十
天井が、はっきりと見える。
何所となく新鮮な面持ちで、リュエルは上半身をベッドの上に起こした。
もう、朝だろうか? それとも、夕方? 窓から入ってくる光から考えると夕方のような気がするが、本当に、どっちなのだろう? 何かから逃れるように、リュエルは取り留めもないことを考え続けた。
だが。考えなければならない。脅迫じみたその思いが、リュエルの胸を刺す。
目を瞑ると、瞼の裏に、石畳に広がった鮮血がはっきりと見えた。
何も言わず斃れているトゥエの青白い顔と、その背に刺さったマチウの幅広の剣も。
それは、久しぶりにはっきりと見えた光景だった。
「……王」
マチウの声が、白昼夢を破る。
ゆっくりと目を開くと、いつになく青白い顔のマチウが目の前に居た。
「お目覚めに、なりましたか」
「ああ」
だるくなってきたので、ゆっくりと、再びベッドの上に横たわる。
マチウが薄い布団を掛けてくれたのが、触覚だけで分かった。
そして、マチウが次に何を言うのか、も。
「……あの、王」
普段のマチウとは違う、動揺しきった声が、リュエルの耳に響く。
聞きたくない。しかしその想いを、リュエルは大急ぎで心の奥底へと押し込めた。
聞かなければ、ならない。自分も、当事者なのだから。
「トゥエのこと、申し訳ありませんでした」
「いや……」
リュエルに向かって深々と頭を下げるマチウに、やっとの事でそれだけ言う。
マチウを責めても、仕方がない。マチウは、自分の責務を果たしただけ、なのだから。
悪いのは、得体の知れない闇に捕らわれてしまった自分だ。
その闇から救い出してくれた乳兄弟の青白い顔が脳裏に浮かび、リュエルは思わず首を強く振った。
空しさと後悔が、全身を苛む。
しかし何故か、その原因を作ったウォリスに対して憎悪の感情は湧かなかった。
ただ、空しいだけ。
「王! 大丈夫ですか!」
慌てるマチウの声に、リュエルは静かに首を横に振った。
今は、感傷に浸っているときではない。
だが、次に進むには、自分はまだ脆すぎる。
だから。
「もう少しだけ、休ませてくれ」
それだけ言うと、リュエルは静かに、ベッドに横たわった。
「行かなければいけない場所が、ある」
今なら、はっきりと分かる。
マチウの想いも、トゥエの願いも、ウォリスの望みも。
自分を含め、皆、それぞれの意志に従い、行動しただけ、なのだ。
石造りの建物の二階から黄昏に沈む街を見、濁酒を呷る。
喉を焼く酒も、活気に満ちた街も、ヘクトの気持ちをかえって苛立たせた。
本当なら、王となったリュエルの側に居ないといけない時間だ。
だが、今の王宮には、一時だって居たくない。心の底からヘクトはそう、思っていた。だから、エッカート卿の屋敷の、しかも隠れ家的存在である街中の古屋敷の方にいる。
厳格な兄は、この場所を知らない。それでもヘクトは、マチウが探しに来ていないかと、スラム街に近い外の様子にしばしば気を配った。
気を配りながら、再び自棄酒を呷る。
呷りながらも、やはり考えるのは仲間のこと。
王位に就いてから、いや、正確にはトゥエが『逃亡』してから、リュエルは変わった。表情が乏しくなり、朗らかに笑わなくなってしまったのだ。しかもその上、リュエルの王位継承に反対した豪族達を冷静に粛正することまでやってのけている。
リュエルが変わった、その理由を、「王位に就いたから」とか「乳兄弟であるトゥエが裏切ったから」と片付けるのは容易い。実際、兄のマチウも幼馴染みのウォリスもそう、言っている。
だが、ヘクトは、そうは思わなかった。第一、あの、リュエルに対しての責任感が人一倍強いトゥエが、リュエルの代わりに処刑されるのを拒むはずがない。トゥエは自分の身も顧みず、何度もリュエルの命を救っているではないか。それを知っていて詰るマチウとウォリスに、ヘクトは正直腹が立っていた。
ヘクトの伯父、エッカート卿も、この件に関しては密かに腹を立てているらしい。この屋敷でヘクトがサボっていても何も言わない。
「……全く、信じられん」
ある時、卿がヘクトに対してこう、呟いたことがある。
「忠誠心の篤い者を、こうも簡単に切り捨てるとは」
支配者に非情さは必要だが、ここまでの非情は諸刃の剣だ。卿のこの言葉が、ヘクトの心にずっと残って、いた。
一体、何故リュエルは、こんなにも変わってしまったのだろうか?
