火事
仕事帰り。
家の近所まで来てふと黒い夜空を見上げると、
建物の合間から、巨大なオレンジの炎が上がっているのが見えた。
白い煙に混ざって炎と同じオレンジ色の火の粉が、
あたり一面、風に高々と舞い上がっているのも見える。
うわ、火事だ。
一瞬足がすくんだものの、自分の住むアパートの近くということもあり、
私は吸い込まれるように、その炎の方へ小走りに走った。
近づいて見ると、
立派な瓦を葺いている大きな二階建ての家が、
丸々と炎に包まれ、真っ赤に燃え上がっていた。
すぐ隣のアパートまで、火は乗り移りつつある。
辺りにはまだ消防車の姿は無い。
私と同じような野次馬が二、三人集まって来ただけで、
家はただ、燃え盛る炎に身を任せているだけの状態だった。
かなり大きな火事だ。
それにしても、ずいぶん燃え方が早い。
ここまでなるのに、誰も気がつかなかったのか。
火の粉が飛んでいる辺りの家の窓には、明かりが点っているというのに。
恐ろしさに、身をすくませながらも不思議に思う。
やがて消防車のサイレンが遠くで鳴り響き始め、
その音とともに、この火事に気がついて、
たくさんの人たちが、わらわらと集まり始めた。
到着した消防士たちが、手馴れた様子でてきぱきと仕事をするさまを、
私はただただ尊敬のまなざしで見守り、
その場から動けないでいた。
辺りの野次馬達の声が耳に入る。
「今日はこの火事で三件目なんですって」
「どの家も空き家になっていたんですって」
「燃え方が異常だから、放火なんじゃない」
「同じ市内で一日に三件も火事があったんじゃ、消防車も間に合わないわよね」
今日、三件もこの辺りで火事があったのか?
驚きながら、聞き耳を立てていた。
ふと、肩にかけているトートバッグを引っ張られた。
気がついて、引っ張られた方を見る。
小さな子供が、
私のすぐ側にいて、私のバッグを下から掴んで引っ張っていた。
年の頃は7つか8つ。
耳までのおかっぱの黒い髪、
膝丈の紺の着古したようなぼろぼろの着物を着て、
薄いピンク色をした柔らかい帯を腰に巻いている。
足元ははだしだった。
そして、黒目が大半を占める大きな目が私を見上げていた。
それは、生者では無いと一目で分かる異様な目だった。
私は息を飲んで、その子供を見た。
バッグを掴んで私を見たまま、
その子供はゆっくりと腕を上げて、
ある方向を指差した。
短い着物の袂から伸びている白いその細い腕は、
炎のオレンジが反射して赤く濡れているように見えた。
私はその小さな指の指す方向を見た。
一人の中年の男が立っていた。
野次馬にまぎれて、火事を見ている。
白髪頭で銀縁のめがねをかけている、
黒いジャージ姿の男だった。
神経質そうに自分のあごを指で包んで撫でていた。
それは無理してしかめ面をしているかのようにも、
こみ上げてくる笑みを押し殺しているようにも、見えた。
何が言いたいのだ。
私は心の中で呟いて、もう一度その子供に目を戻した。
けれど、そこにはもう子供の姿はなかった。
もし、この火事が放火だとしたなら。
放火の犯人は、必ず現場に戻るという。
あの異様な子供が私の気を引き、指をさして知らせた男は、一体何者なのだろうか。
あれが言いたかったのは、この男が放火の犯人だという事なのか。
私はきびすを返して、その現場を離れ、
足早に家へと向かった。
私にどうしろと?
「この男が放火犯人です」と、辺りに言えというのか。
冗談じゃない。
もし、万が一にでも本当にその男が放火の犯人だったとしても、
「どうして分かったのか」と聞かれたら、
私は一体なんと答えればいいのか。
「いや、この世のものでないものが私に教えてくれたんです」
とでも、言えというのか。
頭が狂っていると思われるか、下手をしたらそんな不審なことを言っている私自体が、
不審者だと思われても仕方ないところだ。
畜生と、心の中で毒づいた。
これから帰る私の部屋で、そいつが待ち伏せしているなら、
逆に問い詰めてぎゃふんと言わしてやると、
息巻いていた。
だって、どうして私なのだ?
他の人はいくらでもいるのに、
ただ見えるというだけで、どうして私の前に現れるのか。
その子供のようなものは、かなり古いもののはずだ。
あの服装、身なりを見ても、
今の少子化が進む時代の子供の格好とは、
どう考えても思えないし。
青っ洟をたらしている子供もいない時代に、
着古したつんつるてんの着物を着て、
裸足でいる子供なんて、
戦前にいたくらいだろう。
現代ではありえない。
それに、あの目、
黒目が異常に大きく目を占めていた。
あの目は、普通の人間の目じゃない。
多分、長い年月のうちになんかしらに変化をしたものに違いない。
ただの幽霊ではなく、成仏することが出来ないままに、
妖怪とかお化けとか称される、得体の知れないものに変化したものだ。
息を切らしてたどり着いたアパートの部屋のドアを勢い良く開け、
私は部屋の明かりを急いでつけた。
でも、見回しても、
1DKの狭い私の部屋の中には誰もいなかった。
じゃあ、これから現れるのか。
私はどさりとバッグを放り出すと、
冷蔵庫から缶ビールを取り出して、
タバコに火をつけ、部屋の真ん中で胡坐をかいて座り、
それが現れるのを待つことにした。
そして、思い出したように、
五見に電話をした。
「よくあることじゃん」
中間テストの勉強をしていたらしく、
そう言って、五見はさっさと電話を切ってしまった。
そうなんだけど。
なんだか、今回はそういって簡単に忘れる事が出来なかった。
もし、本当にあの男が放火犯人だとしたら、
それを知っていて黙っている自分は、
まるで犯罪を加担しているかのように思えたのだ。
家についたのが午前12時。
缶ビールを6本空けて、
タバコを二箱吸って、4時まで待った。
窓の外が白々と明るくなってきて、
次の日が訪れてきたのを知らせた。
だけど、その妖怪変化は私の部屋には現れなかった。
諦めて、シャワーを浴び、
寝る支度をした。
浴室から出て、
ふと気がつくと、
私の吸った吸殻で一杯になっていたバドワイザーのロゴの灰皿が、
びっしょりと濡れていた。
不思議になって灰皿を手にとって眺める。
誰がこれに水を入れたのだろう。
私一人暮らしのこの部屋で。
ふと、思った。
あれはかつて、
火事で亡くなった子供だったのだろうか。
それも放火だ。
今日はただ、本当に知らせたかっただけなのか。
自分と同じような目に遭った人の不幸を助けたくて、
そこに丁度私が居合わせたということなのか。
でも、だからといって、
私は一体どうすればいいのだろう。
結局、どこまでも己が可愛い私は、
この不思議な水で濡れそぼった灰皿より、
価値の無い人間かもしれない。




