美周郎
船には慣れた方がいい。
快晴の青い空の、ぽつりと一つ漂う白い雲をぼうっと眺めていた。
ゆらりゆらりと揺られながらも頼りない大きさの雲を見つめ続ける。
中国は大きな川がいくつかあるし、これからも乗る機会はあるだろう。
黒慰はあまり船が得意ではないらしい。
まあ、らしいといえばらしい。
体が弱い訳じゃない。
そこは俺と姉さんで鍛えた。
にしても、長江は広い。
「兄さん、大丈夫?」
雛菊が背中に訊く。
振り返らずとも雛菊は隣に、縁に寄りかかった。
右眼の黒い眼帯は相変わらずだ。
そういえば、しばらくその中を見ていない。
雛菊はあまり中を見せたがらない。
「昼前だからお腹になにも入ってないし、大丈夫。それに俺は、乗り物酔いはしないよ」
「なのに上の空。私が訊いているのはそっちの方だ」
それはそうか。俺は雛菊のことをよく知っているつもりだ。
たぶん、逆も然りだろう。
「みぃ姉に聞かなかった? きく」
「姉さんには兄さんに訊けって言われた」
「当人の問題だから、かな」
まあ、姉さんたちにそう言ったし。
姉さんも姉さんで拗ねてるのかもしれない。
相談してくれないからって。
でも、やっぱりこれは自分の問題だ。
ちなみに「みぃ姉」と「きく」は前の世界にいた姉さんと妹・雛菊の愛称だ。
姉弟妹しかいない時にしか呼ばないだろう。
「実はね、水鏡先生っていう人に決起して領地を持った方がいいって言われてね」
「国を持てってこと? それは、この世の平和を望んで?」
「俺は、俺が立ったところでそこにいる民しか治めることができないって言ったんだけどね」
「兄さんは怠け者だ。のんびりと暮らしたいと思っているんでしょ」
雛菊に肩を竦めてみせた。
まったくその通りだった。
俺は争いに関わらず大切な仲間たちと静かに暮らせればいい、とこれまでもずっと考えていた。
伊籍の時は、聡明な伊籍が蔡瑁の手で死ぬには惜しいと思ったからだ。
あの人は世にとって死んでいい少女ではない。
「兄さん。私は旅をして、この世界の人々を見てきた。元いた世界と、全然違い過ぎる」
「わかってるよ。きく。俺も見てきた。不憫でならない。人は幸せになる権利があるのに、それを奪う人がいる」
例えば、朝廷。例えば、山賊。例えば、役人。
この世には奪う人が多過ぎる。
「兄さんはそれを変える力がある。それを腐らせるのは」
「もう。みぃ姉たちと同じ事言うね」
ちょっと苛ついて雲に背を向けた。
そういう視線は黒慰からでさえ感じていた。口には出さないものの、続けば鬱陶しくもなる。
「あっ……。兄さん、ごめん」
雛菊に裾を摘まれる。
一気に、ちょっと罪悪感が湧いた。
「あ、いや。俺も大人気なかったよ」
「……兄さんはまだ子供でしょ」
「そうだね」
苦笑いして、振り向いて裾の手を握る。
なんやかんや我儘言ってるだけだ。
それは確かに子供だ。
長江を伝って江夏を通り、やがて建業に辿り着いた。
山越族を討伐したという孫策の軍は、既に建業に戻っている。
建業は孫策の治める本拠地だけあって、やはり栄えていた。
船から降りた俺たち一行は宿をとって休むことにした。
まだ昼を過ぎた頃で、外を見物したいけど。
「黒慰、大丈夫? 船は苦手かな」
「なんだか体の中がくらくらして気持ち悪くなるんですよ。馬の時はこんなことないのに」
苦笑して少し俯く黒慰の背中をさすった。
黒慰がこんな調子だからやめておいた。
雛菊と話してからというもの、多少気分が楽になっていた。
重く考え過ぎていたのかもしれない。
雛菊はそれを心配して訊いてくれたのに、俺は邪魔者扱いしちゃって──その後、改めて謝ったら、
「兄さんのその優しさは、やっぱり民のためにあると思う」
と返されて、また苦笑いした。
雛菊は姉さんたちを支持するらしい。
