一先ず、おやすみ
これでよかったのか。
姉さんに甘え過ぎたのではないか。
快晴の空をぼんやりと眺める。
一つの雲が目に付いた。
今の俺は、あの雲みたいだ。
何を考えるともなしに、流されるままにぼうっとしている。
姉さんと雛菊と刃を交えた日の翌朝だ。
昨夜はずっと姉さんに慰められて、今朝の朝食は赤面ものだった。
我ながらこれまでにない痴態を晒したと思う。
いくら苦しかったとはいえ泣いて、しかも一晩中姉に包まれて寝てしまうのは──ここ最近もあったか。
いやしかし、妹である雛菊にも慰められて、しかも一緒に寝たし。
これはもう悶えずにはいられない。
実際、起きて状況を把握した瞬間から前と後ろを姉妹に挟まれてるのも構わず身を捩ったけど。
思わずため息をつく。
結局、俺はまだ子供ということか。
「雛斗さん」
「ん、雛里か」
振り向かずにぼそりと言った。
雛斗の名を呼ぶ者は姉さんと盧植、雛里くらいのものだ。
配下の四人は約束をしていて、余程のことがない限り真名を呼び合わない。
雛里は木陰に腰を落ち着ける俺の隣におずおずと座る。
自分を見るのをやめて、そう離れていない広場で対峙する雛菊と黒破、黒希の方に顔を向ける。
見てないと後で二人に文句を言われる。
俺が見なくとも雛菊がいるのだからいいだろうに、と思うのだが、
「黒薙様に見守られるとボクたち、力が湧くんだよ!」
とのことだ。
俺にそんな追加効果はない。
「あ、あの。ごめんなさい。私が」
「いや。いつかは言うことになったはずだし。それが早まっただけで、いつ言っても姉さんたちと喧嘩はしたと思うよ。それに、言えてよかったと思う」
あう、と雛里は声を漏らして俯く。
雛里の言葉で俺の意志をみんなに言えた。
想いは変わらなかったけど、雛里に言われなければ口に出して言えなかった。
昨日みたいに言わずに先延ばし先延ばし、いつかは姉さんに怒られただろう。
「喧嘩したけど、この方が気持ちがいいさ。様子見ってことになったけど、俺の中のもやもやが消えたからさ」
「……ほんとうに仲が良いんですね。雛斗さんたち、兄弟は」
ゆっくり顔を上げて、ようやく笑ってくれた。
「まあね。そこらの兄弟よりは仲が良い自信はあるよ。姉さんはちょっと、度が過ぎるけど」
まあ、もっと凄いのがいるけど。
あの人は常軌を逸しているというか。
「とにかくさ。これからは旅を続けるか、どこかに定住するかのどちらかになりそうだね」
今の俺は、ほっとした表情をしているのだろう。
半ば念願が叶ったようなものなのだ。
とはいえ、様子見なのでいつかは昨日みたいに言い争うかもしれないけど。
「雛里はどうする?」
「え?」
訊かれるとは思わなかったと、雛里はきょとんとしている。
「まだ涼州と孫策の治めている地を訪れただけだけど、それなりに長い旅をしたし」
「──私はまだ雛斗さんたちと一緒にいたいです」
思わず頬が緩んでしまった。
こう言ってくれる人がいる、と実際にわかると嬉しい。
姉妹と四人の配下じゃなく、雛里に言われている。
「便りでも出したら? 水鏡先生と諸葛亮に」
「そうですね。でも朱里ちゃんの居場所がわかりませんし。ひとまず水鏡先生に便りを出して、朱里ちゃんの居場所を訊いてみます」
「うん。一応、今回のことの顛末(てんまつ)も書いておいて。知っておいて欲しい人の一人だし、水鏡先生も俺のことを推してくれたからね」
「そのつもりです」
そこで一つ引っ掛かった。
「諸葛亮は水鏡先生の元にいるんじゃないの?」
「私みたいに違う人たちと旅に出ました。雛斗さんみたいに、すごく強い方だと思います」
「俺は弱いよ。けど、それは会ってみたいね」
姉さんに負けたし。
得意の居合い斬り“黒閃”を使えなかったとはいえ、黒薙流を使わないという同じ条件下で負けた。
関羽や張飛、趙雲。馬超と呂布もいるし、それにも勝ると思う人もいる。
