出奔
「黒薙様の統率力を百として……」
居間で刀を布で磨いていたら、黒慰のぶつぶつ言う声が聞こえた。
黒慰は床の書簡を眺めながら、何かやっていた。
昼もまだの、窓の格子から射す朝日が眩しい。
あくびが出そうなくらい、まだ少し眠い。
居間には俺と黒慰の他に姉さんがいる。
ちょっと高い声だから、ぶつぶつ言ってても聞こえやすいんだよね。
鞘に納めて、興味を惹かれてこちらに背を向ける黒慰に近づく。
「百の兵を操って一千の兵を損害少なくして潰走させられるか。とすると黒永の統率力はどのくらいか……」
「数値化できるの? それ」
苦笑いしながら黒慰の後ろから書簡を覗き込む。
華奢な肩に手を置くとびくっと震えた。
「うわっ!? き、急に触るなっ!」
黒慰が顔を赤くして振り返る。
敬語まで忘れて、そんなに驚くことかな。
「あっ、す、すいませんっ」
「いや。でも、このくらいの気配は察してもらわないと」
「黒薙様じゃないんだから……」
落ち着こうと息を吐いて、再び書簡に向く。
「完璧な数値にできる訳じゃないですよ。人の力なんてあらゆる状況に左右されるものだし」
「わかってるならいいけど。でも、戦に出る訳じゃないんだから、その分析は今、必要ないでしょ」
「ボクはこういう分析が好きですからね」
黒慰に苦笑する。
こういうところは軍師に向いていると思う。
「雛斗~、刀ばっかりじゃなくて、お姉さんの相手をしろ~」
床にごろごろ寝転がる姉さんが、さも暇そうに言った。
「旅の間、世話になり続けたから。これまでより丹念に磨いてるんだから」
黒い刀を上げて見せる。
打刀のそれは体の半分くらいはあるだろうか。
腰に下げるにしてはやや長いけど、黒薙には振りやすい。
斬刀『黒影(くろかげ)』という。
厨二臭甚だしいけど、それは打った人に言って欲しい。
「あと、服はだけかけてるからごろごろするのはやめてよ」
そちらを見たけど、すぐに黒慰の方に目を戻す。
大きい胸が小袖から零れそうな姿の姉さんなんて、見ていたらからかわれるだけだ。
「おっと、これは失敬。だがな、これは雛斗に見せるためにやっているのであって……」
「俺の統率の数値、高くない? 黒永は九十はある気がするけど」
「黒薙様の統率力はこんなものですよ。実際はもっと高いとボクは思ってますけど」
姉さんの誘いを無視して黒慰と話し込む。
ちなみに黒破は土木工事に向かい、黒永と黒希は懐かしい洛陽を散策に行った。
だから家には居間にいるこの三人だけだ。
「む……」
それが気に入らないらしい姉さんが這い寄ってくる。
ちょっかいを出してくるだろうけど、無視した。
「ふぅ~」
「ひゃうっ!?」
思わず背中がぞくぞくして変な声が出てしまった。
「ふむ、耳に息を吹き掛けただけだというのに。可愛い声をあげるな、雛斗」
言われて顔が火照ってくる。
違和感を感じる耳を塞ぐ。
黒慰が驚いた顔でこちらを見てくる。
見ないでよっ。恥ずかしいからっ。
「恥じ入っている雛斗、ああ、可愛い……」
「可愛いって言うな!」
恍惚の表情で言う姉さんに言う。
惨めだよ。
ため息をつく。
やっぱり、姉さんは相変わらずだ。
俺を苛めるのが好きなのだ。
苛められても、俺は姉さんを嫌いにはなれないのだけど。
「ああ、そうだ。気になることがあったのだ、雛斗」
満足げに微笑んでいた姉さんが思い出したのか、言った。
またからかうかもわからないから、無視して黒慰に続きを促して拗ねてみる。
「どうも、この家の周りをうろつく者がいるようなのだ。今朝からだが」
黒慰の書簡から目を離して振り返る。
既に、姉さんの顔から悪戯っぽい笑みが消えていた。
「何人?」
「見たところ、一人だ。街の住人に混じっている。おそらく、今もいる」
黒慰もこちらを振り返り、見上げてくる。
「姉さん、俺は今朝から嫌な予感がちょっとあった。まるで監視されてる感じが、まだ消えてない」
「洛陽の、雛斗に恨みを持つ役人の手先か」
「恨みを持つようなことを、していないとは言い切れないね」
苦笑いする。
快く思わない者の方が、洛陽の役人には多いだろう。
「手を打ちますか?」
「街中だよ。騒ぎは避けたい。それはたぶん、あっちも同じなはず」
黒慰に言う。
住人が騒ぎ出したら、その中に混じって逃げられる──くらいのことは考えるだろう。
もし、役人の手先なら、だ。
「仕掛けてくるなら、夜中だろう」
「俺もそう思う。思ったより、早く引っ越すことになりそうだね」
「やれやれ、引っ越し先も決まってはいないというのに」
それにまた苦笑した。
慌ただしい出発になりそうだ。
でも、いい機かもしれない。
「黒永と黒希が戻ってくる前に出よう。大人数で出ると怪しまれる。俺は狙われるかもしれないから、裏から一人で出るよ」
「戻ってからでは、家を出るのに人数が多くて目立ちますし。黒永と黒希が何度も家から出たらおかしいですからね。その方がいいと思います。黒永と黒希は家を出てからすぐに探し出しましょう」
黒慰を見ると、頷いてきた。
どこに向かうか、次に考えるのはそれだった。
南はまだ、旅してはいなかった




