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逃避行には甘さが足りない。

 用意したのは男ものの服と、換金できそうな宝飾品が幾つか。母の日記は、散々迷った挙句暖炉にくべて燃やしてしまった。付き添ってくれていた女騎士はなにかもの言いたげに見つめていたけれど、燃え残った煤けた金属の鍵を何も言わず拾ってくれた。

 ハンカチを広げてそれを受け取る。その軽さと小ささといったら。私は何だか、そんなつもりもないのに笑ってしまった。

 ずっと黙っていたことを、たとえ僅かでも洩らしてしまったことに、奇妙に興奮していることを自覚する。追い詰められ過ぎて、とうとう頭がおかしくなったのかもしれない。

(『逃げていいよ』、だなんて)

 王妃の言葉は、つまりそういうことだ。

 王族として、王妃としてはあるまじき発言。逃げるということは、国を捨てるということだ。責任も義務も何もあったものではない。叛徒を目前に国を捨てた王子として、愚者の誹りは免れないだろう。当然、それを許した王妃にもにも批判の矛先は向く。けれど。

「うらやましい、な」

 ぽつりとこぼれたひとり言。窺う騎士の視線を、曖昧に首を振って知らないフリをする。

 きっと私は、誰かにずっと、そう言ってほしかったのだ。

 身じろぎすると、カサリと乾いた音がする。無意識に、私はポケットにあるものを押さえていた。フラウルージュからの手紙。もしもの時の切り札を、彼女は残していってくれた。

 ひとつにくくった髪をくるくると丸めて、鏡を見ながら丁寧に帽子の中に押し込んでいく。胸はさらしを巻いてつぶして、シャツの上に大き目のベストを着こんだ。

 ダボッとした体の線が出ない型のズボンは、ずり落ちないよう肩からのサスペンダーで止める。仕上げに顔と手足を煤で汚せば、徹底していますねと苦笑をもらった。

 全身鏡に映して見れば、残念ながらどう見ても男装した女にしか見えなかった。帽子のつばを深く下げてみる。視界は狭いしせっかく汚した顔もほとんど見えなくなっていたけれど、遠目に見たら男女の判別に迷うレベルにはなったのでこれで良いことにする。男装すれば男に間違われるなんてこと、現実ではありえない。とんだファンタジーだった。

 代わりとばかりに、女騎士が着ているのは下っ端メイドが着るワンピース。もしもの場合に備えてスカート部分には大胆な切込みをプリーツの中に隠してある。某大泥棒漫画のヒロインのように、武器の仕込みもバッチリだ。

 ガル公爵の到着を待たず、私たちは王宮から逃れることになった。後宮が封鎖してあるといっても、相手はあのメデルゼルク公爵だ。いつまで籠城できるかなんてわからないし、囲みが破られて私が囚われてしまったらそれこそ「詰み」である。

「まさか、貴女たちが協力してくれるとは思っていなかったわ」

 鏡越しに目が合ったのでそう言うと、女騎士は心外そうに片眉を上げた。

「では、王子殿下方と別れた後はおひとりでガル公爵を待つと? 王都とはいえ、貴い身分の女性にとっては必ずしも安全とは言えないでしょうに。騎士ともあろう者が、そのような事態を見過ごすとお思いで?」

「だって、命令違反でしょう」

 できるだけ軽く聞こえるように、それでいて相手のほんの僅かな反応も見逃さないように注視しながら、話を続ける。

「私を後宮にできるだけ閉じ込めて出さないようにと――そう命令されたのでしょう、貴女方の主君に」

「相変わらず、姫君は敏くていらっしゃる」

 言って、女騎士は微笑んだ。

「死者の(めい)にも、有効期限があって良いとは思いませんか」

「それが(いのち)を賭したものであっても?」

「彼女が賭した形代は、我らへの(めい)ではありませんよ」

 ご存知でしょう、と視線で問われる。ならばまったく同じ言葉を私は返したい。彼女の命令の、その真意を。貴女は知っているでしょうにと。

「十六年、我々は彼女の(めい)に従ってきました。今は亡きヴァネッサ・ガル王妃、姫君のご生母の。十六年は長い。赤子も立派に成人します。義理は十分果たしたと思いませんか」

