互いの真名
何も変わっていなかった。
姉さんと並んで学んだ卓も、壁際にある書棚も。
もちろん、盧植先生も。
「知人から聞いたよ。一年前、雛斗くんが官を辞したって。それで旅を始めたってね」
「誰からそれを?」
「皇甫嵩さんよ。あの人、いきなり雛斗くんが消えたのに心配してたわよ」
頭に思い浮かべる。
綺麗な長い茶髪の女性だ。
確か、朱儁と右将軍・左将軍に就いていたはずだ。
才気に富んでいる訳ではないが世渡りが上手く、今の高位におさまっている。
とはいえ、対面した時に見た瞳に邪気は感じられず、欲のない人だと思った。
俺は嫌いじゃない。
風鈴の私塾を訪ねたのは昼過ぎだ。
この人のことだから昼前に来たら昼食をご馳走する、と言って世話焼きするだろうからやり過ごしてきた。
好意は嬉しいけど、これから厄介になるかもしれないのに図々しいと思った。
先日宿に泊まったのは、少しでも風鈴の家に泊めてもらう期間を少なくしようと思ったからだ。
「今度、機会があったら挨拶しに伺います」
「そうするといいわ。にしても、雛美ちゃんと出発した時から、随分とお友達が増えたわね」
丸卓を囲んでいる黒永たちを見回す。
「みんな、いい目をしてるわ。やっぱり風鈴の目に狂いはなかったわ」
「何がですか?」
風鈴というのは、盧植の真名だ。
風鈴の元で学んだ期間も長い。
真名を預けるのに充分な密度の時間だった。
「雛斗くん。貴方には人を幸せにする力があるのよ」
反射的に目を細めた。
しかし風鈴は動じず、まだ笑っていた。
「始めて会って目を見た時から、雛斗くんは只者じゃないって思ってたんだけどね。こうして二年経ってみたら、こんなに幸せそうなお友達に囲まれてる」
「……実は、その友達と長く話し合っていることがあるのですが」
ひとつため息をついてから風鈴に、水鏡先生に言われたことや俺たちの将来のことなどについて全て話した。
将来的にどこかに拠って立つのか、もちろん俺が望むように静かに暮らすのかも。
南を旅している時に薄々勘付いていたけど、やっぱり平穏な暮らしを望んでいるのが自身の中で強かった。
「そんなことを悩んでいたとは、気付きませんでした……」
龐統がふと、肩を落とした。
「あ、ご、ゴメン。龐統には詳しくは話してなかったね」
「……いえ。黒永さんたちから黒薙さんが悩んでいることを聞きはしましたので。それは黒薙さん自身が決めるとも聞きました。だから、話されなかったのは仕方ないと思っています」
確かに姉さんたちにはそう言った。
雛菊にも言った。
龐統には、俺自身から言ったことはない。
自覚しないうちに、龐統を除け者にしていたのかもしれない。
これでは真名を教え合うのは、本末転倒ではないか。
「うぅん。風鈴としては官職に復帰して、然るべき官位をもらって土地を持ってもらいたいって思ってるんだけど。雛斗くんは乗り気じゃなさそうね」
真名を授け合った仲だけあって、盧植先生は俺の心境をよく汲み取っていた。
「乗り気じゃないのは確かですが」
「なんでそうなっているのか。言わんとしていることはわかるのよ。仲間を傷付けたくないってね。それでお友達は納得するかは、まあ、雛斗くん自身で訊いてね」
ちらりと隣の姉さんを見る。
姉さんは、つんとして目を瞑っていた。
聞くよりも察せよ、ということだろうか。
「みんなとよく話し合うことね。雛美ちゃんとも、みんなとも長いし、より濃い時間を過ごしたのなら、なおさらね」
───────────────────────
「ゴメンね、龐統。龐統だけ除け者みたいに」
「だ、大丈夫です。黒薙さんの悩むのも仕方のないことだと思います」
それでも心は痛んだ。
龐統を仲間と思っていた。
龐統もそう思っているから黒永たちとも話して、仲良くなろうとしていた。
それを裏切る行為ではないか。
既に夕食も終えた夜中で、月明かりが優しい時間だった。
木の根に座ると、龐統も遠慮がちにしゃがんだ。
学生時代によく昼寝をしていた木の下に、龐統といた。
昼寝をしたのは、流石に休みの時だけだったけど。
それも鍛練も終えてからだったから、そんなに機会はなかったけど心地よかったから記憶によく残っている。
「ううん。俺は、龐統を仲間だと思ってたし。話さないのは裏切りだと思うから。ここで話しておきたい──龐統は、俺はこれからどうすればいいと思う? 大まかに言えば、官に戻るか。静かに暮らすか」
「わ、私ごときが」
「龐統は、仲間だよ」
そう言うと龐統は肩を震わせた。
龐統もまた、俺たちに遠慮していた。
控えめな性格なのはわかっていたけど、それ以上に優しい娘だ。
「相談に乗ってほしい。一意見として。元は、俺一人で決めようと思ってた。けど、全然決まらないんだ。ホントは静かに暮らしたいんだけど、それはみんなを裏切ることになると思って」
「……黒薙さんが、静かに暮らしたいっていうのは。みなさんを傷付けたくないから、ですよね」
「うん。俺が立つと決めたら、仲間はみんな付いてくるはず。それは、俺が命令しなきゃいけないだろうし、危険に駆り出すこともあるだろうし。そんなのに、仲間に行かせたくない。俺の好きな人たちだから」
「……黒薙さんは優しいんですね。本心ではそうしたいのに、みんなの意見を気にして」
鼻を鳴らして月を見上げる。
これは気恥ずかしいからで、別に不機嫌な訳ではない。
「だからこそ、みんなに自分の意見をぶつけてみたらどうでしょう?」
確かに、これまで聞くばかりで自身の意見をはっきり言ったことはなかった。
決める決めると言いながら、ここまで引きずっている。
「……そうだね。うん、そうだ。明日、みんなに言ってみるよ」
「はいっ」
「ありがと。龐統。俺の真名は、雛斗」
「えっ?」
「龐統とは、もう何ヶ月になるかな。でも、真名を教えたいって思うまでになってる。だから真名を預けたいんだけど」
「え、えっと。わ、私は雛里です!」
「雛里、ありがと。これで、一歩足を踏み出したよ」
今は帽子のない頭を撫でる。
ふわふわした銀髪は柔らかく、歳相応の撫でやすさがあった。
雛里の耳は真っ赤だけど、気付かないふりをした。
木陰でも、月明かりが明るいからかすかに色はわかる。
みんなが何を言うであれ、俺の意見は変わらない。
みんなを、傷付けたくはない。




