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王女だけど悪役に目を付けられたのでヒーロー求む。  作者: 北海
それから、あれから

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20/26

その後番外編:王国の誉れ

 施政者として振るう最初の采配は、罪人の処刑だった。

 暗い地下牢は罪人の垢と埃で饐えた臭気が篭っている。湿った空気がまとわり付くのを払うように足を急がせれば、石床が硬質な音を高く響かせた。

 案内の兵がある牢の前で足を止める。そのまま無言で脇に避け、ユノーを待った。

 その前に立つことを、ユノーは暫し逡巡した。或いは恐怖のようなものであったのかもしれない。

 思い出すのは鮮烈な緋色。奇しくもこの場所に似た地下洞で、牢に囚われた罪人は咎を負った。王族に剣を向けるという咎を。

 二歩。たったそれだけで向かい合った牢の中は暗く、伸びる無骨な鎖だけが罪人の位置を示す。

 控える兵が掲げた松明で露になった罪人の姿に、ユノーはぎゅっと眉を寄せた。

「起きてるんだろう、キール」

 じゃらりと、鎖が耳障りな音を立てる。

 闇の中、松明の明かりにまぶしそうに細められた瞳は、確かにユノーが知る男のものだった。たとえどれほど変わり果てた姿をしていても。

 罰を下されるため、最低限命をつなぐだけの手当てはされている。だが、活発に動くには血が足りていないのだろう。罪人を管理する兵たちは驚くほど優秀だ。処罰が決定しない限り、ありとあらゆるものから囚人たちの命を守り抜く。あのメデルゼルク公爵からですら。

「ああ……でん、か……いや、へーかに、なったんだったか……」

 乾いた舌は、満足に言葉を操らせもしない。ひび割れた声にユノーは痛ましげな顔をし、キールは自嘲する笑みを唇に刻んだ。

「それで……公爵あたりにせっつかれて、俺をころしに、でも」

「理由を」

 ぽつりと、どこかで雫が落ちた。

「理由を聞きにきたんだ、キール」

 そうじゃないと、何もわからないからと。

 かつて最も信頼し、兄のようにすら思っていた男に対して、ユノーはただそう言った。愚直なまでに、真摯に。

 父であり、今は先王と呼ばれるようになった男の死後起こったごたごたは、全て「なかったこと」にされている。ユノーが王位を放棄し亡命しようとしたことも、公爵が王族に刃を向けたことも、公女の怪我も、全て。

 何事もなかったかのように先王の葬儀は粛々と行われ、喪が明けるのを待たずユノーが王位を継ぐことが決定した。大々的な式は後日、喪が明けてから行うことになっていたが、応急的な措置として一部貴族と王族だけが臨席した式を行い、非公式ながらユノーはもうシジェスの国王となっている。

 何事もなく決まった措置というわけではない。いくら権勢を誇る一族とはいえ、ユノーに剣を向け、他国の公女を傷つけた公爵を事実上の無罪放免とすることに異を唱える者は当然いた。実の妹である王太后こそが、その筆頭であったことは言うまでもない。

 王宮は割れた。王太后の追及の手に賛同した貴族は多くなく、だが少ないとも言い難い。メデルゼルク公爵家ばかりが勢力を増していくことを、面白く思わない者たちは無責任に騒ぎ立て、対立する両者の溝は深まるばかりである。

 帝国に有事があった今、国を二分するわけにはいかないとひとまず今は抑え込んだが、不満が残ったのは間違いないだろう。よもや新国王までもが公爵派なのかと、向けられる視線の厳しさをユノーは重々承知している。

(この国は、「王」の立場が弱すぎる)

 情けない。ユノーは拳を握り、俯きそうになる己自身を叱咤する。

 自分は特別愚鈍ではないけれど、突出して優秀でもなく、可も不可もない凡庸な男だなんて、今更実感するまでもない。ユノーにとって、いや、シジェス王家にとっての不幸でもあり、幸運でもある事実である。

 もしユノーがもう少し賢ければ、メデルゼルク公爵に王位を譲り渡していただろう。もう少し愚鈍であれば、王国内の不穏分子として公爵派の粛清に着手していたかもしれない。選択は違えど、その先にあるのは同じ未来だ。つまり、メデルゼルク公爵がシジェスの王になり、即位の正当性を確立するために、王女を娶って前王家の血筋を取り込むという未来である。