 おどけたフリで女騎士は片目をつむる。亡き母の軍部時代の片腕、今は後宮を守護する女騎士たちの隊長が。

「弟君を逃がして、自身はガル公爵の元へ。その覚悟は何よりも貴い。妨げる理由がありましょうか」

 逃げたいのは貴女も同じなのにと、そう言われた気がした。

 ユノーは逃げる。公女様を連れて、恐らくはサディラ公国へ。本当は帝国の方が良いのだろうけれど――何せこの騒動、発端はあの迷惑極まりない第二皇子にある――あの時、フラウルージュははっきりと「帝位争いが始まる」と言った。まだ幼く利用価値がある公女様を連れて行くわけにはいかない。

「優しく寂しい、我らの姫君。貴女なら、よき女王になられるでしょう」

 この国に残る私は、後ろ盾がなければ満足にメデルゼルク公爵に対抗もできない。だからガル公爵を頼るのだ。メデルゼルク公爵家に対抗できる、もうひとつの公爵家を。その先にあるものが、私が女王になるという未来であったとしても。

 だって、仕方がないだろう。全てを捨てて逃げるのだってかなりの勇気が必要で、とっくにその覚悟をユノーは決めてしまっていた。ずっと目をつむって耳をふさいで、閉じこもっていた臆病者の私は、フラウルージュが作ってくれた逃げ道に、飛び込むことすらできないでいるというのに。

「呪縛は強いなと、思うことがあるの」

 鏡の向こう。帽子の下から僅かに覗く瞳は揺れていて、その迷子のような頼りなさに自嘲する。でも、いつもマグダがいた場所の空白に、きっとこれでよかったのだと素直に思えた。それだけが救いだった。

「終わったことだって、わかってるわ。貴女の言う通り、きっと私は寂しい子どもだった。ヴァネッサ・ガルは、王妃としても母親としても失格の、ひどい人間だった。わかってる。わかっているけれど、でもだからこそ。たったひとつの願いくらいは、叶えてあげたいと思ってしまうの」

 母と呼び、子と呼ばれた。数えるほどしかないたったそれだけのことで、私は母を愚かだったと切り捨てることができないでいる。

『王女の許嫁の話をした。ガル家の誰かを適当に選べば良いと言ったのに、王どころか当のガル公までもが反対をする。それでは三家――王家と二つの公爵家、その均衡が崩れると言うのだ。

 なら、次は息子を産めばいい。メデルゼルクから次の王妃を迎えれば均衡とやらも保てるだろう。王女は帝国の皇族に嫁がせるしかないか。どうせ他国はいつ滅んでもおかしくない国ばかりなのだから』

『もう子は望めぬと、侍医が言った。昔の無理が祟ったのか。

 次が生まれぬのなら、王女がいずれ女王になるのか。アレに務まるとは思えないが、教育次第でどうにかなると思うしかない』

『ゲオルグが、王女と?』

『悍ましい、悍ましい、悍ましい』

『メデルゼルク公がゲオルグを連れて来た。死ぬ前にどうにか王女と息子の縁談をまとめようと必死だ。

 家督は娘に? 王女の婿にゲオルグをなど、許せる話ではない』

『何故王は反対しない』

『悍ましい。許せない。嫌だ。許せない。

 憎い』

『メデルゼルクの娘を王妃に推す動きがある。女が公爵になることへの反発もあってか、男子を産めぬなら退位してはとあからさまにのたまう輩もいる。降嫁先は次期メデルゼルク公爵。悪い話ではないだろうと』

『何故だ、ゲオルグ』

『ならば私は殺されてやろう。ゲオルグのためにと、要らぬ気を回す輩はいくらでもいるのだから。王妃の暗殺だ。下手人はもちろん、その背後まで調査は及ぶ。私はゲオルグに殺されるのだ。まさか王妃を殺した男に、王女をくれてやるわけにもいくまい。王の後添いがメデルゼルクの娘だ。それで三家の均衡とやらも保てる。

 見ろ、私はゲオルグに殺される。アイツが私を殺すのだ。他の誰でもない』

『王女とゲオルグの婚姻など、誰が許してやるものか』

 愚かな人だと、棺で眠るあの人を前に、そう思ったことを覚えている。

 母が殺されなければ、この国には初めての女性公爵が誕生していたかもしれない。それくらい、ユノーの母、現王妃は政治的手腕に優れた公明正大な女性だった。独身時代は王佐のようなこともしていたくらいだ。彼女自身、そのまま政務官として生きることを目指していたはずなのに。

