急転直下はご免被る。
まったく何の自慢にもならないことだが、私と異母弟の関わりは薄い。海水の塩分濃度と同じかそれ以下くらいのもんじゃないだろうか。まあ基本引きこもりだからね! 仕方ないね!
足早に廊下を通り抜けて来たけれど、王宮方面は後宮からでもわかるくらいに騒がしかった。あのお茶会にいた人間には、王妃が言っていた通り緘口令が敷かれたはずだけど、やはり人の口に戸は立てられないということか。緘口令の意味がないとか言っちゃいけない。王宮内に広まりきって、噂が真実であるとわかってしまうのには、まだもう少し時間があるはずだ。
王妃の指定した部屋には側近たちに囲まれたユノーが既にいた。……この構図が前世で言うベーコンレタスなハーレム主人公に見える私の目は腐ってるんだろうな、きっと。そんな場合じゃないというのに、どうやら私の脳は勝手にせっせと現実逃避に勤しんでいるようだ。
とは言え、そんな邪な思考は抜きにしても無駄に見目の良いのばかりである。誰の趣味なんだろう。やっぱりオトモダチ候補を最初に選別した王妃なんだろうか。
「こうしてお話するのは、これが初めてですね」
正面の長椅子で、ユノーが苦笑している。
姉弟なのに、という含みはしっかり伝わってきているのだが、何ともコメントし難くて私は扇子で口元を隠した。いいね、扇子。万能アイテムだ。これからはもっと愛用することにしよう。
はてさて、この友好ムードはいったい何なのであろうか。さっきも言ったように、関わりの薄かった異母姉に対して。
ついでに彼の側近たちは一様にお通夜モードだ。どうやら彼らは私が王妃と話している間にユノーの説得を試みてことごとく撃沈したらしい。まったく、軟弱な男どもだ。
とは言え、大人たちの思惑ありきの関係とはいえ、いわば幼馴染とも言える相手から数人がかりで説得されて、それでも意思を曲げないユノーの頑固さは正直意外でもある。この子、こんなに頑固だったの? 遠くから見てる分には、ただただやる気なく色んなことを受け流しているようにしか思えなかったんだけど。
後は、新発見。異母弟の眠たげでやる気なさげな表情は、どうやら生まれつきのものだったらしい。こうして間近に見てみれば、実に面白いほど王妃と細かなパーツがそっくりなのだ。
でもこれが王妃だった場合は、憂いを帯びたミステリアスな美女、ってことになるのだけれど。それがユノーにくっついただけで、眠たそうだのやる気がなさそうだのとしか表現できなくなるとかコレ如何に。やっぱりパーツは一緒でも、バランスが問題なんだろうか。
「王太子が私と話をしたがっていると、王妃様に聞いたのだけれど」
「ユノーと呼んでください。貴女は私の姉上なのですから」
よそよそしい私の言葉に、ユノーが困ったように眉を下げる。たれ目と相まって、なんとも情けない表情だ。
そりゃあ、私も君の後ろでずらりと並ぶ側近連中がいなかったらもうちょっと気安く話せたかもしれないけどね。よく知らない関わりもない他人の前で気を緩められるほど、私のコミュニケーション能力は高くないんだ。
気づかれないよう小さく息を吐いて、よしと私は気合を入れた。
王妃は、ただ私に息子に付き合ってほしいと言った。説得してほしいとも、諭してほしいとも頼まなかった。だからきっと、本当にただユノーの話し相手になれば良いのかもしれない。
でも、それじゃあ駄目だ。せっかくこうして話し合う機会ができたのだ。これを逃す手はないだろう。
「……本気で、王太子位を返上するつもり?」
「僕では国主は務まりません」
ユノーは、まるでそう聞かれるのがわかっていたかのようにすぐにそう答えた。
「流石にこのシジェスの言葉は大丈夫ですが、最も近い関係にあるカディラ国語すら覚束ない。物事を理解するのに人の倍は時間がかかるし、なにかに集中するのも苦手です。国主どころか、地方領主としてすら出来損ないでしょう」
「自分のことを、たとえ自嘲するのであったとしても『出来損ない』と表現するのは関心しないわ」
「すみません。でも、本当のことですから」
やっぱり、案外頑固だ。しかも嫌な方向に。
「姉上は、カディラ国語はもちろん、帝国北方語や南のトゥグイ、マハル国語も話せるそうですね。日常会話程度なら、もっと」
「言葉が使えるということが国主として相応しいということだとでも思っているの? だとしたら、貴方の教師たちは何をしていたのかしら」