 ――異母姉である王女に公爵が執心しているという噂を耳にした時、ユノーの胸には驚きではなく安堵が広がった。次期王という重い荷が、あの時確かに下ろされた気がしたのだ。

 この時代、伯父と姉程度の年齢差など珍しくもないことである。敢えておかしなところを挙げるとすれば、姉はともかく伯父が初婚であるということだろうか。ほんの数十年ほど前までは、男子は精通、女子は初潮が来れば最初の伴侶を迎えていたものである。

 それもこれも、出産の際に母子ともに命を落とすことが多かったからだとユノーは知っている。殊に男子の死亡率は高く、母体もまた、産後の肥立ちが悪くて亡くなる女性が多かった。

 改善のきっかけは、暗黒時代の終焉である。数多の国が興り、滅んだ戦乱の時代、医療技術は専ら戦闘による怪我の治療に特化した発展を繰り返し、出産や病に関しては医者ですら気休めのまじない程度しか知識を持っていなかったのだ。

 完全にとは言い切れないものの、一応の平穏を大陸が享受し、そこでようやく各国が減り過ぎた人口の増加に乗り出した。出産時の母子死亡率の低下は、シジェス王国だけでなく、大陸中全ての国々が求めたことだったのである。

 成人年齢の引き上げによる、初婚年齢の引き上げ。そうすれば出産年齢も上昇し、それだけで目に見えて死亡率は低下した。残る医療分野については、今もまだ研究が続いている状況である。

 とは言え、流石に伯父の年齢まで独身を通すなど、妻帯を禁じられた聖職者くらいしかいない。ユノーたち姉弟の父であった国王よりは年下とはいえ、ユノーと同じ年齢の子どもがいてもおかしくないどころか、それが貴族の男としては普通であるはずなのだ。

 わからないなと、ユノーはもう何度目かの思いを公爵に抱く。伯父甥という間柄から、恐らくは母親ですら知らないところで交流を続けてきたが、それでもユノーにはわからない。伯父の考え方も、本当は何を望んでいたのかも。

「あそこで姉上を殺さなければ、俺が伯父上に殺されると……本当にそう思ったのか」

 拷問吏に吐いた、キールが姉王女に斬りかかった動機。

 実際に口にして、ユノーはその違和感に眉を寄せた。

 まさか、と吐き捨てる。もうほとんど、侮辱された気分に等しかった。

「お前は、お前までもが、伯父上が姉上を愛していることを、――信じていなかったのか」

 キールは答えない。だが、閉じた瞼がその答えだった。

 誰もが、殊に公爵と対立する貴族のほとんどが、王女に求婚する公爵を王位への執着の表れとしか見ていない。まさか本当に公爵が王女を愛しているなんて、信じるどころか、想像すらしたことがないのだ。

 だから、王女は侮られる。誰しも、彼女をユノーを除いた後、王国を手に入れるための駒としか見ない。或いは、ユノーが安穏として王位に在り続けるためには不要なものとして。かつてのユノーの取り巻きたちがそうであったように。

 彼女が何もせず引き籠っていてくれたからこそ、この国は今まで仮初の平穏に微睡んでいられたというのに。何もしないことこそが、姉として、この国の王女として、彼女ができる最善であったのだと、どうして気づこうとしないのだろう。

 あんな女。キールが掠れしわがれた声で嘲笑する。

「実の母親にすら捨てられた出来損ないを、いったい誰が愛するって言うんだ」

「……先代王妃は、この国を帝国に売ろうとした大罪人だよ。表沙汰になっていないけどな」

 実際、亡き王妃の遺品からは帝国の皇妃と交わした親しげな手紙が何通も見つかっている。皇妃に乞われ、この国の内部事情をかなり深くまで漏らしていたであろうことは文面からも明らかだった。

 先代王妃亡き後のガル公爵家の急速な権力失墜の背景がそこにある。養女で直接の血の繋がりはなかったとはいえ、仮にも王妃にまでなった娘が、この国を帝国に売り渡す密約を帝国の皇妃と交わしていたのだ。ガル公爵の関与は否定されたが、監督不行き届きとして事実上の王都追放処分をガル公爵自らが願い出て、夫であった先代国王はそれを受諾した。また、王女への影響を危惧した面々によってガル公爵は孫と面会する権利すら剥奪されて、年に一度、王女の誕生日に贈り物をすることだけが唯一残された接点となった。

