。
「さあ、急ぐぞ。ようやくここまで整えた舞台だ。あの女狐が台無しにする前に、全ての始末をつけなければな」
ルシアスが追う背中は、もう振り返らなかった。かつてのように。