自慢じゃないが、その「話せる」というレベルもかなり甘く見積もってのことなんだからな。
外交問題について忌憚なく意見を交わせるとか、そういうレベルではもちろんない。ちょっとした雑談くらいなら幾らかできるかもしれないとか、そんな程度だ。自学自習で五歳から今までどうにかそこまでたどり着いたのだから、誰か褒めてくれても良いと思う。
「陛下はまだまだご壮健だ。退位までは時間もあるでしょう。今からまた学び始めたとしても、姉上ならば立派な女王になれると確信しています」
「ならば、私もまったく同じことを貴方に返すわ」
大体、優秀な教師陣を「つまらない」の一言で次々追い返したのは他でもないユノー自身だろうに。
胡乱な目をしていたのだろう。悪戯が見つかった子どものようなばつが悪そうな顔をして、「それに」と付け足す。
「もし姉上が政務に自信がないのだとしても、優秀な王配を迎えればそれで良いではありませんか。何も国主自身が全てを完璧にこなさなければならないわけではないのですから」
「ならば、貴方自身がそうなさいな。優秀な側近と臣下を集めて」
非常に、非常に私を馬鹿にした言い方に鼻白み、思わずきつい物言いをしてしまった。
「優秀な王配を迎えればそれで良い」? そうして、私にはお飾りの女王にでもなって笑っていろと言うわけか。現状、この国でいったい誰がその「優秀な王配」に相応しいのか、わかっていて。
棘のある言葉に、ユノー本人ではなくその側近たちが反応して気色ばむ。
きつい視線で睨み付けられたが、そんなの痛くも痒くもない。それ以上に私の後ろに控えるマグダの怒気の方が何倍も恐ろしいからだ。……おかげで私の苛立ちは一瞬で冷却されたけれども。お願いだからマグダ、暗器をどこに仕込んでるか、さりげなく確認し直すのはヤメテクダサイ。
でも、どうにもユノーの言葉は上滑りする。上っ面で、中身がない。これは本当の理由ではないなと、まったく親しくない私にもなんとなくわかる。褒め殺しして誤魔化そうなんて、あまり私を甘く見ないでもらいたいものだ。
視線を厳しくしたままでいると、ユノーは徐々に瞳を伏せていき、唇を噛みしめた。
沈黙が落ちる。こうなれば根気勝負だと思ったところで、ようやくユノーは口を開いた。
「……愚鈍な王なら、立たない方がマシだと、思いませんか」
姉上、とユノーは私を呼ぶ。膝に置いた拳は震えていた。
「僕は、怖い」
一人称が変わっている。こちらが素かと、思う暇もない。
「姉上、僕は凡庸なのです、どうしようもなく。でも、国主が負う責務を、その重さを理解できないほど愚かなつもりはないのです。だからこそ、僕は怖い。怖くて怖くて堪らない」
最早隠しようもなく彼の体は震えていて、側近たちが口々に呼びかけるのもまったく耳に入っていないようだった。
「たった一つの過ちで、何百もの命が失われてしまう。何の気なしに口にした言葉のせいで、何人もの人間の運命を狂わせてしまう。ただ、声をかけただけ。会話の途中で、笑みをこぼしただけで」
震える拳を開き、ユノーは自身の頭を抱える。
「そんなことは――堪えられない」
唐突に、理解した。
この子は私だ。まだ、私の母が生きていた頃の。
毎日のように繰り返される勉強、勉強、勉強の日々。息抜きの時間は食事と睡眠の時間くらいで、時々マグダが連れ出してくれなければずっと自室と寝室、それに食事をする部屋だけを往復する味気ない日々が続いていた。
そうして教え込まれるのは、外国語はもちろんだけど、経済や歴史を始めとした学問に、将来人の上に立つための帝王学。教師たちは皆徹底して、国主である人間の言動の重さを私に教え込んだ。過去実際にあった歴史上の事実も上手に織り込んで。
もしかすると、教師たちの意図はそれだけ国主というものには絶大な権力があるのだという事実だけだったのかもしれないが、幼いあの日、私は確かに恐怖した。たった一度、演劇の最中、寝不足故の欠伸を堪え切れなかった国王のせいで、投獄、処刑の憂き目にあったという旅芸人の一座の話を聞いた時に。
国王本人には旅芸人たちは無事他国に旅立ったと伝えられ、王宮内ではその一座を呼び寄せた官吏たちがことごとく失脚していった。多分、その当時の王宮内の権力闘争の一端。国王の欠伸なんてただのきっかけで、それを口実に政敵を次々と追い落としていったんだろう。