そもそも立たない、立ちたくないと考えてるのは俺だけだろう。
「ボクを置いて出かければいいじゃないですか」
「調子の悪い黒慰を放っておけないよ。みんなも慣れない船旅で疲れてるだろうし、今日は大事を取って休も。ね?」
気をかけさせまいと笑って顔を覗き込むと、黒慰は頬を赤くして顔をそらした。
少し胸を締め付けられたけど、水をもらってくると言ってから部屋を出た。
黒慰も可愛い女の子だ。
ああいう表情もできる。
部屋には黒永と龐統もいるし、大丈夫だろう。
龐統も黒慰との関わり方を覚えたらしく、兵法の話を持ちかけたりしている。
必要がなければ黒慰は親しくない他人とは関わろうとしない。
でも、博学とわかっている龐統に兵法について持ちかけられたら勉強になると考えて話すだろう。
「雛斗。黒慰の様子はどうだ?」
宿の中を散策していた姉さんと鉢合わせた。
黒希は宿の宿泊者や従業員などと話して情報収集、雛菊と黒破は荷物を運ぶ馬の世話をしている。
涼州に長く滞在していたらしく、雛菊の馬の扱いはなかなかのものだった。
「まあ、大丈夫だと思う。乗り物に弱いのかな。馬は大丈夫だったのに」
「まあ、北の生まれらしいからな。仕方のないことだろう。では、今日は宿でゆっくりか?」
万一の退路を探っていた姉さんはそれを終えたらしく、俺に同行する。
黒慰、黒永、黒希は長江よりは北の生まれらしい。
たぶん、黒破もだ。
洛陽の家に連れてきた時には、既に馬の扱いには長けていた。
幽州の烏丸の出ではないかと、俺は思っている。
他の三人は、黒永ははっきりしてるけど黒慰と黒希はよくはわからない。
二人は俺のところに来る前の環境が環境だった。
何はともあれ、俺たち姉弟妹はともかく四人は船には慣れていない。
「そうか。では、兄弟で身を重ね合おうか」
「ばっ! な、なに言ってるの!」
「涼州を出てから聞いただろう。雛菊も雛斗のことを好いている」
た、たしかにそんなことは言ってたけど。
「姉さん。また兄さんを弄ってるのか?」
と、噂をすれば今度は雛菊と鉢合わせた。
「姉弟のコミュニケーションだ」
「みぃ姉、あんまり未来の言葉は使わないでよ」
「おっと。雛菊もいるからついな」
まあ、仕方ないのかもしれない。
未来から落ちてから雛菊とはそれきりだった。
「さて、雛菊。今宵は雛斗と愛し合う時間だぞ」
「だ、だからさ、みぃ姉」
「えぇ! し、しかし……姉さんはそれでいいのか?」
「大丈夫だ。私も同席して手取り足取り、気持ちのいいように教えてやろ、あぅ!」
手刀で姉さんの頭を軽く叩くと、意外に可愛い声が出た。
「部屋は二部屋しか借りてないし、そういうことはできないでしょ。それに、姉さんがやりたいだけじゃない」
「私だけじゃないぞ。雛菊だって雛斗に触れたいはずだ。なぁ、雛菊」
「え、いや、それは……」
雛菊は黒髪から覗く耳まで真っ赤にして、何か言おうとしたけど俯いてしまった。
堅い口調してるけど、乙女だなぁ。
「きく、ゴメン。機会があったら、二人きりで話そ。ね?」
顔を覗き込んで言うと居心地悪そうだったけど、雛菊はこくりと頷いた。
「まったく。そんなんだから色んな女に好かれるのだ」
「誰にでもこうする訳じゃないよ」
ふんと鼻を鳴らして歩き出す。
女たらしみたいに言われたのが気に入らなかった。
「違う。人望があるということだ。上に立つ資格がな」
「俺を怒らせたいの?」
「怒ったら勢いで抱いてくれるかと」
腹が熱いのをため息で吐き出す。
期待くらいはしてるかもしれないけど、嘘だろう。
なんで怒らせたいんだか。
そんなに俺を乱世の中に立たせたいのか。
もやもやしたまま水瓶から水を竹筒で貰って部屋に戻った。
「黒薙様。どうかされましたか?」
黒慰に竹筒を渡すと黒永が訊いてきた。
表情に出てたかな。