昔のリュエルなら。ヘクトはそう考えてみる。昔のリュエルならば、絶対にトゥエを庇っていたはずだし、一時の感情のみで敵対する豪族達の粛正も行わなかったはずだ。なのに今はどうだ。
笑わないリュエルも、トゥエを責めるマチウやウォリスも嫌いだ。
唇を噛みしめながら、ヘクトは再び濁酒を杯に注いだ。
と、その時。
街のざわめきから、トゥエという名が聞こえてくる。
はっとして、ヘクトは思わず聞き耳を立てた。
「あの、トゥエ様が? 本当に?」
「ああ。王宮に乗り込んで返り討ちにあったと」
頭の中が、真っ白になる。
トゥエが、死んだ……?
しかも、手を下したのはヘクトの兄であるマチウだと、噂する声が言っていた。そして、リュエル自身は、幼馴染みが殺される様子を眉一つ動かさず見つめていたという。
リュエルの為に、あんなに身体を張って頑張っていたのに、こんな結末は酷すぎる。ヘクトは思わず唇を噛みしめた。
しかもその上。
「遺体は明日、王宮前の広場に晒されるそうだ」
「酷い」
「まあ、仕方がない。王の命を狙った者の末路よ」
まだ続いていた噂話に、ヘクトの怒りは頂点に達した。
酷い。酷すぎる。幾ら公式には『裏切り者』であるとはいえ、幼馴染みをそんな目に遭わせるとは。
次の瞬間。
衝動のままに、ヘクトの身体は部屋を飛び出して、いた。
だが。
「待ちなさい」
逸る身体が、ぐっと後ろに下げられる。
苛ついて振り向くと、カルマンの小さい手が、ヘクトのマントを押さえていた。
「放せ! 邪魔するな!」
押さえているカルマンの手を、力一杯振り払う。
だが、何故か、どんなに力を入れてもカルマンの腕を振り払うことはできなかった。
「今は、駄目です。……夜を、待ちなさい」
カルマンの静かな声が、ヘクトの耳を打つ。
「でも!」
「今行っても、トゥエを助けることはできませんよ」
カルマンの言葉はヘクトの心を静めるのに十分な効果を持っていた。
だから。静かなカルマンの言葉に、ヘクトは思わず頷いて、いた。
そして、その夜。
ヘクトは堂々と正門から王宮へ入った。
王宮に入るなり、すぐ近くの衛兵を一人捕まえ、昼間の顛末を聞く。
どうやらトゥエの遺体は、明日広場に晒す為に地下牢の一つに投げ込まれているらしい。
〈……さて〉
廊下の松明を一本失敬して、湿った地下へと降りる。
本当は、兄を捜し出して一発殴りたかったのだが。
「トゥエを助けたいのであれば、目標はそれだけに絞りなさい」
カルマンの静かな言葉を、心の中でもう一度繰り返す。
兄を殴るのは、この先何時でもできる。だが、トゥエを救い出すことは、今夜でないと駄目だ。心を自制しつつ、ヘクトは王宮の地下の奥深くにある地下牢へと足を踏み入れた。
誰もいない牢を一つ一つ、慎重にチェックしながら進む。
と、その時。
不意に目に入ってきた前方の小さな明かりに、はっと息をのむ。
〈先客、か?〉
こんな陰鬱な場所に何の用があるのだろう。そう思い、松明を高く掲げてみる。次の瞬間、目に入ってきた光景にヘクトは唖然とした。
光の先、地下牢の一番奥にいた先客は、ウォリス。彼は丁度、斃れているトゥエの腹部に細いナイフをあてがったところ、だった。
「何をしている!」
思わず、大声で叫ぶ。
ウォリスはゆらりと立ち上がり、鋭い目でヘクトを見つめた。
騎士階級であるヘクトやマチウに遠慮してびくびくしている、いつものウォリスではない。ヘクトははっきりと、そう、感じた。
「あなたも、トゥエと同じく私に反対するのですか」
唐突に、ウォリスがそう、言葉を紡ぐ。
言われたことがとっさには分からなくて、ヘクトはしばしば唖然とした。
「へ……?」