意図した言動はもとより、意図しないことすらも利用されてしまう。だから国王は私に国王ではないただの父親としての接し方なんて知らないし、母である王妃もまた、私を王女だとは思っても自分の生んだ娘だという実感は薄そうだった。
寂しかった。孤独だった。でもそれ以上に恐ろしかった。私の知る父でも母でもなく、大きすぎる力を持った未知の相手。いずれ自分も、そんなわけのわからない存在になることを期待されて、強要された。
震える異母弟を見る。冗談でも揶揄でもなく、本当に心から、この弟は恐怖しているのだ。覚えのある感情。理解できないわけじゃない。
けれど。けれど、である。憐憫の情は抱くけれど、それでも私は、彼を傷つけ突き放す言葉を向けることしかできないのだ。
「じゃあ、死ぬの」
「え?」
「玉座か、死か。……貴方には、そのどちらかの道しか残されていないのに」
可哀想だとは、思う。それでは、望む望まざるとに関わらず、最初から選択肢なんてあってないようなものだ。
側近たちの視線には敵意が含まれ過ぎて最早殺意に近いものを感じる。応じるマグダは言わずもがな。挟まれる形になった私には大変精神と胃に優しくないけれど、それでもここで、怯んで言いよどむわけにはいかない。
「貴方が自ら王位継承権を放棄すると宣言しても、その体に流れるのは紛れもなく王族の血。しかも、直系の。代わりに誰が王になるのだとしても、そんな不穏分子を放置しておく理由はないわ」
「生涯にわたり、いえ、子孫の代に至るまで永久に放棄すれば」
「そんな理屈、『王族の血を絶やさないため』なんて大義名分であっさり覆されるに決まってるでしょう。ただでさえ、もう数えるほどしか残っていない『古の血』なのだから」
「暗黒時代」と呼ばれる、今より少し前の時代。
長く古い歴史を誇る国々はその時代にほとんど滅亡してしまい、今も残るのはこの王国も含めて片手で数えられるほど。いわば絶滅危惧種とでも言えそうな貴重な古い王族の血を、どんな手を使ってでも残そうとする人間は幾らでもいる。
「もしも本当に私が王位を継ぐことになったら、王配は十中八九メデルゼルク公爵でしょうね。王太子殿下、貴方、公爵の逸話を知っていて?」
「……領地経営に長けていると。実際、伯父上に代替わりしてから公爵領は目覚ましい発展を遂げていますよね」
だから国王、もしくは女王の王配となっても何の問題もないとでも言いたいんだろうか。私は思わず失笑してしまった。
「最近と言うには、ちょっと時間が経っているかしら。公爵の配下で、ある地域の管理を任されていた代官がね、領民のひとりを嬲り殺しにしてしまったのよ。泥酔して前後不覚になっていた、冷静な判断能力が欠けていたのだと代官は弁解したけれど、公爵は聞き入れなかった。事態をもみ消そうとした事実もあったし、殺された領民の家族が決死の覚悟で直訴にも来ていた。結局、代官は縛り首になって土地の外れに晒されたわ」
扇子の骨に指を這わす。いつの間にかついていた細かな傷をひとつひとつ確認するフリをしてユノーの様子を窺った。
「確かに、代官に下した処罰が、その、縛り首だというのは厳しすぎるとは思いますが」
考え考え、ユノーはどうにか自分の意見を述べる。だからといって、それで公爵の統治者としての資質を問うわけにはいかないのではと。
だけど、この話にはまだ続きがあるのだ。
「代官を処罰しても、被害者の遺族の感情は収まらなかった。加害者はこのように処罰したと言い含めても、それでは足りない、死んだ者を返せと言って聞かなかったそうよ」
「それは……気持ちは、わからなくもありませんが」
「そうね。無理な話だわ」
言葉を濁したユノーに代わって言う。
死んだ人間は生き返らない。魔術があるこの世界でも、それは変わらない。
理不尽に奪われた命に憤るのは当然だろう。命を返せと言いたい気持ちもわかる。わかるけれど、それを実際に要求してもどうしようもないことなのだと、遺族にわからないはずがない。
それでもやりきれない思いがあって、彼らは公爵に縋ったのだろう。加害者である代官は処罰されてしまったから、感情の行き場を失ってしまったのかもしれない。
「公爵は、遺族にわかったと頷いて――彼らの首を跳ね、町に晒したそうよ。『それほど強く望むのならば、死者を返してくれるよう、冥府の王に自ら頼みに行くと良い』と、そう言って」
そうして、首を晒した。「この者たちを使者に立て、亡き者の返還を冥府の王に願う」と、そう看板を立てて。
