天下無双
「機嫌を直せ、雛斗。確かに腹立たしい男であったが」
それでも俺は、黙って茶色い水面の先を見つめる目は変えなかった。
風もあり、人や物資を運ぶ船は快速だった。
晴れた雲も動きが速い。
今朝のような陽のあるうちにしか船など出すことはできないだろう。
長江を商業用の船で北上していた。
商業用の船は旅人なども乗せており、俺と姉さんの他にも旅人が甲板から水面を覗いていてはしゃいでいた。
「雛斗のやったことは正しい。伊籍殿にも危害は及ばないだろう。それで良しとしないか」
「ホントなら、なにかしらの恩賞があってもよかったはずでしょ。それから目を背けて」
「宦官と変わりがないな。あれでは」
俺たちは既に襄陽を立っていた。
賊の討伐から戻った俺たちはまさか成功させると思っていなかった蔡瑁は、伊籍ではなく黒薙たちが区星を討伐したと言って伊籍の功績を認めなかった。
寡兵で賊を討伐した俺たちを取り立てようともした。
帰還してから翌早朝に襄陽を出立した。
蔡瑁に取り立てられたところで、後で邪魔になったら伊籍のように取り除こうとされるに決まっていた。
なにも言われないうちに出ていき、伊籍にしか功績が残らないようにした。
後で蔡瑁がなんと言おうと、俺たちはいないのだから劉表やその他の目には伊籍しか映らない。
伊籍とは別れを交わしたかったけど、仕方のないことだった。
「もういいよ。もう、蔡瑁に会うことはないだろうし。ところで、黒慰と龐統はどうなの?」
「相変わらず、黒慰は人見知りが激しいな」
甲板から眺める俺の隣の姉さんは苦笑いする。
人見知りなのは性格と過去のせいだから仕方ないけど、これから人と関わることは必ずある訳だし、やっぱりちょっとでいいから人慣れしてほしい。
「雛斗が仲介すれば良いのに」
「俺も龐統と話さないとね。それほど関わっている訳でもないし。そういう姉さんはどうなのさ?」
「弄りがいのありそうな娘だとは思うがな」
その言い様に今度は俺が苦笑した。
お茶目な姉さんらしい。
この船は北岸に向かっている。
本当は孫策の治める建業へ行きたかったんだけど、どうも山越族が暴れているらしい。
山越族は孫策の治める地一帯に住む部族だ。
前から孫策が治めるのに不満があったらしく、かといって小覇王とも呼ばれる孫策相手ではおおっぴらな反乱は起こせず。
最近は大人しくなったものか、と思ったら大きく出てきた。
それを孫策は、今回は徹底的に叩こうと考えたらしい。
そういうことで、しばらくは揚州に面白いこともなさそうだから涼州へ行こうということになった。
涼州へは前々から行ってみたかった。
騎馬で有名だし、なにより馬超がいた。
彼女とはまた話してみたかった。
それほど待たずに岸に着いた。
その後、日をかけて弘農を通って長安に辿り着いた。
「さて、この辺は董卓とかいう太守が治めてるらしいけど」
呟きながら斧を振り下ろし、丸太を割る。
「さて、今度はどんな人なのかな」
黒破が言葉真似して同じく薪を割る。
路銀稼ぎに部屋を間借りさせてもらっている飯店の手伝いをしていた。
お昼も頂いてしまって、主人がよい人で良かった。
「黒希に情報収集は任せているけど」
「私は早く、黒薙様の言ってた馬超に会いたいな」
「同じ槍使いだもんね。気になるのは仕方ないか」
黒破は大槍を得意としていた。
怪力は姉さんにも勝るものがあるけど、技の部分でまだまだだと思う。
強さ的には姉さん、俺、黒破、黒希、黒永、黒慰──そんな感じだと思う。
薪割りを終えて、主人に散策に出ると言って街に繰り出した。
「えへっ。黒薙様と散歩は久しぶり〜」
まだ幼いな、と俺はふっと笑った。
鼻で笑うのは癖だ。
別に相手を小馬鹿にしてる訳じゃない。
黒破もそれはわかってて怒らない。
姉さんや黒永たちは他の仕事に駆り出されていた。
それもすぐに終わるだろう。
みんな、俺より要領がいい。
「いっつも黒薙様は一人でどこか行っちゃうし。いても、だいたい白薙様と一緒だし」
「ゴメンゴメン」
「まっ。いいよっ。今日は黒薙様と一緒だし」
嬉しそうに笑う黒破の頭を撫でてやると、肩を縮めてはにかむ。
俺より二つくらい下のはず。
なのに、背、低いよね。
俺の胸より下だもん。
黒希とあんまり変わらないくらいだし。
精神年齢も黒希と同じだと思う。
二人で談笑しながら街を巡っていると、やがて城門まで辿り着いてしまった。
街の周りは田畑が囲んでいる。
中国の城は日本のそれとは違い、城の中に街がある。
「そろそろ帰ろうか。部屋は姉さんに任せきりだし」
「そうだね」
「ワンっ」
黒破の返事に続いて、変な声が聴こえた。
二人して眉を潜めて、下を見てみる。
「犬?」
「犬だね」
俺の足元に犬がいた。
いつの間にいたんだろ。
「うんしょっ。あんまり重くないね」
「そんなことより、飼い犬かな。だとしたら飼い主探さなきゃだけど」
「セキトを離せ……」
急に背中に殺気が刺さり、全身に鳥肌が立った。
腰をかがめて振り返る。
赤髪の短髪の少女が立っていた。
ただ立っているのではなく、全身から殺気を放ち、とても長い戟を片手で持っている。
「黒薙様!」
犬を下ろして黒破も刀に手をかけ、俺の前に出てくる。
槍は置いてきている。
「何者だ。こんな殺気を放つとは」
斬刀“黒影”を腰だめに構える。
幸い、人気のないところで民たちに被害が及ぶことはないだろう。
この少女が打ちかかってきたらの話だけど。
「セキトに何をした……」
「セキト?」
黒破が眉をひそめる。
人の名前だろうか、いや、人はいないし──。
「もしかして、犬のことか?」
少女の方に寄っていた犬を見ると、少女がかすかに頷いた。
なんだ、そういうことか。
そうわかると“黒影”から手を離した。
「セキトなる犬には、何もしていない。いつの間にか私にくっついていた。本当だ」
少女の赤い眼をじっと見つめた。
見たところ、武勇に秀でている。
それも信じられないほどの腕前だ。
俺と姉さんにも勝るかもしれない。
「……嘘、ついてない眼」
殺気が消え、少女は戟をおろしてセキトをひょいと拾った。
肩から力を抜いて、額を手の甲で拭った。
すごい殺気だった。
世の中には信じられないほどの豪傑がいる。
「わかってくれて、よかった」
横に出て、黒破の強張った肩を抱く。
殺気を真正面から受け止めて、首や額には俺と同じように汗が滲み出ている。
「しかし、恐ろしい殺気だった。よろしければ、お名前をお聞かせ願いたい」
「……呂布、奉先」
ぼそぼそと少女が言った。
呂布──呂布って、あのゲームでも有名な!?
俺は相当間抜けな顔をしているのだろうけど、驚かずにはいられなかった。