ヘクトのその沈黙を、ウォリスは答えだと受け取ったらしい。いきなり、多量の空気がヘクトの全身を押しつぶした。
「ウォリス! てめぇ!」
咳き込みつつ松明を床に落とし、剣を抜く。だが、戸惑いを隠せないヘクトよりも、ウォリスの行動の方が早かった。
目の前に、ウォリスが来た。そう思う前に、ヘクトの剣はいつの間にか遠くの床に落ちてしまって、いた。
「なっ……!」
ウォリスに、こんな技が使えたとは。呆然と、ヘクトはナイフを構えたウォリスを見詰めた。
「どうする?」
冷たいウォリスの声が、地下牢中に響き渡る。
「僕も、あまり人は殺したくない。僕のすることに目を瞑っていてくれるのなら、君の命までは取らないよ」
人を見下した言葉の調子に、全身がかっと熱くなる。
ウォリスの行動を見過ごすわけにはいかない。今のウォリスの行動を見過ごすということは、トゥエにこれ以上の危害を加えるということだ。最初に見たウォリスの行為からそう判断したヘクトは、次の瞬間ウォリスに向かってその太い腕を振り上げた。
だが。
「熱っ!」
全く唐突に、ヘクトの全身が炎に包まれる。
「全く、大人しくすれば良かったのに」
焦るヘクトの目に前に、赤く映るウォリスの平然とした顔が、あった。
火を消す為には床を転がればよい。頭ではそれが分かっているのだが、身体が全く動かない。まるで、金縛りに遭っているようだ。
ウォリスもトゥエと同じくらい上手く魔法が使えることは、知っていた。だが、トゥエより強力な魔法が使えるなんて、聞いていない。
身を焦がす炎の中で、ヘクトは殆ど絶望していた。
と、その時。
不意に、ヘクトの周りの炎が消える。
「うぐっ……」
目の前を見ると、床に倒れて呻いているウォリスの上に、見かけない小柄な影があった。
「だ……!」
思いがけない展開に、しばし唖然とする。
しかし、好機であることも確かだ。
ヘクトは速攻でウォリスの側に跪き、その無防備な頭の上に拳を下ろそうとした。
だが、次の瞬間。
ヘクトの目の前で、ウォリスの姿は煙のように消え失せて、しまった。
「え……?」
再び、唖然とする。
これも、魔法なのだろうか。
地下牢には、ヘクトと、先ほどまでウォリスの上にいた小柄な影のみ。
よく見ると、この影は女、しかも少女、だ。
「だ、誰だっ!」
掠れた声で、それだけ叫ぶ。
「しいっ」
ヘクトの目の前の少女は自分の唇に人差し指を当ててから、床に転がっている消えそうな松明の光でヘクトを上から下まで眺めた。
そして。
「質問させて。あなたも、トゥエに害をなそうとしているの?」
唐突な質問に、再び言葉が詰まる。
だが。この質問には、ヘクトは胸を張って答えることができた。
「俺は、トゥエを助けたいと思っている」
「なら、同志ね」
ヘクトの答えを聞いて安心したのだろう。少女はヘクトに少女らしい笑みを見せた。
どうやら、この少女は『味方』であるらしい。ヘクトも正直ほっとした。幾らトゥエの為とはいえ、少女にまでは手をかけたくない。
少女から静かに目をそらす。
そして改めて、ヘクトは床にうち捨てられているトゥエの亡骸を見つめた。
乾ききった血が、トゥエの背に大きな染みを作っている。
本当に、亡くなってしまったのだ。悲しみで、ヘクトの全身は痺れた。
しかしここで時を浪費するわけにはいかない。
トゥエの縛られたままの腕の縄を切り、静かに抱き上げる。力無くもたれ掛かる小柄なトゥエの身体が、ヘクトにはとても重く感じられた。
「あなた、もしかして、ヘクト?」
その時になって、それまで黙っていた少女が再び口を開く。
「ああ、そうだが」
内心首を傾げながらも、ヘクトはこくんと頷いた。
この見知らぬ少女は、何故自分の名を知っているのだろう?