俺より強い人が、この世に何人いるかわからない。
雛菊と黒希、黒破の打ち合いは、やっぱり雛菊の圧勝で終わった。
武にはそこらの者より心得のある二人掛かりでも、雛菊には遠く及ばない。
三人とも手加減したようだけど、それでも差は大きい。
「雛斗さんたちって、全く違う動きをするんですね」
「それぞれの強みが違うからね。雛菊──青薙は俺や姉さんより怪力だから、それを活かす戦い方。姉さんは気を使うのが得意だから、それを活かす戦い方。俺は速さには自信があるから、それを活かす戦い方。兄弟なのに、戦い方はこんなに違うんだよね」
「わかる、というか当然のような気がします。三人が違えば、それぞれないものを補う戦い方ができます。三本の矢が重なれば、一本を折るより難しいのとおんなじです」
「『三本の矢』ね」
苦笑いしそうになって、頬を掻いて照れ隠しに見せた。
まさか日本の武将の話を、ここで聞くことになるとはね。
でも、確かにそうだ。
雛菊たちと盧植の私塾に戻る。
二人は悔しそうな顔ではなかった。
むしろ楽しそうに話していた。
雛菊は俺たちより配下とは短いけど、仲良くなってくれてよかった。
「雛斗。白狼山に行かないか?」
盧植と部屋に迎えるなり、姉さんはそう切り出した。
表情はいつも通り、涼しい顔だ。
盧植もにこにこしている。
「白狼山って、幽州でも相当北にある山だよね?」
記憶から引っ張り出す。
幽州を通りすがった時、地図を眺めていたら格好いい名前で目に入ったのを覚えている。
こんなんで覚えてるなんて、雛菊のネーミングセンスを笑えないかもしれない。
「烏丸族の多い地域だが、冬に残る草を食べる馬は屈強らしいぞ。寒さの修行が与えてくれるものも大きいだろう」
「そこに草盧でも組もうってことか。姉さん?」
「そういうことだ。雛菊」
それはいいな、と思い始めていた。
兄弟と好きでいてくれる四人、雛里と八人で静かに暮らすのだ。
余生を送る老人みたいだと思わなくもないけど、今は穏やかな生活が欲しい。
「遠いけど白狼山なら、何かあった時も助けになれるわ」
「盧植先生の手を煩わせるのは本意ではないのですが」
「気にしなくていいのよ。雛斗くんが立たないっていうのは残念だけど、あなたの人生はあなたのものなんだから。だけど、あなたを必要とする人は周りだけじゃないってことだけは、頭に入れといてね」
「はい。ありがとうございます。しばらくは、この世をじっくり見据えたいと思います」
けど、そんな暇は長くはないと予感していた。
なにやら裾を引かれている感じがする。
「雛斗はよさそうだが」
「私もいいと思う。兄さんやみんなといるのは、楽しい」
「私たち四人は黒薙様に従います」
当然のように黒永が言った。
他も頷いている。
「雛里も行く? 旅という旅はもう、しなくなると思うけど」
「大丈夫です。私もこれまでの旅を見返したいと思います」
龐統を真名で呼ぶのは、昨日と今朝で既に知れていた。
他のみんなも、白狼山での暮らしで真名を預け合うようになるだろう。
「よし。では、現地で草盧を立てるとしようか」
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この時、黒薙はそう遠くない未来、静かな暮らしが終わることをかすかに予感していた。
その予感を信じたくなかったのだ。
未来まで時は、本当にそれほどかからないが未来のお話はまたの機会に。
その時まで、この物語は一旦おしまい。
「世を離れ 白狼に臥せ 次期を待つ 一先ず終止符 黒竜の旅──ね」
まったく。私(わたくし)がいないところでいろんな女の子と仲良くなっちゃって。
妬けちゃいますわ。
「でも──そんな雛斗も、大好きですわ」
お待ちになっていて、雛斗。雛美。雛菊。
次期は、すぐに来ますわ。




