九
春らしくない冷たい風が、トゥエの頬を打つ。
魔皇帝から貰ったマントに首を埋めながら、トゥエはゆっくりと辺りを見回した。
〈……おかしいな〉
朝早くから歩き始めて、既に夕方である。もうそろそろ次の村が見えてくるはずなのに、右を見ても左を見ても代わり映えのしない荒野しか広がっていない。
何処かで道を間違えたのだろうか。トゥエはふっと肩を落とした。
「ねえ、まだなの、次の村」
催促するような高い声に、ゆっくりと後ろを振り返る。魔皇帝から付けられた監視役の少女、リベットが、いかにも疲れたという顔でトゥエを見ていた。
短いチュニックにマントを羽織ったその格好は、傍目には少女に見えない。
「あなたの足が速すぎるから、こっちはとっても疲れるの」
『とっても』の所に特に力が込もっているように聞こえるのは、気のせいだろうか。
いかにも怒っている風のリベットに道を間違えたとは言えず、トゥエはもごもごと訳の分からない言葉を呟きながら再び前を向いた。
「ああ、もう少し先なのね」
そのトゥエの横をすり抜け、リベットが前に出る。背中に負った大きめの頭陀袋が、リベットの動きに合わせて大きく揺れた。その胸に掛かっている『小瓶』も。
「ああ、これ?」
トゥエがその小瓶について尋ねた時、リベットはこともなげにこう、答えた。
「私達のお守り。御館様に貰ったの」
魔皇帝の近衛隊になると、皆、その瓶を貰うそうだ。中身について尋ねると、リベットは微かな笑みを浮かべた。
「もし誰かが『石に魅入られて』しまったら、これで助けるの」
『助ける』とは、どういうことなのか。
それを尋ねても、リベットは答えてはくれなかった。
だが。訳の分からないものに頼るのは危険なことだと承知していたが、トゥエはその中身に微かな希望を抱いても、いた。……その『水』で、『石』に操られているリュエルやウォリスを助けられるかもしれないという、希望を。
「……あ、あれね、村」
不意に、リベットが大声を上げる。
確かに、道の少し左寄りに、茶色っぽい影が見えた。
「急ぎましょう。早くしないと日が暮れちゃう」
こんな淋しい所で野宿は絶対嫌。リベットはそう言うなり、トゥエを置いて駆けだした。
いつの間に、あんなに元気になったのだろう。トゥエはしばし目を丸くした。
だが。
嬉々として走るリベットの後を付いて行ったトゥエは、段々大きくなっていく建物の影にはっと胸を突かれた。
……あれは、村ではない。村よりも、もっと大きい。しかし、魔皇帝の支配領域とリーニエ王国との間には、大きな『街』は全く無いはずだ。『魔皇帝』の都リーマンまで歩いたトゥエだから、それくらいは知っている。
大きな街が、有るとすれば。
「えー!」
先にその『街』に辿り着いていたリベットの落胆の声が、トゥエの推測を確信に変える。
「何これ! 廃墟じゃない!」
やはり、ここはウプシーラ。
トゥエが小さい頃、リュエルやヘクト、ウォリスと遊び回った思い出の街、だ。
「やだ! 何でこんなところに来ちゃったの!」
責め立てるリベットの声を背に、ゆっくりと廃墟に足を踏み入れる。
あの日の血の色は既に褪せていたが、剥げた石畳も、崩れた石垣も、あの日のままだった。外側ばかりではない。壊れた扉の向こうに見える部屋部屋も、石垣の向こうに見える中庭も、あの日壊れたまま、修復もされずただ佇んで、いた。
これが、魔皇帝の真実だ。トゥエは改めてそう思った。
しかし。
「ふーん。……でも」
夜。リベットにこの街で起こったことを話した時のことだ。
リベットは少しだけ俯いてから、トゥエの目をしっかり見詰めてこう、言った。
「リーニエだって、私達の国を侵略したわ」
その言葉に、衝撃を受ける。
と同時に、昔エッカート卿に教わったリーニエの歴史が、まざまざと蘇った。
リーニエ王国も、昔は小さかった。マース大陸北部、現在の廃都ウプシーラを拠点としていた部族が、周辺を制圧することによって大きくなったのが、今の『リーニエ王国』なのだ。
「御館様の一族も、リーニエに滅ぼされたんですって」
「あ……」
今まで気づかなかったことに気づかされ、言葉を失う。
悲劇は、自分達――自分や、リュエルやウォリス――だけのものではなかった。あらゆる所に転がっていたのだ。すぐ、目の前にも。
「ごめん」
思わず、謝罪の言葉が出る。
トゥエはリベットに向かって深く頭を下げた。
「あなたに謝られても」
トゥエのその行為に、リベットは笑って首を横に振った。
「それに、過ぎたことだもの。私は今幸せだし」
「そう」
それならば、良かった。ほっと胸を撫で下ろす。
しかし。原因がリーニエの侵略だとしても、その復讐の為に、魔物を使って残酷なことをするのは、やはり許せない。
「そうね。私もそう思う」
そう、トゥエが呟くと、リベットも首を縦に振った。
そしてリベットは、またもトゥエにとって衝撃な言葉を口にした。
「……多分、御館様もそう思ってる」
「では、何故?」
思わずそう、聞き返す。
そう思っているのなら、何故、魔皇帝はリーニエへの侵攻を止めないのだろうか?
