区星の乱
翌早朝、ようやく上陸した。
長沙まで二十里(約八キロ)。
先に小舟で上陸させた斥候の報告を受ける。
周囲に賊の気配はないという。
「気付かれていないのなら、奇襲をかけたいところだが」
「雛斗のお得意技だからな。しかし、今回は披露できまい」
髪をすいて整える姉さんが苦笑いするのに鼻を鳴らす。
黒永他四人の配下が、軽く兵を動かして陸慣らしをしていた。
それを小高い丘から俺、姉さん、伊籍で見下ろしていた。
奇襲が得意だった。
敵の隙を突いて、全軍を持ってその混乱を叩く。
そうしなければ寡兵では勝てない。
軍学を身につけ始めた頃から、それを突き詰めていた。
「長沙に送った斥候は?」
「まだ戻ってこないな。この慣らしが終わる頃には戻ってこよう」
姉さんに頷く。
その報告をもって軍議を始めるつもりだった。
区星を長沙城から引きずり出す策を練る。
それほどせずに斥候が戻ってきた。
長沙城から見て丘に隠れる位置に陣屋を張らせ、兵糧をとらせる。
それを終えてから、黒破に兵の監視を任せて他を幕舎に呼び寄せた。
その頃には陽はすっかり上がっていた。
「斥候の報告では、賊に気付かれた気配はない。区星はやはり城の中だろう。城内の賊は集めに集めて、一万を超えると黒希が探ってきた」
「えっ、いつの間に」
伊籍が目を見開く。
黒希が嬉しそうに笑った。
「黒希は潜入捜査が得意です。上陸した時に、斥候を放ったのと同じくして潜らせたのです」
撃剣という身に隠せる、目立たない武器を持ち、身のこなしも身軽な黒希は敵地の潜入捜査を任せることが多かった。
まだ幼いのに任せるのは少し気が引けるけど、黒希ほどの腕前ならよほどの猛者じゃなきゃやられない。
それほどには鍛えた。
「しかし、一万とは。こちらは六百ですよ」
「まず、普通に勝つことは不可能だな」
黒永が言うのに、姉さんが肩を竦めた。
「黒薙殿。ここは私が膝を屈してでも援軍を頼んでみます。二千や三千ならともかく、一万を相手にするのは無理です」
「伊籍殿。姉上は普通に勝つことは不可能、と言いました。普通に当たらなければ良いのです」
本当のところを言うと、伊籍に頭を下げさせることはしたくなかった。
「黒慰、龐統。何か策はないか?」
「ボクは、黒薙様と白薙様の武勇に頼んで区星の首を取るのが、一番現実的だと思います」
「黒慰さん。確かに黒薙さんと白薙さんの武勇は優れていますが、兵一万の厚い壁を貫くのはとても厳しいかと」
黒慰に龐統が反論する。
別に俺と姉さんはそれでもいいと思っていた。
姉さんの黒薙流風切術『黒天』で斬り開いたところを、俺が突っ走って斬れば、まあ無理なことはないと思う。
たかが賊だし。
「黒薙様と白薙様は弱くないよ。なら、六百全軍で正面突破しよ」
「敵の油断を誘う、ということですか?」
「六百なんて数、一万を率いる賊が油断しない訳がないよ。それに突け込んで、先頭を黒破に斬り開いてもらって、そこを黒薙様と白薙様に首を取ってもらう」
「──それ以外になさそうですね」
黒慰に龐統は折れた。
結局はそれしかないと思う。
六百と一万では、策も何もないのだ。
火計も水路と湿地の関係で上手くいかないだろう。
乱戦になって区星を狙いにくいし。
区星を狙うということを前提とするなら、敵の隙を狙うしかないのだ。
それに、やはり頭を叩くのが一番手っ取り早い。
黒永と黒希、黒破もそれ以外に考え付かないらしい。
「伊籍殿。六百全軍で一万に突撃します。黒破は先頭をいきます。一応、黒永と黒慰、黒希もいますが、何が起こるかわかりません」
「ボクの腕を信じられないっていうの? 黒薙様」
「雛斗は万一のことを言ってる。黒希。矢一本、伊籍殿と龐統に届くことは許されん」
俺の真名を呼ぶのは姉さんだけだ。
呼ぶことを禁じている訳ではないけど、黒希たち四人とは約束があった。
「何度も申しますが、私は引き下がる訳にはいきません」
やはり、動かすことはできないか。
わかっていたから、頬を上げると伊籍も笑った。
「龐統」
「黒永さんたちの足を引っ張らないよう、頑張ります!」
訊く前に返された。
苦笑いして肩を竦めた。
「では、私たちの持つもの全てをもってして、賊を打ち破ってみせましょう」
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昼を過ぎた午後に、長沙城から十里(約四キロ)ほどに移動した。
流石に賊も接近する俺たちに気付いて、城から相当な数の賊徒がぱらぱらと出てきた。
陣形など組んでいない。