 もちろん、その一連の流れにメデルゼルク公爵が一切関わっていなかったという証拠はない。先代王妃と帝国皇妃の密約を暴いたのが、当時はまだ軍部にいて爵位を継ぐ前だった現メデルゼルク公爵だったことで、メデルゼルク公爵家とガル公爵家の政争と見る貴族が大半である。

「先代王妃を恨むのは、どこの誰とも知れない娘を養女にしたガル公爵家にたいする彼女の裏切りが許せないからか?」

「恨む? ばか言え。死人を恨んで、なんになるっつうんだ」

「キール。キエル・ガル。俺は真実を聞きに来たんだよ」

 キールは、帝国風の呼び名。大陸南部にルーツを持つガル家の人間の名前は、特別に南部風の読み方をする。キエル、と。

 本名を正しい呼び方で呼べば、ぎくりとキールの体が強張った。

 僅かに上げた顔で、目が落ち着きなく動く。ユノーはただ静かに答えを待った。

「腐っても王族、か。名前で誰かを縛るのは、好きじゃないんじゃなかったのか」

「好き嫌いで間違うのは、もうたくさんだ」

 どうしますかと、ユノーの母はいっそ穏やかに問うた。

 貴方の友を、貴方の姉に刃を向けた罪人を、どうしますかと。

「まるで他人事みてえな面、しやがって。だからずっと、ずっとずっと、俺はあの女が大嫌いだったよ」

「先代王妃が?」

「殿下の腹違いのおねーさまだよ」

 知らないだろう、とキールは嘲笑する。昔、ユノーが生まれる前のこと。キールは王女と言葉を交わしたことがあったのだと。

「罪人と血の繋がりのねえ甥が、死んだ後の罪ひっかぶってこそこそ生きてるってのに、実の娘は次期女王だっておだてられて、舞い上がって。だから殿下が生まれてくれ嬉しかったよ。あのいけ好かない女を、日陰に追いやってやれたんだから」

「そんなの……そんなの、ただの八つ当たりだろう。ガル家のことは、責められるべきは先代王妃だ。姉上は関係ない」

「なら俺だって関係ないさ!」

 がしゃん、とキールの体を拘束する鎖が耳障りな悲鳴を上げた。

「姉さんたちは婚家から追い出されて泣きながら戻って来たよ。兄さんは相思相愛だった許嫁の実家から婚約を破棄された。それで、当主だった祖父さんはもちろん、両親や兄姉たちもみんな、辺境に追い出されたんだ。九歳だった俺ひとりを王都に残してな。辺境の抵抗勢力(レジスタンス)にとっちゃ、ガキなんて恰好の付け込みどころだ。一緒に没落した分家の連中は、俺にそりゃあ親切にしてくれたよ。おかげで毎日生傷が絶えなかったくらいだ!」

 薄暗い牢の中、キールの瞳だけがぎらぎらと光り、真っ直ぐにユノーを睨み付けている。

 怒りと憎しみの感情を隠すことなく叩き付けられて、ユノーは一度、ぐっと奥歯を噛みしめた。

 激情を向けられることで、返ってユノーの頭はひんやりと冷えていくようだった。キールが感情的になればなるほど、彼の言葉の歪さが目立つのだ。

「それでも」

 ユノーは、キールの瞳を見返した。傷ついて泣き喚く子どもの瞳を。

「誰かに傷つけられた経験は、他の誰かを傷つけていい免罪符にはならないんだよ、キール」






 後悔しているのですか、と問われ、ユノーは一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。

 瞬きをすれば、変わり映えのない執務室が目に入る。手には国内を巡る姉から定期的に届けられる手紙と言う名の報告書。どうやら彼女は最近監査官の真似事をしているようで、どこそこの貴族が領民を虐げている証拠だの禁制品の密売商人とその顧客リストだの、然るべき部署に流せばちょっとどころでなくごたつきそうな情報ばかり盛り込んでくるのだ。

 とは言え、実際それに助けられているのも事実。先日もある男爵領における水害対策工事の遅れを少し手紙で記したら、工事に充てるため国庫から出た援助金を男爵が横領していた証拠を添えた返信が届いた。調べてくれと書いたわけではなくただの愚痴のつもりだったのだが、少しでも弟の助けになればという、その姉の心がユノーには何よりも嬉しい。