「止められないのよ。この想いと意志だけは、ね」
だが。次のリベットの言葉に、思わず納得してしまう。
……自分にも、誰にも譲れないものが、有るから。
緩衝地帯も、国境も、人の少ない裏道を通って何とかやり過ごした。
段々、アデールが近づいて来る。
だが。トゥエは正直、焦っていた。
リュエルから『石』を取り上げる方法が、思いつかない。
だから、というわけではないのだが。
「ごめん、ちょっと、寄り道する」
もう少しでアデール到着、という朝、トゥエはリベットに向かって頭を下げた。
「キュミュラント山に、行っておきたいんだ」
あの『石』が安置されていた場所に行けば、何かヒントがあるかもしれない。一縷の期待を、トゥエはその行動にかけた。
「……仕方ないわね」
御館様に、できるだけあなたの指示に従うよう言われてるから。そう言いながら、リベットはトゥエの提案を了承した。
半年前に麓から見上げたときと同じように、キュミュラント山は、木々が鬱蒼と茂っているにも関わらず何処か荒涼とした雰囲気の山だった。
その細い山道を、リベットと共に登る。
平地の時とは違い、リベットの足取りは何処か軽かった。
「元々、山の民だったから」
大陸北西部の山の中で育ったから、山を歩く方が好き。リベットははっきりとそう言い、見たことの無いほど笑顔になった。
「で、『祠』って何処?」
その笑顔のまま、トゥエにそう問うリベット。
よく考えてみると、自分はこの山に登ったことがないんだった。リベットの笑顔を尻目に、安直な決断をトゥエは心の底で後悔した。
だが。
ふと、直感が働く。
こっちだ。そう思い、伸びかけの草をかき分けると、目の前に洞窟の入口が現れた。
「ここ……?」
呆然とするトゥエの後ろで、リベットが不思議そうな声を上げる。
「なんか、本当に何もない、って感じなんだけど」
いや。確かに、ここだ。トゥエははっきりとそう感じた。
……ここに『石』があった。
洞窟の入口の横には、その入口にぴったりと合いそうな円盤状の岩が立て掛けられていた。おそらく昔はこの岩で『石』を封じていたのだろう。
そして。この、『祠』は。……『石』をここに戻して欲しいと、訴えている。あの『石』はこの山が守るべきものであると、太古の昔から定められているのだから、と。
そうか。……でも。
『祠』から感じる必死な想いに、トゥエの心は揺れた。
その夜。
宿のベッドの上で、トゥエは眠れぬまま天井を見上げていた。
その隣では、リベットがすやすやと安らかな寝息を立てている。
全く、男が隣にいるのに無防備過ぎる。そんなリベットを見て、トゥエははっとため息を漏らした。おそらく、リベットは自分のことを男だと思っていないのだろう。そんな気がする。
……それはともかく。
〈どう、すれば〉
リュエルから石を奪う方法が、どうしても思いつかない。
魔皇帝の申し出を正直に話すか? おそらく信頼しては貰えまい。逆に裏切り者扱いされるがオチだ。裏切り者扱いは構わないのだが、リュエルから『石』を奪えなければ、トゥエの願いは水泡に帰す。とするとやはり、無理矢理奪い取るしかないのだが、それを行って、無事にリーマンの魔皇帝の所にまで帰れる保証は、無い。マチウもウォリスも、それは絶対に阻止するはずだ。マチウは主君の安全の為に。ウォリスは自らの目的の為に。
マチウやウォリスに、自分の思いを理解して貰う術は無いのだろうか。暗い空間を睨みながら、トゥエは必死に考えた。
リュエルと、リーニエ王国を守りたい気持ちは皆同じなのに、どうしてこんなに齟齬が出るのだろうか? 残酷だと思いながらも、魔皇帝がリーニエへの侵攻を止めないのと同じように、それぞれの想いが同じようで違うからだろうか? ……想い?
