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鬼録   作者: 小室仁
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花 了


イメージ。

フラッシュのように、頭に送られてくるイメージ。

振り払っても振り払っても、

一度開いてしまった過去の出来事のパンドラの箱は、

私の頭の中では閉まらない。


白猫から送られてくるイメージは続く。

そのイメージ動画には、事実というインデックスが貼られている。

かつて実際にあった、真実。






辺りは寝静まった深夜。人の気配はまるきり無い。

痩せ衰えた男が、自分のよれた寝巻きの浴衣の前がはだけるのも気にせず、

白い死に装束に身を包んだ、もう動かない女をしっかりと両手に抱きかかえ、

よろけながら、あちらこちらにぶつかりながらも、

静かに静かにどこかへと歩いていた。

どうやら、葬儀の前に、

彼女を連れ出したらしい。




廊下が小さくきしむ。

自分のやせ衰えた体と、自ら命を絶った愛しい女の体の重さ。

それは彼の心の重さ。

絶望に包まれて身動きが出来なくなってしまった彼の心の重さ。



修造・・・。

私は心の中で呟いた。



やがて彼は一枚開いている木の雨戸の間から、

美千子を抱えたまま、廊下を庭へと下りる。

湿った冷たい土を素足に感じながら、目指す場所を求めてよろよろと暗闇を進む。

月の明かりは明るいのだけれど、光は妙に青々としていて、

まるで彼の心を映しているかのように冷たく、

ただこれから起こることを、静観しているかのようだった。



よろよろと進む彼の後を目で追うと、

やがて古ぼけた小さな木造の薪小屋にたどり着いた。

修造は美千子を抱きかかえたまま、立て付けの悪い小屋の引き戸を開けた。

戸は悲鳴を上げるようにして、ようやく開いた。

普段寝たきりのような生活をして肉体の衰えていた修造の、

美千子を抱きかかえている息は荒い。額やら首、はだけた胸にも玉のような汗が浮いているのが、

青い月の光でも分かる。


その小屋には、修造が自分の部屋から持ってきていたのか、

古ぼけたぺしゃんこの布団が小屋の真ん中に一枚敷かれていた。

修造は、そこに抱きかかえてきた綺麗に死に化粧を施された美千子を、

ゆっくりと横たえた。

着物の乱れたすそを直し、ほつれ髪を綺麗に指で直す。

そしてしばらく美千子を眺めていた後、

修造はゆっくりと立ち上がり、小屋の隅に積まれている薪を手に掴み、

布団の周りに積み上げ始めた。

ゆっくりとゆっくりと、しかし確実にその布団の周りの薪は高く積み上げられていく。

満足が出来る高さにまで積み上げると、修造は大きくため息をつき、

小屋の隅によろよろと歩いていった。

布団の元に戻ってくるときには、小さなブリキの缶を手に持っていた。

修造は缶の蓋を開けると、中の透明な液体を積み上げた薪に、

満遍なく振り掛けた。



「美千子、本当にすまなかった。どうか許せよ」

美千子の横に横たわりながら、修造は掛け布団を二人の上に引きずり上げた。

そして、その掛け布団の上にも缶の中身を振りかけた。


「美千子、俺は最後までお前に愛していると言えなかった。

 今度もし生まれ変わってくることがあっても、もうこんな情けない俺には、

 お前に思いを告げる資格はない。今度お前の元に行くときには、

 口の無い、言葉の喋れない生き物でいい。ただ、ただ、

 お前の幸せを見届けるだけでいい」

修造の目から涙があふれ出る。

「美千子、許せよ」

搾り出すように修造は言うと、持っていたマッチの擦った。

ぽーっと赤い小さい火が燃える。

修造はそれを自分の積んだ薪へと投げた。


すぐにマッチの小さな火は、巨大なオレンジ色の炎となり、

生きたままの修造と、自ら命を絶った美千子を包んだ。

修造はこれが罰と、

最後の最後まで目を閉じなかった。

悲鳴すらも上げず、ひたすら美千子に謝り続けていた。





 どれだけ苦しかったろうか。

生きたまま燃えていくというのは。


肌や肉を焦がす炎の苦しみよりも、

彼にとっては美千子を死なせてしまったというのが、

それまでも苦しかったのだろうか。




私は自分の両目から涙が溢れてくるのを抑えきれず、

小さく嗚咽をもらした。


こんなに純粋に人を思えるということは、

一体どんなものなのか。



やがて、白猫から送られてくるイメージは、

私の頭から消えていき、

後に残された私は、ただへなへなと床に突っ伏し、

まだ止まらない自分の涙をぬぐっているだけだった。




「真備さま・・?」

しばらくして、アカが何度も呼んでいたのに気が付き、

私はゆっくりと顔を上げた。

「大丈夫でござりまするか?」

心配げなアカに、私は頷く。

辺りを見ると、あの白猫の姿は無く、

「あれ、あの猫はどうしたの?」

私は両手でごしごしと涙でぬれた顔を拭きながら、訊いた。

「あれなら、消えたようでございまするな」

アカは辺りを見回して答えた。


「アカ、あの轢かれた猫、拾いに行く」

私は言うと、残っている酒の酔いと睡眠不足とで、

よれよれになっている自分を奮い立たせて立ち上がった。

「今からでございまするか?」

アカが驚いたように言う。

「彼はね、堕ちて動物になったわけじゃなかった。

 自分から口の利けないものに生まれ変わっていたの」

私はため息をついて、今見たものをアカに教えた。

アカは黙って聞いていた。


「兄妹で愛しあうということなんて本当は罪ではないでしょう?