だが、ヘクトの疑問には、今度は簡単に答えが見つかった。
「あ、じゃあ、味方ね」
これまでとは打って変わった、明らかにほっとした声で、少女が言葉を継ぐ。
「カルマンっていう人が、ここへの抜け道を教えてくれたの。あなたにも教えるよう言われてるわ」
カルマンが? 思わず、少女をまじまじと見つめる。
この少女は、ヘクトの記憶にはない。おそらく他の仲間達の中で、この少女の友達だという人間はいないだろう。……トゥエを除けば。
おそらくこの少女は、トゥエに頼まれたか何かして(あのトゥエが頼み事をするとは思えないが)ここにいるのだろう。しかしそれでも、少女とカルマンとのつながりが分からない。トゥエが王宮に行く前にエッカート卿の屋敷を訪れたのならば、こんな惨事にはなっていない筈、だ。
だが。……今はトゥエを助けるのが先だ。
ヘクトは首を傾げつつも、歩き出した少女――リベットと名乗った――の後を大急ぎで追った。
大柄なヘクトでも何とか通れる抜け道を通った先にいたのは、カルマンだった。
その後ろには、馬が二頭、闇夜の中で静かに佇んでいる。両方とも、エッカート卿の馬房にいる、耐久力に優れた名馬だ。エッカート卿の名で動いていることは明白である。
カルマンはトゥエの亡骸を抱いたヘクトを認めると、余計なことは一切しゃべらずに馬の轡を側のリベットに差し出した。
「トゥエを、キュミュラント山の祠へ葬りなさい」
そこなら、『石』の力を完全に封印することができる。山の霊力と、トゥエ自身の『鎮める力』で。カルマンは静かにそう説明すると、ヘクトに大きな麻袋を渡した。
「『石』を落としては、トゥエの死が無駄になります」
「『石』? ……リュエルが持ってた、あれか?」
麻袋を受け取りながら、ヘクトの疑問は最大にまで達していた。
しかしながら。
確かに、リュエルが変わったのは、キュミュラント山の祠に祭られていた『石』を持つようになってからだ。その因果関係だけは、ヘクトにもはっきりと理解できた。
「ええ。それが、全ての元凶」
「それは後で私が説明してあげるから、今は早く行こ」
静かなカルマンの声を、リベットの急くような声が破る。
そうだ。カルマンの言う通り、今はトゥエの意思を尊重しなければならない。
だが。
「カルマン」
渡された麻袋にトゥエの亡骸を入れ、縄でしっかりと封をして馬に積みながら、ヘクトは疑問を思ったまま口にした。
「おまえは、一体……?」
「私は、人の未来を視る力を持っています。……ほんの少しだけ、ですが」
唐突なヘクトの問い。だがカルマンは、あくまで簡潔に答えた。
「人の想いは、誰にも止めることはできません。私にできるのは、そこから生じる悲劇を最小限に留めることだけです」
「そうか……」
「急いで、ヘクト」
リベットの声が、ヘクトの思索を破る。
ヘクトはリベットの差し出す轡を取ると、ひらりと馬に跨った。
「ありがとう、カルマン」
馬の上から、それだけ言う。
「エッカート卿にもお礼を言っておいて欲しい」
「分かりました」
その時初めてヘクトは、カルマンの微笑を、見た。
エッカート卿ご自慢の駿馬は、二日かかる道を一日(正確には一昼夜)で走破した。
今、ヘクトの目の前には、キュミュラント山の堂々とした山影がある。
