五
「……久しぶりだよな、母上に会うのって」
馬上でのんびりと揺られながら、ヘクトは前を行く兄のマチウにそう、声をかけた。
「兄者は、何年ぶり?」
「さあな」
せっかくの休暇中なのに、マチウの態度はいつもと同じく素っ気ない。
つまらない。ヘクトは年甲斐もなく頬をぶっと膨らませると、手綱を緩めて馬の歩みを遅くした。
魔皇帝に対する大勝利から二、三日後のこと。突然、第三王子リュエルの後見人であり、ヘクトとマチウの伯父でもあるエッカート卿が砦に現れ、少年達に休みをくれたのだ。
魔皇帝軍を撃退したことによる王からの褒美だ。そう、エッカート卿は言った。今度のことで心配している肉親に無事な顔を見せてこい、とも。
だから今、ヘクトと兄のマチウは、母の住む村へと馬で向かっている。
ヘクトの主であるリュエルも、彼の乳兄弟であるトゥエと一緒に彼らの母親の所に行っているはずだ。但し、首都アデール郊外の歩いて行ける距離に母親達が住んでいるリュエル達とは違い、ヘクト達の母親はアデールから馬で一日はかかる、リーニエ王国の南端の村に住んでいる。
リュエル達は良いよな。ふと、そんなことを考える。これからあと半日も、この退屈な兄と一緒に居なければならない。それが、ヘクトには正直辛かった。既に肉親の居ないウォリスは修道院のあるキュミュラントへ行くと言っていたが、そのウォリスに一緒に来て貰えば良かった。冷たい風になびく髪を押さえながら、ヘクトはため息をついて肩を落とした。
「早く来い、ヘクト」
そんな気持ちのヘクトの上に、兄の叱咤が降ってくる。
「早くしないと夜になるぞ」
「はーい」
仕方なく、馬を並足に戻して兄の横に並ぶ。
背筋のぴんと伸びだ兄は、休暇中でも近づきがたい存在だった。
仕方がない。兄は自分より五つも年上なのだから。……二つ年上のリュエルやトゥエ、一つ上のウォリスには、簡単に話しかけられるのだが。
「魔皇帝軍を撃退できて良かったな、兄者」
だが、やはり。沈黙に耐えられなくなり、思わず兄に話しかける。
素っ気ない返事しか、期待してはいなかったが。
「ああ。……リュエル王子の力だ」
ヘクトの予想に反し、兄の返事は長かった。
「リュエル王子に仕えることができることを、私は誇りに思っている」
それは、自分もそう思う。だから、兄のこの言葉に、ヘクトもこくんと頷いた。
「だから私は、リュエル王子の剣とならなければいけないと思っている」
そんなヘクトの横で、マチウの言葉は更に続く。
「リュエル王子を、守る為に」
そうだ。自分も、リュエルを守らなければ。
それだけ言って再び黙ってしまった兄の横で、ヘクトもそう、心から思った。
だが。
〈……あれ?〉
ふと、疑問が心に浮かぶ。人を守る為に必要なのは『剣』なのだろうか? どちらかというと『盾』のような気がする。
しかし。兄には『剣』の方が相応しいかもしれない。ヘクトはそう、考え直した。
そして、『盾』に相応しいのは。
〈今どうしているかな、トゥエとリュエル〉
ふと、二人のことが心配になる。だが、砦や国境地帯と違い、アデールやその近郊の村々はしっかり守られていて安全だ。心配することなど、何もない。
ヘクトは一人でふっと笑うと、再び差の付いた兄に追いつけるよう馬の腹を強く蹴った。
同じ頃。
トゥエとリュエルは、アデール郊外にある小さな屋敷に、居た。
外は少し寒いが、厚い壁に囲まれた居間は暖かい。
だが、居間の雰囲気は、必ずしも良好とはいえなかった。
「……王の病気が重いそうね」
柔らかいソファに座った大柄な女性が、静かな声でそう、尋ねる。
「ええ」
トゥエの横に座っているリュエルの答えに、女性は目を伏せて大きくため息をついた。
トゥエの目の前に居るその女性は、リーニエ王国の第四王妃リーゼ。リュエルの母であり、戦乱の中トゥエを身篭って路頭に迷っていたトゥエの母ジュリアを拾ってくれた人物である。この人のおかげで、リュエルとトゥエは生まれ落ちた時から一緒に居る。トゥエにとってはエッカート卿とカルマンの次に尊敬している人物でもあった。
「全く、このような時に。……寿命とはいえ」
エッカート卿の妹らしく、リーゼも物言いははっきりとしている。性格も、今は深刻な話をしているので静かだが、普段は大らかで明るい。
