後書き
まずは、完結まで書ききることができた感謝を、この作品を読んでくださった全ての方々に。評価してくださった方、感想をくださった方、続きが楽しみだと言ってくださった方、皆さん本当にありがとうございました! 無事、「王女だけど」シリーズは完結いたしました。
年内(2014)完結という無謀な目標を掲げ、それを達成できたのも応援してくださった方々のおかげです。本当に、本当に感謝しています。
なお、ここから先は完全に蛇足&ネタバレ考慮無しですので、苦手な方はブラウザバッグ推奨です。作者から見た見解なので、読者として自分自身の解釈を大事にしたいという方にもお勧めできません。
「むしろネタバラしが楽しみなんだ」
「自分の解釈ではこうだけど、作者から見たらどうなんだろう?」
「すべてを受け入れる広い心……それが私!」
などという方のみ、このままスクロールしてくださいませ。
さて、完結……ですが、この終わり方には皆様賛否両論あるかと思います。
この物語は、勧善懲悪ではありません。また、王女視点という都合上、謎のまま放置されたものも複数あります。これあからさまに伏線だったよね!?というものにも、明確な解決が図られていないものもあります。筆頭はフラウルージュの正体でしょうか。
幾つかは、作者自身の力量不足により回収しきれなかった伏線です。ですがその大部分が「敢えて」そのままにした伏線でもあります。
一人称小説を書くにあたって、すべてのことを説明してしまうのは「野暮」だし「ちょっと変」だと作者である北海は考えます。三人称ならば、いわゆる「神の視点」なので本来わからないような他人の心情だとか隠された事実だとかまで言及できますが、一人称ではそうはいきません。いえ、あくまでも私個人が、「一人称は誰かひとりの知識と認識に基づいて描かれる世界である」と考えているせいです。
全知全能の人間がいないように、全知全能の登場人物を作ることが、北海は好きではありません。本編中、あんなに何でもできる、余裕綽々という雰囲気を全面に押し出していた公爵ですら、実はちょいちょい予想外だったり未知の事態に出くわして、その場その場で乗り切っている場面もあったりします。王女様に至っては言わずもがな。
そんな完璧でない王女様に、全ての謎を解き明かすことができるのか? と聞かれれば、当然答えはいいえです。でも、ヒントだけはいっぱい散りばめておきました。それを拾い上げてあれこれ考えるのも、面白いかもしれません。
この物語は、どこかでも言ったように登場人物たちの思惑が「重ならなくて」誰にとっても百パーセントの正解にはたどり着けない物語です。それでも一応、エピローグで選んだ未来ではそれなりに納得して、それなりに幸せだとかやりがいだとかを感じています。第一話と最終話を読み比べると、マグダはもちろん、王女様もあの公爵ですらちょっと丸くなっているような気がするようなしないような。
結局、誰かひとりの思惑通りに全てが進んでしまうなんてことは、いくらその人の能力が高くでもあり得ないのではないかなあと思ったのが、公爵ひとり勝ちエンドが否決された理由です。かと言って誰かに簡単に倒されて退場してくれるほど素直な公爵でもありません。それくらいなら王女様と無理心中を図る程度には、実は王女様に執着しています。
腹をくくったユノーは、多分これから十年くらい後にはそこそこ立派な王様になっているんだと思います。ちなみに、その頃には公女様には女性向け恋愛ゲームを彷彿とさせる怒涛のモテ人生が待っています。七歳にしてあの胆力を発揮した公女様です。そこに美貌と教養が合わされば、無敵の美少女の出来上がりです。
王女様はお忍び旅のために、実は幾つも偽名を使っています。引きこもっていたせいで市井に肖像画が出回っていることもなく、脱引きこもり後は碌に王宮に帰らないので国民には一向に王女様の姿が広まりません。それも合わせて、エピローグにあった「姿なき旅する王女」となるわけです。ところが、この名前どころか姿すら伝わっていないことが返って人々の想像力を掻き立てて、彼女の実際の足跡を絡めた様々な物語が作られることになります。誰もその真実の姿を知らないのに、誰もが知っているおとぎ話のお姫様。後世の歴史家たちはまずその存在の有無から検証を始めることでしょう。
帝国の帝位争いの話は、フラウルージュを主人公にした別のお話でいつか描くことができればなあと考えています。帝国の人たちの事情も、その時に。例えばどうして第二皇子がそこまで皇太子が皇帝位を継ぐことに固執するのか、とか。フラウルージュの正体は、とか。まあ後者は皆さん、薄々勘付いていらっしゃるのではないかと……。
最後に、王女様の母親について。
彼女は、最初からずっと「母親」にはなれなかった女性として描いてきました。子どもを産んだからといって全ての人が「母親」になれるわけではないことは、現代ではそれなりに知られていることと思います。彼女には、自分が誰かの「母親」なのだという意識が、頭ではなく心で理解することが最後までできませんでした。女であり続けたからこそ、娘である王女様を恋しい相手を奪う存在としか思うことができなかった。でも、相手が「王女」で自分が「王妃」だということは理解していたから、本編のような手段に出るしか彼女にはできなかったのです。
実際、母性本能というものは存在しないのだと言う学者さんもいます。親であるという自覚は子どもとの触れ合いによって育まれるもので、元々生まれながらに持っている「本能」などではないのだと。
王族は基本的に子育てには関わりません。実際、例えばオーストリアのハプスブルク家では親子が顔を合わせるのは一日の内夕食の時だけだったという代もあります。イギリス貴族の中には大人と子どもの生活空間や時間帯が完全に分けられていて、同じ家に住んでいるだけの他人も同然なお家もあったそうです。
そういう環境で母親だという自覚を持てと言われても難しいのだろうなと、ぼんやりとでも思っていたからこそ、王女様はあまり強く母親を責めることも恨むことができませんでした。まして、母親は望んで父親と結婚したわけでもないのです。現代人の感覚を持つからこそ、王女様は母親に対してかなり大きなジレンマを抱えていたのではないでしょうか。
色々と書きましたが、これらは全て「蛇足」であります。作者だからといって私の見解が全て正しいわけではもちろんありません。このお話の登場人物たちは皆、どこかで何かを間違っていて、誰も理想的な存在にはなれない人たちばかりです。その弱さをきちんと表現できていたのなら、私がこの物語で描きたかったことの大半は書ききることができたのだと思います。
半年間、全18話。読了ありがとうございました!