 名を呼ばれ、ようやくユノーは執務室にひとりきりではないことを思い出した。

「最近、少しぼんやりされ過ぎですわ」

「……ああ、そうだった、かな」

「そうですの!」

 来客用の長椅子で、サディラの公女がまったくもう、とティーカップ片手に頬を膨らませている。

 自覚はしていなかったが、毎日こうして顔を合わせる公女の言うことなのだ。きっとそうなのだろうと納得して、ユノーはすまないと頭を下げた。

「貴女も多忙なのに、付き合わせている僕が上の空だったなんて」

「わたくし、そういうことを言いたいんじゃありませんわ。ただ、もしかして後悔していらっしゃるかしらと思いましたの」

「僕が? いったい何を」

「玉座を」

 かちゃん。カップをソーサーに置いて、公女は視線を手元に落とした。

「王族であっても、自ら選択する余地は、わたくし残っていても良いと思っていますの。だけど、貴方は……選びたくないものを、選ばされたのではないかと」

 歯切れの悪い言い方は、サディラの公女らしくないもの言いだった。

 だがユノーは、思いがけないことを言われ驚いたものの、どうして彼女がそんなことを言い出したのかをすぐに察した。だから、苦笑交じりに彼女の言葉を否定する。

「僕はこれでも、他の誰かのために自分の意思を曲げられるほど、器用な人間ではないつもりだけど」

「でも、追い詰めてしまいましたわ」

「公女様」

 ユノーは一度、手にした姉からの手紙を脇によけた。

 来客用の長椅子に座る公女は、彼と向き合う形ではなく、横顔を晒す形で座っている。だから、ユノーからは下向いた公女の表情が簡単に見て取れた。

「きっかけは、確かに公女様だったのかもしれない。姉上に言わせれば、帝国の皇子方だったんだろう。でも、もしも僕の選択が追い詰められたからのものだったとすれば、その責は誰でもない、僕自身に姉上、それに今は亡き父上も含め、シジェスの王族全員が負うべきものなんだよ」

 祖父王の時代、あれほど戦争を繰り返さなければ、今ほど王家が力を失うことはなく。父王の時代、先代王妃と帝国皇妃との繋がりをもっと早く見抜いていれば、王宮内にこれほど帝国の息のかかった人間が入り込むことはなく、事前の了承無しに帝国皇子が押しかけて来るなどという暴挙も許すはずがなかった。

 たくさんのもしもがある。今はメデルゼルク公爵派と反公爵派に分かれている派閥が、かつては反帝国派と親帝国派であったように、この国を二分しかねない問題の根本は、本当はもっとずっと前から続いてきたものなのだから。

「自分たちが生まれる前のごたごたで身動きし難かったりすることを、面倒だとか理不尽だとか思う時ばっかりだけど。何せこの国は、一応暗黒時代以前からあった帝国の辺境伯領が前身らしいからね。結局、そういうの全部、背負っていかなきゃいけないんだよ、きっと」

 何故ならば、そういう良いものも悪いものも全部含めて、このシジェスという国があるのだから、と。

 語るユノーの声には気負いがなく、まるで天気の話でもしているかのように軽かった。

 公女は顔だけユノーの方を向き、しばらく彼の表情を観察していたかと思うと、やがて小さく息を吐いた。

「……でも、このままで良いとも思ってはおられない?」

「それは、もちろん。とりあえず、今のまま伯父上に権力が集中し過ぎるのは良くない。……かと言ってガル家に分配しようにもなあ」

 引退した前公爵の後を継いだのは、前公爵の三男だった。先代王妃とは書類上の姉弟になり、軍部時代は同僚でもあったようだが、両者の不仲は有名で、先代王妃がガル公爵家に養女として入った後、公爵家を一時出奔し騒動になったほどである。

 反対にメデルゼルク公爵に対しては一定の評価と親しみを持っているようで、反メデルゼルク公爵派の旗頭として立てるのはかなり難しいとユノーは見ている。

(それでも、他に公爵家が存在しない以上、ガル公爵家に頑張ってもらわなければ困るんだが)

 今は、メデルゼルク公爵の抑えには妹である王太后がいる。だが、いつまでも息子の治世に口出しする母后の存在は、引いては国王としてのユノーの資質に対する疑念にも繋がりかねない。