〈そうか……!〉
目が覚めたような感覚が、トゥエの全身を明るくさせた。
自分はこれまで、どうやってリュエルから『石』を奪い取り、魔皇帝の元へ持って行くかを考えていた。だが、これでは『目的』が微妙に違う。自分の第一の目的は、リュエルにこれ以上、残虐な行為をさせないこと、なのだから。
それに、魔皇帝の元にリュエルの『石』を持って行ったところで、魔皇帝が約束通り自分の『石』をトゥエに渡すかどうかが不明だ。あの魔皇帝のことだから、ほくそ笑みつつトゥエから『石』を取り上げる可能性の方が高い。
と、すると。宿の暗い天井を見上げたまま、しばらく考える。
はっきりとした答えは、浮かんでこなかった。だが、やるしかない。それが自分を破滅させる方法であっても。いや、自分は死んでも構わないのだ。……リュエルの行為さえ、止められるのであれば。
隣で眠っているリベットを起こさないように、静かにベッドから滑り降りる。
そして、ずれた掛け布団をそっとリベットの細い肩に被せると、次の瞬間には、トゥエは窓から外へと飛び出して、いた。
堂々と、アデールの外門をくぐる。
そして、王宮の正門前に立ち、トゥエは門を守る衛兵に向かって大声で言った。
「王に伝えろ。トゥエが王自身に逢いたいと」
トゥエの名を聞いて、たちまち辺りは騒然となる。
たちまちにして、トゥエは衛兵に囲まれ、腕と肩を固く縛られた。
もちろん、あちこち殴られる。だがしかし、命を狙ってくるような鋭い切っ先を避ける以外、トゥエは抵抗らしい抵抗をしなかった。
目的は、衛兵達を倒すことではない。リュエルに会うことだ。
「……来たか」
少し動揺したマチウの声に、はっと顔を上げる。
いつの間にか、トゥエは王宮の中庭に引き出されていた。
傷ついた素足に、敷かれた石畳が冷たい。
トゥエの目の前、少し離れた所に、リュエルが居た。
リュエルの胸にはやはり、あの『石』が光って、いた。
そっと、目だけで辺りを見回す。リュエルの周りには、衛兵しかいない。トゥエの周りには、衛兵と、背後のマチウだけだ。ウォリスの姿は、無い。
良かった。ほっと胸を撫で下ろす。
マチウはいつもリュエルの側に詰めているが、ウォリスはそうではない。だから、不意打ちで王宮に現れれば、トゥエの計画に邪魔なウォリスの現れる確率は低くなる。そう考えての、トゥエのこの行動、だった。
後は。
「何故、戻って来た?」
マチウの問いが、意外に心に響く。戸惑っているところが、マチウらしくない。だが、マチウがどう思っているかは、トゥエにはよく分かった。
対して、リュエルの方は意外なほど落ち着き払って、いた。
「罪を、認めるか? 自分の、罪を」
リュエルの声が、一言一言はっきりと、トゥエの耳に響く。
「ならば、私自身が裁くのが慈悲であろう」
その、冷酷としか表現できない声に、トゥエの心は凍った。
……こんなのは、本当のリュエルじゃない。こんなことを、ずっとさせておくわけにはいかない。
おもむろに腰の剣を抜いたリュエルが、静かにトゥエに近づく。
トゥエは心を落ち着かせ、ゆっくりとその時を待った。
もう少し、もう少し。……今だ。
爪先に力を込め、リュエルの胸へ向けて足裏だけで飛び込む。そして次の瞬間、トゥエは目の前に来たペンダントの鎖を噛み千切り、『石』を口に入れて飲み込んだ。
喉の痛みが、『石』を飲み込んだことをはっきりと知らせる。
その、次の瞬間。
背中から胸を貫く痛みに、はっとする。
俯くと、幅広の剣の切っ先が自分の胸から突き出ているのがはっきりと、見えた。
この剣は、マチウの物だ。おそらくマチウはとっさに、トゥエの行為がリュエルに害をなすものだと判断したのだろう。彼らしい行為だ。トゥエはふっと笑った。
だが。……自分の目的は、果たせている。
だから。
急速に薄れていく意識の中で、トゥエはにっこりと、笑った。