「区星が出てくるまで、雁行陣で備えよ。区星が現れ次第、鋒矢陣に変更。私と姉上も黒破のいる先頭に移る。後の指揮は黒慰たちに任せる」
『御意』
右腰の斬刀“黒影”を右手で触れる。
どこで盗んだか、旗を掲げさせた一千ほどの部隊が城から出て、そのまま一万に潜った。
あれが区星と見ていいだろう。
「鋒矢陣に切り替えよ。氷(ひょう)。霧(きり)。椛(もみじ)。ここは任せた」
『はっ』
「雛斗様、雛美様。お気を付けて」
返事と黒永に頷いて、姉さんと共に変更し始めた陣形の先頭に移動した。
既に、黒破が穂先に赤の刃が中心の黒い大槍を軽く振り回していた。
「雷(いかずち)。便りにしてる」
「雛斗様。久しぶりに真名を呼んでくれて嬉しいよ」
黒破が戦時だというのに笑った。
黒永、黒慰、黒希、黒破。
この四人とは、真名はお互いに死地に赴く時にしか呼び合わないことにしていた。
盧植から、真名は気を許した相手にのみ呼ぶのを許す名前、と聞いた。
俺たちはそれを、それ以上のものにしようと思ったのだ。
これまで、氷、霧、椛、雷の名を呼んだのは数回しかない。
姉さんとは、姉弟の長い関係もあって真名で呼び合っている。
「ないとは思うが。もう呼べない、なんてことはないようにな」
「わかってるって、雛美様。大船に乗ったつもりで、この雷に先鋒はお任せあれ!」
姉さんがにやりと笑うのに、黒破が自身の胸をどんと叩く。
敵がゆっくりと前進してきた。
動きはばらばらだ。
羊が群れて、犬に追い立てられているようだ。
もう、僅かな距離だ。
「みぃ姉。行くよ」
「雛斗。行こう」
二人きりの時にしか呼ばない名を小さく言って、姉さんも返してきた。
黒破が大槍を天上に上げて、それを下ろすとともに駆けた。
それに俺と姉さんも続く。
突撃する兵たちより、三人は少し先行している。
敵の先頭が見える。
顔もはっきりだ。
その顔は笑っている。
接敵する黒破は大槍を振り下ろし、地面共々賊徒を吹き飛ばした。
俺と姉さんが本格的に駆け始める。
姉さんが抜刀する。
俺はまだ柄に手もかけていない。
さらにもう一振り、黒破が大槍を振るう。
横に薙いだそれで、賊の先頭は大きく削られた。
黒破の横を駆け過ぎる。
姉さんが先行した。
「黒薙流風切『黒天』」
姉さんの得意技だ。
姉さんの黒い斬撃が氣の刃となって飛び、黒破の倒した先の賊を斬り刻む。
その氣の刃はまるで筆で空に一画描いたようだ。
姉さんの横を狙う槍が突き出てきた。
「黒薙流居合『黒閃』」
駆けながら、初めて柄に手をかけ、呟いた時には柄から手を離していた。
槍とそれを持つ賊の首も跳んでいた。
姉さんは賊の群れに斬り込み、賊の中心に躍り込む。
「風切奥義『黒姫(くろひめ)』」
一気に片を付けようと考えたらしい、姉さんが黒薙流風切術奥義を放つ。
姉さんが太刀を振るうと黒い斬撃がそこに残り、太刀を舞い続けると黒い斬撃が留まることなく放たれ続ける。
姉さんの周りに黒い斬撃の糸が張り巡らされ、姉さんに迫る賊徒がそれに触れると斬り刻まれて倒れ伏す。
太刀と黒髪が舞って、美しいと思った。
姉さんが舞うのを止めて、太刀を鞘に納めると斬撃の糸が一斉に動き出し、周りの賊徒に襲い掛かる。
姉さんを中心に黒い水の波紋が広がるように斬撃が広がり、賊徒を斬り刻む。
俺にもそれは迫るけど、姉さんの真上に跳んで避けられていた。
黒破にまでは届かないだろう。
その調整くらいは、姉さんはできる。
区星の旗が見えた。
まだそこにいろよ。
すぐに終えてやるから。
姉さんの『黒天』が区星目掛けて賊徒を斬り開いていく。
氣を込めた足を片足で弾いて空中を移動する移動術、『空歩(くぽ)』を使って姉さんの斬り開いた道を降り立ち、走る。
旗まで、もう僅かだ。
区星の周りの一千が道を阻む。
「居合『黒閃』」
呟いた。
前を塞いだ賊徒が斬られて崩れる。
“黒影”を抜いて、斬り進む。
旗が揺れ始めた。
逃げるな、もう少しそこにいろ。
念じながら斬り開き、ついに開けたところに出た。
旗手や数人の賊を従えた区星が馬に乗って逃げようとしていた。
それらと後ろの賊徒に周りを取り囲まれる。
区星は一人だと笑っている。
「居合奥義『黒零(くろぜろ)』」
究極の居合術を呟く。
周囲から襲い掛かる二十余の賊徒が、全て身体を真っ二つにされて倒れ伏した。
背後を来た賊徒もだ。
背後さえ斬る黒薙流居合術の奥義『黒零』。
これは姉さんには使えない技だ。
逆に、黒薙流風切奥義『黒姫』は俺には使えない。
区星の顔色が変わった。
俺は斬ったところから跳び上がり、区星の後ろに着地した時には、馬の上の区星に首はなかった。