 ここ最近の悩みの種を思い出しこめかみを揉んでいると、良い案がありますわとサディラの公女がにんまり笑った。

「メデルゼルク公爵に対抗する、新たな公爵家を創るのです。そうすれば、ガル公爵家と合わせて、かつてのような三公爵家制ができますもの」

「そんな。戦時中ならともかく、今の時代、公爵位が褒章になるような働きをする貴族なんていないよ。そもそも伯父上と真っ向から対立しようなんていう酔狂な貴族の中から、帝国の息がかかっていないのを見抜いていくことすら難しいのに」

「あら。褒章として以外でも、陛下には公爵位を授与できるお相手がいらっしゃるでしょう?」

「……もしかして、姉上のことを言いたいの?」

「大正解ですわ」

 肯定に、ユノーは今度こそ目を剥いた。

「それこそ無理だ! 三公爵家制を再現するなら、公爵家揃っての反乱を防ぐため、どうしたって各々の公爵家同士の婚姻は禁じざるを得なくなる。伯父上に全力で叩き潰されるのがオチだよ」

 確かに、かつて王位継承権を放棄し臣籍に下った王族に、公爵位が与えられた前例はある。

 だが、その全てが王族の血脈を保持するという目的のために設けられたことは明白で、数代もしない内に王族との婚姻が用意され、後継者不在で全ての家系が王族に組み込まれ、今ではどの公爵位も残っていない。

 何より、王女に執心するメデルゼルク公爵のことがある。寡婦でもない女性が爵位を持った前例がないことも合わせて、新たに公爵家を創るよりも、むしろ降嫁することの方を勧めてくるに違いない。

 今はまだユノーには妃も子もおらず、彼に何かあった時に王位を継ぐべき人間は姉王女しかいないが、これから先、ユノーが妃を迎え子を設けた時、必ず姉の排除を目論む人間は出て来るだろう。円滑な王位の交代というにわか愛国者や忠臣たちが好みそうな建前なら幾らでもある。

 そうならないよう、ユノーには姉に適当な結婚相手を見繕い、王位継承権を放棄させた上で嫁がせる義務がある。現状、その最有力候補は伯父であるメデルゼルク公爵だが、彼を推す理由と同じくらい、彼にだけは降嫁させるわけにはいかない理由もあり、正直手詰まりの状況だった。

「あら。王族の公爵への叙爵は、この国の王に独占的に認められた権利のひとつだったと記憶しておりますけれど。メデルゼルク公爵が何をしても、陛下が姉上を新たな公爵に叙する障害にはなり得ませんでしょう」

「それで、せっかく新しく生まれた公爵家を、姉上ごと伯父上に叩き潰されるのを指をくわえて見ていろって?」

 確かに、王女を史上初の女公爵に叙爵するだけならば不可能ではない。王族の直轄領を幾らか分け与え、必要な人材を与えればいいだけの話だ。

 だが、そうして臣籍降下すれば、もう王族としての庇護は望めない。元王族とは言え同じ公爵同士ならば、メデルゼルク公爵も遠慮すらしないだろう。下手をすれば、即日で両公爵の婚姻、ないし婚約が決定しかねない。そうなれば本末転倒だ。

 けれど、サディラの公女はユノーの反論を否定した。

「しませんよ、メデルゼルク公爵は。いえ、できない、と言った方が良いかしら」

「それは、いったい何の根拠があって」

「愛しているから」

 穏やかに微笑んで、まるで理解力の足りない幼子に言い聞かせるような、そんなゆったりとした口ぶりで公女は続ける。

「メデルゼルク公爵は、本当に心底、どうしようもないくらい王女様のことを愛していらっしゃるから。他の誰かにはできることも、王女様にだけはできないのですわ」

「……意味がわからない。だって、そうすれば伯父上は姉上を手に入れることができるのに」

「では、どうして彼は未だ王女様を捕まえてしまわないのだと思います? あの方からの手紙では、もう何度も接触しているようなのに」

「それは」

 そう。確かにそれは、ユノーも疑問に思っていたことだった。

 欲しいのならば、奪えば良い。そこに躊躇などは介入する余地はなく、ただ己の願うままに。それが、ユノーを含む他者から見たメデルゼルク公爵の姿である。

 そのあまりにも自身に正直過ぎる生き方を、傲慢過ぎると蛇蝎の如く忌み嫌う人間もいれば、そうあれない自身と比較して強く惹きつけられる人間もいる。ユノーはその後者であった。