 女の敵は女とはよく言ったものだ。騎士の女性登用の道を開いた功労者である母は、女性の爵位継承の成功例となるはずだった現王妃の未来を閉ざしてしまった。私とゲオルグ――ゲオルグ・フォン・メデルゼルクの婚姻を阻みたいという、たったそれだけの理由で。命まで賭して。

 今、ガル家に私とつり合いが取れる独身男性はいない。一番年齢が近くて、ついこの間一歳になったばかりの赤ん坊だ。

「死者は何も語らない。我らは姫君に従いましょう」

「それがどんな選択でも?」

「貴女は、愚かにはなれない方ですから」

 何というプレッシャー。苦笑することすらできず、私は鏡に背を向けた。

「行きましょう。ユノーたちが待ってるわ」

 王妃がユノーに逃亡を促してから、二日。王宮は不気味なほど静まり返っている。

 王妃は再び公爵側との交渉に臨み、彼女が公爵の相手をしている間に、私たちは隠し通路を使って地下道に下り、王宮を離れる計画だった。

 あまり大人数で動くわけにもいかないからと、私に二人、ユノーと公女様にはそれぞれひとりずつ護衛がつく。ユノーたちは家族に、私の方は三人姉弟に見えるように、それぞれ変装したつもりだ。

 待ち合わせ場所に来てみれば、まったく同じ格好の王子(ユノー)王女()。少しは目くらましになると良いのだけれど。

 ユノーが連れてきた騎士だけが男で、男二人に女五人という、奇妙な集団で隠し通路を下りていく。

 もっとも、恰好だけなら私も街の少年風である。とはいえ本物の男性陣と並ぶとその違いは一目瞭然で、そういう意味でもこれは早々に別行動しないとなと私の護衛二人と無言で頷き合った。

「私も、王女殿下のような恰好をと、そう思ったのですが」

 納得しかねる、と言いたげな公女様に、ユノーが頬をかいて眉を下げる。

「試しに着てみて、まったく似合わなかったでしょう」

 悪目立ちしてどうするんです、と言うユノーの声は、しょんぼりと肩を落とす公女様の前ではどこか歯切れが悪い。

 誰だって可憐な美少女を落ち込ませたくはないのだろう。私の知らないところで今までの公女様への態度を詫びたらしいユノーは、その負い目もあってか公女様にいまいち強く出られないでいる。

「それでも、『娘の服を買う余裕のない両親が兄のおさがりを着せている》という設定なら……!」

「そんなに困窮してる人間の服装か、これが。いいから大人しく『兄さん』に抱っこされてろよ、お嬢ちゃん」

「キール!」

 揶揄する護衛の言葉を、咎めるためにユノーが男の名前を呼ぶ。が、ひょいと肩を竦めた男に反省した様子はない。

「そう目くじら立てるなよ。ただでさえ乳臭いガキ二人の子守りなんて、気が重くてしょうがないんだ。どうせ叱られんなら、キレイな姉ちゃんの方に頼みたいね」

「この男、斬ってそこらに捨てて行きましょうか」

「貴女も落ち着いて、エリザ」

 女騎士は生真面目で努力家な人が多いけれど、如何せん堪え性がないというか、煽り耐性が低いというか。有体に言えば、喧嘩っ早いのだ。

「護衛を選んだ基準を聞いても良いかしら、ユノー」

「……これでも一番信頼できる人間なんです」

 生活態度はどうあれ、という副音声が聞こえたよ、今。

 町人風の服をだらしなく着崩してにやにや笑う様は、正しく街のごろつきだ。夫婦役をしなければならない女騎士のにこやかな笑みが返って怖い。さっきの斬って捨てる発言も彼女だし、不安がいっぱいの四人組だ。胃が痛い。

 通路を下りた先にあったのは、正しく洞窟だった。高さは成人男性であるキールが直立して頭ひとつ分余る程度。幅はかろうじて二人並んで歩けるくらいしかない。

 この洞窟が人の手で作られたのだろうことは、天井や壁に残るノミの跡からもすぐにわかる。露出している折り重なった地層には硬い岩盤の色も混じっていて、その途方もなさに眩暈すら感じた。

 今はもう滅んでしまった一族が、迫害から逃れて隠れ住んでいたという地下洞窟。王妃の間という、後宮の中でも最も重要な場所にその出入口があったこと、偶然とは思い難い。

 ペアを組むエリザに蹴りだされる形で、キールという男性騎士が灯り片手に先頭を行く。護衛の手を灯りでふさぐのかという問題は、片手で戦えという女騎士全員からの圧力に黙殺された。

 いざとなったら目くらましにでも灯りを放り投げてやるとぶつくさ言う背中に、エリザが笑顔のまま抜剣しようとしていたので慌てて止める。だから落ち着いてってば!