 そんなのは勝手に人間が後から決めた決まりごとなんだもの。 

 そんなことに振り回せれる愛のほうが、実は気の毒なのよ。

 彼はただ真面目だっただけ。真面目だからああするしかなかった。

 何に対しても不真面目でいい加減な私は、本当に頭が下がる思いだわ。

 それに、これも縁だし。私は彼を彼女の元へ届ける役割がある」


私は毅然として言うと、台所へ行き、

24本入りの発泡酒の空のダンボールをばりばりと破いて、

中に死んだ猫の体が入るように細工をした。

そして風呂場からタオルを持ってきて、中に敷き詰める。

「あんたが一緒に来ると変に思われるから、留守番しててね」

そう青頭巾の妖怪のアカにいい捨てて、私は早朝のアパートの階段を一気に下った。


まだあの猫は、そのままでいるだろうか。

私がたどり着く前に、保健所の車に引き取られていないだろうか。

それだけが心配で、私は小走りに走り続けた。




猫はまだそこにいた。

朝日に当たって、死んで冷たく硬くなったままで。

私は近寄ると、通り過ぎる車をやり過ごしながら、

路面に自らの血糊で張り付いた猫の体をゆっくりと持ち上げた。

持参してきていたダンボールの中に、そっと横たえる。


さっきまで、私の前ではまるで生きているかのようだったのに。

轢かれた時の衝動だろうか、半開きになったままの口、

硬くつむったままの目を見ながら、私はそっとその場で合掌した。


死んだ猫の体の入ったずっしりと重いダンボールを抱えて、

私は辺りを見回す。

「どこに行けばいいの?」

小さく呟きながら、何度も辺りを見回した。

通勤ラッシュの始まった町は、車と人通りが多くなりつつある。


ふと、目の端に白い影が映る。

私はそっちの方へと、足を急がせた。


電信柱の後ろ、曲がり角の塀の向こう。

ちらりちらりと見える白い影を追う。


やがて、一軒の家にたどり着いた。

白い壁が目に鮮やかな、広い庭の綺麗な家。

緑色の芝生の上には、子供の玩具が放り出されている。

白い影はこの家の生垣の小さな隙間から中に、するりと入っていった。




私は生垣の向こうをしばらく眺めてうろうろしながら、

ずっしりと重いダンボールの箱を抱えなおした。

そして意を決して、家の門を開け中に入る。

玄関のドアの前に立つと、呼び鈴を鳴らした。


軽快なベルの音が家に鳴り響くのが、

ドアの外にいても分かる。

しばらくして「はーい」という、明るい声が聞こえて、

人がこちらにやって来る気配がした。

そして間を置かずにドアが開く。


白いエプロンを身に着けた若い綺麗な女の人が、

笑顔を浮かべながらも、見知らぬ私を見て不思議そうな表情で、

ドアを開けた。

私は持っていたダンボールを差し出した。

「この猫ちゃん、お宅の猫ちゃんではありませんか?」

確信しているというものの、もし間違いだったらという不安がどこか消えない。

朝っぱらから死んだ知らない猫を突きつけられたら、

誰だって驚いて怖がるはずだもの。

でも、私は今朝見た修造を信じた。あの愛を信じた。