そんな王妃と、物静かを通り越して無口な母ジュリアはどうしてあんなに仲が良いのだろうか。トゥエはしばしば不思議に思う。おそらく、世話好きなリーゼはジュリアやトゥエの面倒を見ることに満足を思えているのだろう。最近のトゥエの結論は大体これだった。
しかし、母の方はどう思っているのだろうか? これだけはよく分からない。
息子であるはずのトゥエを見ても、少し笑うだけでどことなくよそよそしい母のことが、トゥエには一番の謎だった。現に今も、危険地帯にいる息子が無事な姿を見せに来たというのに、台所に籠もったまま一歩も出てこない。
愛情、といえるものが、母に欠けているわけではない。リュエルと一緒に居る時の母は優しいし、二人だけの時も、優しいことは優しい。
しかし、どこかよそよそしい感じがするのも、確かだった。
「……トゥエ」
トゥエの思考を、リュエルの言葉が破る。
「食事の用意ができたよ。食堂へ行こう」
どうやら、深刻な話は終わったようだ。トゥエはリュエルに向かってこくんと頷くと、リュエルの後ろから食堂へと向かった。
食堂で、あらためてリーゼと向かい合う。
大柄なリーゼに比べると、リュエルはかなり小柄に見えた。髪の色も肌の色も、南方の人らしく濃い感じの強いリーゼに比べ、リュエルは色白で髪の色も薄い茶色だ。
リュエルの外見は、母には似ていない。父である王に似ているのだ。だが明るく優しい性格は母親譲りだ。
翻って、自分はどうだろう? ふと、トゥエは首を捻った。栗色の髪と小柄な体格は母譲りだと思うが、青白いとしか形容できないこの肌の色は? もしかすると、母は、自分が父に似ているから、避けているのかもしれない。
父のことは、少しだけ聞いたことがある。住んでいた村が魔皇帝軍に襲われ、親兄弟を亡くして一人泣いていたところを助けてくれたのが、トゥエの父だったそうだ。父と母は半年ほど村の跡地で一緒に暮らしたが、父はある時ふいっと出て行ってしまい、それっきり二度と目にしたことがないそうだ。
「……ジュリア」
そんなことを考えるトゥエの目の前で、リーゼが台所に向かって叫ぶ。
「あなたも来て、一緒に食べなさいよ」
そのリーゼの声で、渋々ながらトゥエの母ジュリアが現れる。
やはり、自分も外見はこの母には似ていない。押し黙ったままの母を見ながら、トゥエはそう、思った。
そして、肝心なところで押し黙ってしまう性格は、母親譲りらしい。
食事が終わり、王宮に帰る時になっても、トゥエとジュリアの間には親子らしい会話は殆どなかった。
対して、リュエルとその母親の方は。
「これ」
帰り際に、リーゼは大きめの包みをリュエルに渡した。
「新しく作ったの」
リュエルが包みを開けると、派手な色合いのマントが現れる。リュエルにぴったりのマントだ。この時だけは、正直リュエルが羨ましくなった。
と、その時。
「ほら、ジュリアも渡しなさいって」
突然、リーゼがジュリアをトゥエの前に押し出す。
よく見ると、ジュリアも同じような包みを持っていた。
何も言わず突きつけられた包みを、黙って受け取る。
包みを開くと、地味だがしっかりした作りのマントが、トゥエの前に現れた。
「あ……」
ありがとう。その一言が出てこない。
「もう」
そんな二人の状態に業を煮やしたのは、リーゼだった。
「あなた達って、本当に変ね。実の親子なのに」
リーゼにそう言われても、トゥエにもジュリアにも返す言葉がなかった。
親子のことは、親子でも分からないものなのだ。
「……疲れた」
その夜。王宮に戻った時のトゥエは何時にも増して疲れていた。
リュエルの方もかなり疲れているのだろう、重いマントを外す時も、二人で軽い夜食を取っている時もやたら「疲れた」を連発している。
しかし身体の疲れと心の高揚は一致していないらしい。リュエルの頬は、いつもより上気しているようだった。
「でも、久しぶりに母上や乳母上に会えて、良かったよな、トゥエ」
リュエルの言葉に、こくんと頷く。
トゥエも、母に会えて正直嬉しかった。
その気持ちを、上手く伝えることが、できないけれど。
しかし。……本当に今日は疲れた。
「あまり長いこと伯父上に留守番をさせておくわけにはいかないから、マチウ達が帰り次第砦に戻らないと」