「公女様の護衛は、既に城下に?」

「はい。無事脱出できたと連絡がありました」

 ふむ。つまり、ユノーたちのとりあえずの目標は彼らとの合流ってことになるのかな。この際封鎖された後宮との連絡手段については言及すまい。色々あるんだよ、きっと。

 そもそもなぜ公女様が護衛と引き離されてしまっていたのかと言えば、彼女の滞在場所が後宮だったからに他ならない。この国や帝国ならまだしも、他国には女性が騎士になるだなんていう、その発想自体が存在しないので、後宮内に連れて行ける護衛がいなかったのだ。公女様と一緒に入れたのは、お付きの侍女さんたちくらいなものだ。

 今やその侍女さんたちとも別れて、他国でたった独りきり。それでも毅然と前を向くのだから、末恐ろしい七歳児である。

 凸凹とした地面に足を取られる。その度に腕を引かれて助けてもらい、護衛の女騎士二人にぺこぺこ感謝を繰り返していると、先頭からぶはっと吹き出す音がした。

「変わり者の王子様の姉は、変わり者の王女様ってか」

「よし、斬る」

「どうしてそんなとこばっかりそっくりなの、貴女たちは!」

 本気で抜剣しようとするエリザに再び制止の声を上げたのだけれど、今度は後ろの女騎士二人からも不満そうな視線をもらってしまった。解せぬ。

 エリザはマグダの次に古い付き合いだ。だからというわけでもないだろうに、この二人は私への発言にかなり過敏に反応してしまう。愛されてるわーとか、遠い目をして呟いて、現実から目を逸らしても良いだろうか。

「今のはキールが悪い。すみません、姉上」

「別にいいわ」

 むしろ、「変わってる」というのは私にとって褒め言葉だろう。とっくに自覚してることでもあることだしね。

「姫様の寛大な御心に感謝して、額づいて首を差し出しなさいな、下郎」

「おお怖。やだね、これだからシジェスの女騎士は残虐非道って言われん、アダッ!?」

「少しは反省しろ、このバカ!」

 なんと。エリザが手を出す前に、ユノーの拳がキールに入った。もちろん怪我してない方です。しかも多分あそこは鳩尾である。意外と容赦ないのネ、異母弟よ。

「おま、ちょ、グーはナシだろ、グーは……っ」

「失礼なことばっかり言うからだ、お前が」

「見事な拳でした、殿下。欲を言えばもっとこう、ひねるようにして一歩踏み込み……」

「こうか?」

「待て、俺を使って実地で教えようとすんな」

 エリザの笑顔が眩しい。多分そこは素直に教えてもらおうとするところじゃないぞ、ユノー。

 くすくすと公女様が笑っている。それをちらりと一瞥するキールに、ようやくこのコントめいたやり取りの目的に気が付いた。なるほど。だから「一番信頼できる相手」なのか。

 自ら道化役となって場を和ませたキールは、しかし、とぼやくように言った。

「よくもまあ、王宮の真下にこんなもん隠してたな、王妃様も」

 ぴちょん、とどこかで水滴が落ちる音がした。

「どこの国の王宮にも、抜け道のひとつやふたつ作られているものでは?」

「おっ、じゃあサディラの城にもあんのか。そりゃいいこと聞いたな」

「え!?」

「キール……お前いい加減にしろよ……?」

 ユノーの拳が再び握られ、ふるふると震えている。

 背中を向けたままのキールは気づかない。気づかないまま、言葉を続ける。

「ここ、本当に王妃様以外は知らない秘密の抜け道なんだよな?」

「そう、言っていたが」

「なら、使ってたのかね、王妃様は」

 ぴり、と空気に緊張が走る。

 いつの間にか全員の足が止まっていて、私とユノー、公女様を庇うように後方を警戒していた女騎士二人も前に進み出た。

「なあ。なんで、王妃様しか知らない抜け道に、松明の明かりなんてものがあるんだと思う?」

 まるで、私たちがここに来るのがわかっていたとでも言うように。

 視線の先で赤々と燃える壁にかけられた松明が、ずらりと並んだ兵士たちの鎧をギラギラと照らしていた。

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