「もう少し明るくなってから、登ろう」
「そうね」
用心の為、焚火は作らず、岩陰に並んで座る。
「話さなきゃいけないことも、いっぱいあるしね」
辺りが明るくなるまでの、僅かな休憩時間。その間に、ヘクトはリベットから色々な話を聞いた。トゥエと出会った時のこと。リーニエ王国に向かう途中でウプシーラに寄ったこと。リベットの前から『逃げた』トゥエを追ってアデールに潜入し、偶然カルマンに出会ったこと。そして『力ある石』のこと。
「……じゃあ、『力ある石』は、本当は使ってはいけないものなんだ」
『力ある石』の話を聞いた後、ヘクトはリベットにそう、言った。
「そうね」
「でも、君の『御館様』は、それを使っている」
リベットが『敵』である魔皇帝軍に所属すると聞いても、憎しみも怒りも湧かなかった。おそらく、『トゥエの友達』ということだけで、リベットを許しているのだろう。しかし、リベットのことは、魔皇帝を憎まない理由にはならない。『石』の危険さを聞いた今となってはなおさらだ。
「うん」
ヘクトの問いに、リベットは自信なさげに呟いた。
「……石を滅ぼしてくれる『担い手』が現れるまでだと思うけど」
リベットの答えには、正直不満が残る。しかし、それは仕方のないことだ。心の隅で、ヘクトはそう、思っていた。『石』を操る為の『意志』の強弱は、結局は個人の問題なのだから。人がどう生き、他人とどう触れ合うかによって決まる、個人の『心の力』。それが、『石』を操る『意志』になる。トゥエがそう言っていたと、リベットはヘクトに言った。
そうこうしているうちに、夜明けが近くなる。
キュミュラント山の岩陰に馬を隠してから、ヘクトはトゥエの遺体の入った麻袋を担ぎ上げ、大股で山道を進んだ。
春近い日の朝方らしく、あたりは真っ白な霧に覆われている。足下に注意しないと、木の根や岩に足を取られてしまう。
自分はともかく、トゥエを落とすわけにはいかない。ヘクトは用心に用心を重ねて細い山道を進んだ。
そんなヘクトの後ろには、抜き身の短刀を構えたリベットが鋭い目を左右の影に向けながら歩いている。女のくせに、隙がない。振り向いたヘクトは妙なところで感心した。
もうすぐ、祠に着く。祠に着いて、トゥエをそこに葬れば、トゥエの願いは果たされる。ヘクトは半ばほっとした面持ちで、祠の前まで辿り着いた。
だが。
祠の前にいたのは、見知った影。
「ウォリス!」
来ているだろうとは、分かっていた。しかし思わず叫んでしまう。
「おまえ、いつの間に」
目の前のウォリスは、王宮の地下牢であった時と同じ顔色をしていた。
その顔に浮かんだ不敵な笑みも、同じだ。
「魔法を使えば簡単なこと」
地下牢で聞いたのと同じ調子で話すウォリス。
そう言えばトゥエも、自分がよく知っている場所に移動できる『水鏡の術』とやらをよく使っていた。ウォリスが同じ魔法を使うことができたとしても、全然不思議ではない。
しかしながら。ここで、こいつにトゥエを渡すわけにはいかない。
ヘクトはトゥエの亡骸を抱えたまま、ウォリスに向かって突進した。
狙うのは、無防備な足。
だが。
「うっ……」
動かしていたはずの足が、急に硬くなる。
勢いの付いたヘクトの身体は慣性のままに地面へ激突した。