そう言うリュエルの着替えを手伝いながら、トゥエは既に、半ば夢の中に入っていた。
だが。
一瞬感じた殺気に、はっと目が覚める。
トゥエは腰の短刀を抜くと、殺気を感じた方向にその切っ先を向けた。
「……どうした?」
そのトゥエの行動に、リュエルが疑問の声を上げる。
その、次の瞬間。
天井から、軟革鎧を着けた影が落ちてくる。不意に目にした鋭い切っ先を、トゥエは魔法ではじき飛ばした。
だが。部屋にいる影をすばやく数えて、呆然とする。
影は、八つ。
「曲者!」
そう叫ぶなり、側に立てかけてあった長剣を掴むリュエル。だが、狭い部屋の中では、長剣は使えない。
とにかく、リュエルを守らなければ。それだけは確かだ。そう思い、トゥエは自分の背中でリュエルを庇いながら、素早く壁際へと向かった。
どうすれば八人もの刺客からリュエルを守ることができるのだろうか? いや、とにかくやるしかない。
次々と現れる切っ先を魔法と短刀ではじき返しつつ、影の隙を窺う。この部屋の家具の位置や様子は、トゥエの方がよく知っている。その有利を、利用するしかない。
ここだ。そう思った瞬間、トゥエの短刀は影の一つを深々と切り裂いて、いた。
しかし、影達の攻撃は引きも切らない。トゥエの、鎧を着けていない身体は既に、あちこち切り裂かれている。しかし少々の怪我なんて気にしてはいられない。リュエルを守ることが、第一だ。だから。もう一つ、もう一つと、影を切り裂いていく。
だが。トゥエに限界が来る方が早かった。
不意に何かに足を取られ、前のめりに倒れる。
たちまちのうちに、トゥエとリュエルの間に一つの影が入った。
いけない……! 大慌てで立ち上がる。だが、別の影が持つ、鋭い切っ先が同時に二つ、トゥエに襲いかかってきた。
〈いやっ……!〉
リュエルが、殺される。それだけは、嫌だ。
トゥエは危険も顧みず、向かってきた切っ先に突進した。
肩に刃を受けながらも、二つの影を、同時に切る。しかしそれでも、影の攻撃を長剣で防いでいるリュエルまでは絶望的に、遠い。
肩の痛みに耐えきれず、再び床に突っ伏す。
そのトゥエの目の前で、リュエルがとうとう、剣を落とした。
〈リュエル……〉
ごめんなさい、守れなくて。
絶望するトゥエの視界は、静かに少しずつ暗くなって、いった。
と、その時。
不意に、リュエルが首に掛けていた石を掴む。
次の瞬間。トゥエの目の前で、リュエルに襲いかかろうとしていた刺客の一人が消えた。
「……え」
驚きで、動きが一瞬止まる。
まさか、あの『石』、は、……魔物以外も消すことができるのだろうか?
戸惑うトゥエの目の前で、もう一人、リュエルの近くにいた刺客が消える。
もう、間違いない。リュエルに害をなすモノは全て、魔物だろうが人間だろうが、消すことができるのだ。
駄目だ。不意に思う。これ以上、リュエルに人間を消させてはならない。
ぱっと跳ね起きるなり、トゥエはリュエルに向かって突進した。
丁度襲いかかってきた最後の影に背中を向けるようにして、リュエルを庇う。
右胸に鋭い痛みを感じたが、そんなことに構っている暇はない。
リュエルを安全な床に押し倒しながら、トゥエは振り向かずリュエルの剣を背後へ突き刺した。
トゥエの背後で、呻き声が上がる。
これで、全員倒したはずだ。ほっとするトゥエの視界が、急にひっくり返った。
「トゥエ! 死ぬな、トゥエ!」
リュエルの悲痛な叫びに、はっと目を開ける。
ぼうっとした部屋の風景の中で、泣き濡れたリュエルの顔だけが何故かはっきりと、トゥエの目に映った。
震えるリュエルの手が、トゥエの額を優しく撫でる。だが、その手の感覚すら、感じ取ることができない。
ここで、死ぬのか。漠たる予感が、トゥエの全身を支配して、いた。
だが。
たとえここで死ぬとしても、リュエルには、もう二度と、『力ある石』を使わせてはならない。あんな残酷なことを、リュエルにさせるわけにはいかない。それが、この戦いでトゥエが感じた、唯一の事。
だから。
「……その、石の力」
苦しい息の中、それだけははっきりと言う。
「人間には、使わないで」
「分かった。約束する。だから死ぬな、トゥエ!」
トゥエの言葉に、リュエルがこくんと頷くのが見える。
良かった。
ほっとした次の瞬間。トゥエの意識は急速に闇の中へと落ちて、いった。