寛容で公正なだけでは統治などできない。一度要求が通ったことが、理不尽な要求に繋がった。増長と捉えることもできるだろう。始まりは被害者でも、公の処罰では足りぬと復讐を唱えた時点で、彼らは粛清の対象となったのだ。
理不尽に家族を奪われ、果ては自らの命まで。理不尽だと、私はどうしても思ってしまう。納得なんてしたくない。でも、それが今、この時代、この国の現実なのだ。
領民と領主は同等ではないし、そのように振る舞うことは許されていない。代官が処罰されたのは、公爵から預かっていた領民という財産を傷つけ失わせたからだ。人の命を奪ったという、殺人の罪を問われたわけではない。処罰を受けたということは同じでも、そこには大きな違いがあるのだ。
「……それでも、僕は」
言いかけたユノーを遮るように、ドアがやや乱暴にノックされた。
ドアの前にいた護衛騎士が、ドア越しに声を張り上げ「ご歓談中申し訳ありません」とまず非礼を詫び、急使の到来を告げる。
開いたドアの向こう側には急使を示す赤い腕章をつけた軽装の騎士がおり、肩で息をしながら踵同士をぶつけて鳴らし、敬礼した。
「申し上げます!」
ユノーが頷く。許可の合図と取ったのか、騎士は再度踵を鳴らして口を開いた。
「帝国第四皇子が、処刑されました……!」
反射的に腰を浮かせたかけたのを、マグダに諌められる。
動揺してはいけない。マグダに瞳で諭されずともわかってはいたけれど、それでも動揺せずにはいられなかった。
「第四皇子も、帝位を狙っていたのか?」
ユノーの問いを、側近のひとりが驚愕と困惑を抑えきれないまま「そんなはずは」と否定する。
「第四皇子といえば、継承順に従って『皇子』と名乗ってこそおりますが、正確には皇帝の甥に当たります。生まれも皇帝の妹がどこの誰とも知れぬ男との間にもうけた庶子であることから、皇太子が指名される以前から既に公爵として臣籍降下することが決まっていたはず。帝位争いにはほぼ関わりのなかった皇子です」
「なら、どうして。処刑と言ったって、仮にも皇族をそんな簡単に」
これ以上、ユノーとその側近の問答に付き合っている時間はなかった。いや、なくなってしまった、と言うべきか。
焦る気持ちよりも危機感の方が先走って、勢いよく立ち上がる。
「……ユノー。申し訳ないけれど、話は一度ここまでにしましょう。マグダ、公女様はどこに」
「自室に下がられたはずです」
「会いに行くわよ」
本当なら、今一番会いたいのはフラウルージュなのだけれど、彼女はどこにいるのかわからない。なら、第二皇子と第五皇子たちがどう動くかわからない以上、公女様に付いていてあげたい。
帝国第四皇子処刑。まさに寝耳に水、予想外の報せに、昨日公女様やフラウルージュと立てた帝国皇子追い出し作戦は早くも頓挫してしまった。でも、焦っている理由はそれだけじゃない。
(お茶会に来なかったのは、コレが原因ってこと?)
帝位に就く可能性が低かったとはいえ、皇子がひとり処刑された。それも、処刑されるまでにあったはずの更迭、帝国議会での皇帝、元老院議員、選帝侯らを揃えての喚問――帝国、特に貴族以上の身分の者にとっての裁判にあたる――の過程が、何一つ外部に漏らされなかったという異常さ。これが単純に帝国側の情報統制のおかげならまだしも、漏れるものすらなかった、つまり、そのような正式の手順を無視して処刑が執行されたのだとしたら、考えられる限り最悪の事態だ。
「私も行きます」
「公女様は後宮よ。遠慮するのが礼儀じゃないかしら」
「……彼女はまだ幼い。それなのに、僕の我儘で振り回してしまった。それは理由になりませんか」
歩きながら、後を追いかけてきたユノーをちらりと見る。
まだ幼くとも、男の子だからだろうか。お茶会用のオシャレをした私が早足で歩いても、遅れずにくっついて来る。
一応、返上したいと言ってはいたが、ユノーはまだ王太子である。この国での成人を迎えたとはいえ、未来の王は国王以外でただ一人後宮への出入りを誰にも咎められない人間だ。
本当なら、私はそもそも異母弟を止められる権利などないのだ。
「……勝手になさい。公女様が少しでも嫌がれば、すぐに叩き出すけれど」
「心配を押し付けるほど、厚顔にはなれませんよ」
小さく息を吐いて、それから気づかれないように苦笑する。
ユノーの困り顔に、少しだけ自分との血の繋がりを感じた。