そのエプロンの若い女の人は、

アッと小さい悲鳴を上げた。

「シュウ、シュウ!!!」

私の持っていたダンボールをひったくるようにして、抱きかかえると、

その若い女の人はその場に崩れ落ちた。

しばし彼女が号泣しているのを、私は立ち尽くしたまま見守る。

修造。シュウか・・・。縁は巡るのはやはり事実なのだな。

頭の中の映像だけではなく、こうして現実に目の当たりにすると、

やはり全てが確信に変っていく。




やがて、ようやく一呼吸付いたのか、

若い女の人は涙でびしょ濡れになった顔を上げた。

「有難うございます。うちの猫です。どこで轢かれてしまったんでしょうか」

震える声で健気にも、私に頭を下げてくる。

「一本向こうの道路でした。多分こちらで見かけたことがあったので、

 そうじゃないかなあと思いまして、こちらへお届けにあがりました」

私は少しの嘘と、大きな真実をこめて答えた。

「お家に帰れて、良かったね」

私はダンボールにもう一度合唱して呟くと、それではと踵を返そうとした。

「すみせん、後で御礼に伺いたいのでお名前とご連絡先を教えてくださいませんか?」

彼女が言う。

私は一瞬迷ったものの、自分の名前と携帯の電話番号を教えた。

「もしかして、美千子さん?」

ひょんな拍子に、私の口から疑問が滑り出てしまう。

あっと思ったときには遅かった。

「美千絵です・・どうして私の名前を・・?」

美千子の生まれ変わりの若い女の人は、驚いたように私を見た。

「なんとなく、まぐれ当たりですよ」

慌ててごまかし、私は挨拶も早々にその家を出た。



数日後、美千絵さんから連絡があり、

「御礼にうちでお食事でも」と、お誘いがあった。

あんまりそういった事は得意ではないのだけれど、

乗りかかった船が漂流した後、たどり着く場所を確認したかった。



仕事がオフの日、私はあの白い壁が綺麗な家に赴き、

お昼ごはんをご馳走になった。

美味しいパスタと手焼きのパンを頂きながら、

美千絵さんと一緒に、手入れの行き届いた庭を眺めた。


美千絵さんが言った。

「シュウをあれから庭先に埋めてあげました。

 本当は死んだ飼い猫を庭に埋めると良くないなんていう人もいますけど。

 うちの場合はそんな迷信より、家族が大好きだったシュウが、

 いつも家族の様子が見れるように、あそこに埋めたんです。

 そしたらね、不思議なことにあの花が直ぐに生えて来て、あっという間に咲いたんですよ? 

 不思議でしょう?そんな季節でもないのに」


綺麗な大きい向日葵が、シュウを埋めたという場所にすっと伸び立ち、

まるで首をこちらに向けるようにして咲いていた。

季節はずれもいいところ。


私は美千絵さんの淹れてくれた美味しいコーヒーを啜りながら、

「綺麗ですよ、修造さん」と呟いた。

美千絵さんはそんな私を不思議に見ながらも、

向日葵に目を戻し、向日葵の美しさに、

幸せそうに微笑んでいた。


(花 了)



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