「無様ですね」
顔を上げると、目と鼻の先にウォリスの不敵な面があった。
だが、いつの間にか足ばかりではなく身体全体が動かなくなっている現在のヘクトでは、そのうっとうしい面を殴ることすらできない。
それでも。トゥエだけは、渡さない。ヘクトはトゥエを庇うように地面に伏せた。
しかし、それでウォリスが止められるわけがない。
冷たい気配が、ひしひしと伝わってくる。ヘクトは思わず目を閉じた。
と、その時。
「消えなさい!」
悲鳴のようなリベットの叫びと共に、放物線を描いた水流がウォリスに襲いかかる。
忘れていた。リベットも、居たのだ。
次の瞬間。
「う、うわぁぁぁぁぁぁ!」
悲痛に満ちたウォリスの声が、山全体にこだまする。
唖然とするヘクトの目の前で、ウォリスの身体はあっという間に溶けてしまった。後に残ったのは、キュミュラントの僧侶が嵌める銀の指輪と、ぼろぼろになったローブのみ。
「……ウォリス」
呆然と、煙の立つローブを見つめる。
「ごめん」
その後ろから、リベットの悄気た声が聞こえてきた。
「でも、『石に魅入られた者』は、滅ぼさないといけないの」
そのことも、リベットから説明を受けた。それに、リベットのこの行為のおかげで、自分もトゥエも救われているのだ。感謝こそすれ、リベットを責める理由はない。
だが。……それでも、かつての幼馴染みの死は、悲しすぎる。
何も言えず、ヘクトはその煙を見つめた。
その時。
「ヘクト!」
聞き知った声が、ヘクトの耳を打つ。
この、声は。……でも、まさか。
「リュエル! 兄者も!」
しかし、振り返ると確かにそこには、リュエルの姿があった。
リュエルの顔は、二、三日前に王宮で見た時よりも心なしかさっぱりとしているようにヘクトには感じられた。
リュエルの後ろにはもちろん、兄のマチウもいる。
兄に逢ったら絶対殴りたいと思っていた気持ちは、この時既に何処かへすっ飛んでしまって、いた。
「何で……?」
「トゥエが昔呉れた魔法札を使ったんだよ」
少しだけ微笑み、そう言うリュエル。
そしてリュエルは、地面に落ちている麻袋に優しく手を触れた。
「トゥエ……」
リュエルの口から漏れたのは、間違いなく、嗚咽。
「済まない」
その言葉に、今まで我慢していた涙が、ヘクトの双眸から零れ落ちた。
筋力のあるヘクトとマチウで、トゥエの亡骸を祠のある洞窟の中に安置する。
その後で、側にあった大岩を転がして、祠を完全に封じた。
「これで、『石』が何処にあるか分からないわね」
明らかにほっとしたリベットの声が、ぐちゃぐちゃだったヘクトの気持ちを少しだけ落ち着かせた。
これで、トゥエも、……静かに眠れるだろう。
そして。
祠の前に、リュエルは砂と岩で小さな塚を作った。
塚の上には、キュミュラントの僧侶が嵌める銀の指輪が置かれている。ウォリスの墓だ。
「トゥエもウォリスも、私の仲間だった。……想いが、違うだけで」
できあがった塚と、祠があった場所を静かに眺め、リュエルがそう、呟く。
「私は、良い国を作らねばならぬな。……想いが、悲劇を生まないような国を」
そうして欲しい。トゥエと、……ウォリスの為にも。
リュエルの言葉を聞きながら、ヘクトは心からそう、思った。