「ああ、大丈夫。姉さんに弄られただけだから気にしないで」
「なら良いのですが」
黒永と黒慰は龐統と兵法について話し合っているらしい。
こうして見識が広まってくれればいい。
黒慰も人と話す、いい経験になる。
「ちょっと外の空気を吸ってくるよ。姉さんはついて来なくていいからね」
「むっ。おねえちゃん、ちょっと悲しいぞ」
「たまには一人で黄昏れていたいんだよ」
ホントはこれからの話をされたくないだけだ。
逃げてることはわかっている。
それでも、支配者というものは犠牲を見なければならない。
それは俺にはできそうにないのだ。
「ゴメンね、黒慰。行かないとか言っておいて」
「あ、大丈夫です。気にしないでくださいよ」
酔いも醒めて、だいぶ顔色がよくなった。
それにはほっとして笑みを浮かべて頭を撫でた。
くすぐったそうな、嬉しそうなのが混ざった表情をしていた。
遅くとも夕飯には戻ると言って、宿屋の主人にも言い置いてから外に出た。
店を眺めながら歩いていると、やっぱり魚介類が並ぶのが目立った。
中国は淡水魚の料理が基本のようだ。
だから日本のように刺身で食べることはしない。
生臭いからだ。
煮る、蒸す、揚げるなどしてから“あん”をかけたりするのが普通らしい。
「綺麗な水があるところで泳ぎの練習をするのもいいかもなぁ」
まあ、水着がないからやりにくいけど。
姉さんと雛菊に任せれば大丈夫かな。
たぶん、みんな運動神経はいいから泳げるようになると思うし。
あ、でも龐統は大丈夫かなぁ。
「そこの者」
凛とした声が、俺を呼んだ気がした。
立ち止まって振り向くと、褐色の肌に長い黒髪の美しい女性がいた。
「私でございますか?」
「そうだ。泳ぐ、という言葉が耳に入った。なんのことだ?」
こちらに近づきつつ訊いてくる。
眼鏡の奥の瞳はまっすぐこちらを見据えている。
とても沈着な雰囲気があるけど、それでいて熱いような雰囲気がある不思議に惹きつけられる瞳だ。
「私は北から来たのですが、仲間たちは泳ぐのに慣れておりません。綺麗な河でもあったら泳いで慣れておくのもよいかと思った次第です」
頭を下げてから言った。
見たところ役人だ。
それに鋭い感じがする。
こういう人には正直に話しておくことだ。
「ほう、北からか。旅の者か?」
「はい。これまで北を中心に旅していたのですが、こちらで争いがようやく収まったそうなので、来訪しました。やはり、北と違って水運が盛んで面白いと思っていたところです」
「ふむ。情勢を見る目に長けているようだな。服装を見るに、生活に困っているようにも見えない──他国の間者ではないのか?」
そう来たか。
まあ孫策は、今は静まっているけど拡大策を取っている。
国が大きくなれば警戒する他国がいるのは当然で、それからの間者がいることを警戒するのも当然だった。
「滅相もありません。私はしがない旅人です」
「なら、証明できることはないのか?」
うぅん。厄介なことになった。
旅人の証明なんてできることがない。
まあ、俺には旅人となった経緯があるから、それを話せば証明にはなると思う。
俺は低いとはいえ官職を持っていたから記録には残っているはずだし、この国にも知っている者がいるかもしれない。
「申し遅れましたが、私は姓を黒、名を薙と申します。元役人です」
「なに。それが何故、旅の者に?」
「その経緯が証明になればと思います。お話しできる場所へ移動願いませんか? そちらがよろしければ、貴方様の警護があるところでも構いません。まだ、私を信用できないでしょうし」
「──噂になりたくないのか、込み入った話なのか。まあ、よいだろう。黒薙の言うことに従ってみよう。ついてきてくれるか?」
頷いて、歩き出すのについて行った。
夕食までに帰れないかもな、とちょっと後悔した。