 恐らくほとんどの人間が信じないだろうが、ユノーは伯父のことを微塵も嫌っていなかった。むしろ、憧れ、慕ってすらもいるのである。

 だからこそ、公女の指摘にユノーは内心ぎくりとした。今までずっと、疑問に思いながらも見なかったフリをしてきたところに、公女は容赦なく斬りこんできたのだ。

「好きな人には、嫌われたくない。きっと、公爵が強引に王女様を奪ってしまわない理由なんて、そんな単純で可愛らしいものなのですわ」

 ああ、とユノーは思った。それは、それはなんて、滑稽な。悪徳の誉れを戴き、奸臣と名高い男が抱くには、なんと稚拙で、――なんて尊い感情であろうか、と。

 暫し瞑目する。ユノーの記憶にある伯父はいつだって不敵に微笑んでいて、喜怒哀楽の感情すら掴めない、何を考えているのかわからない人間だった。

 だというのに。ユノーはなんだか、体から力が抜けるような感覚に陥った。

「……ひょっとして、伯父上は姉上が初恋だったりするのかな」

 嫌われたくない、って。流石のユノーも、公女の立てた仮説には唖然とする。なのに、不思議となるほどと思わせる説得力があった。

 思えばいつも、伯父は姉に寸でのところで逃げられていて。それが本当は、嫌われたくないから逃がして(・・・・)いたのだとしたら。そう考えた方が、色々なことに辻褄が合ってしまうのだ。

 ふふ、とサディラの公女は含み笑いをした。上品に手で口元を隠し、知らないんですの? と小首を傾げる。

「わたくしも王太后様に聞いたばかりなのですけれどね。わたくしたち古い血筋の者は、皆己の『運命』を知っているのだそうですわ。生涯ただひとり、己の全てを賭けても惜しくはないと思わせる誰か――王太后様にとっては、『夫』ではなく『主君』であったようですけれど」

「女性が好きそうな話だね」

「実は、さっきの話も全部、王太后様からの受け売りですのよ」

 運命は、と公女は続ける。運命は、伴侶かもしれないし、友であるかもしれないし、時には主君であり、従者であり、敵でもあるのだと。

「なら、僕は感謝するべきなのかな。伯父上が姉上を、『運命で定められた敵』だと思わなかったことに」

 伴侶や友ならばともかく、敵であるならば出会わない方がマシだろう。そう思って口にした言葉に、公女は難しい顔をした。

「そこがわたくしにもよくわからないのですけれど……古き血族にとって、たとえそれが敵対する者であったとしても、『運命』を見つけられたのであればそれは幸福なことなのだそうですの」

 本当の不幸は、己の「運命」を見つけられずに一生を終えること。だから貴女も、己の「運命」を見つけ出しなさいと。そう王太后は話を締め括ったという。

「もしその『運命』が伴侶ならば、わたくしたちにとっては初恋は同時に最後の恋でもあるのですって」

 だから慎重になる。過ぎるほどに。「運命」には替えも次もなく、ただそこにある唯一だけが絶対であるから、と。

 なるほどね、とユノーは頷いた。正直、まだ話自体は半信半疑ではあるものの、それで幾つかの不可解な事柄が解決してしまうのもまた事実だったからだ。

 例えば、とても夫婦とは思えない、まさに主君とその臣下というやり取りしかしていなかった父母のこと。夫どころかこの国すらも裏切って、身勝手に死んだかつての妻を、それでも忘れられずにいた父のこと。或いは、帝国の皇帝と皇妃、皇太子にまつわる幾つかの逸話のこと。

 伯父が本当に姉にその「運命」とやらを感じて執心しているのだとすれば、こんなに馬鹿馬鹿しくて傍迷惑な「運命」を与えた女神に文句のひとつも言ってやりたいところである。

「嫌な可能性に気づいちゃったんだけどさ」

「なんです?」

「伯父上にとって、姉上がその『運命』だとして……姉上にとっての『運命』が別人だったら、どうなるんだ?」

「……うふふ」

 サディラの公女は、にっこり笑って答えなかった。

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