花 8
(修造の日記より)
人は結局、孤独な生き物なのだろうか。
というより、
私だけが、結局孤独な人間なのだろう。
あんなに愛しいと思い、思われた相手が妹だと知った時、
私は何もかも全てを失ってしまった。
生きる意味も、生きる術も、生きる気力も。
いや、違う。
私が、もともとそんなものを持っていたわけではない。
美千子が私を愛してくれたときに、
どれも全て彼女から与えられたのだ。
そして、美千子を失ったとき、
彼女と共に全てがもとの無に、
戻ったというだけのことなのだ。
私の周りの空気はどんよりと重い闇と化し、
耳は穴を失ったかのように何も聞こえなくなり、
目は開けているのも苦痛なほど、何かを見ることを拒否した。
父親に罵倒されたままのあの部屋の中で、
私は布団に横たわったまま、身動きもせず、
生きた屍になった。
食べることも寝ることも、その時の私にはどうでもいいことに思えて、
体は痩せ、もともと醜い私の風貌はますます醜いものとなった。
誰がもう、こんな自分を相手にしてくれるだろう。
想像しただけで、舌を噛みたくなる。
それでも、舌を噛めない自分がいて、
ほとほと情けなくなってしまうのだった。
ふた月もたった頃、
父親が、すえたような臭いが篭る私の部屋へやって来て障子を開け、
立ったままの姿でただ一言、「美千子が明日嫁ぐ」と告げた。
嫁ぎ先は遠縁の農家だと言っていた。
私は頷きもせず、父親を振り返ることもせず、
湿った冷たい布団の中でじっとしていた。
父親は用件だけを言うと、障子をぴしゃりと閉めた。
その時に、父親から見捨てられたのをはっきりと悟った。
それはそうかもしれない。
息子といえど、成人してしばらくになる立派な大人でありながら、
妹と関係を持ち、その上、自分で巻いた種のショックで立ち直れずに、
めそめそとやせ細り、毎日をごろごろと寝て過ごしている箸にも棒にもかからない厄介者なのだから。
その深夜、またしても私の腐った部屋の障子がそろそろと開いた。
その頃には、私の部屋を訪れるのは、
昼間、ほとんど口にしない無用な食事を運ぶ使用人だけだった。
しかし、その使用人が来るような時間ではない。
私はいぶかしげに思って、まるで老人のように衰えた体に鞭打って、
布団の中で、ゆっくりと障子を振り返った。
美千子だった。
寝巻きの上に白いカーディガンを羽織り、
ようやく体だけ入れるくらい障子を開けて、するりと中に入ってきたのだ。
真っ赤に泣きはらした目で私を睨むように見下ろすと、
崩れるように私の寝る布団の枕元へうずくまり、
美千子は声を押し殺して呟くように言った。
「修造様、明日私はこちらの遠縁の家の方に嫁ぎます。
何か私に、おっしゃることはございませんか」
嗚咽をこらえきる事が出来ず、美千子の声はかすれて震えている。
私は驚いて目を見開いていた。
今度こそ、父親に見つかればどうなるか分からないというのに、
その危険を冒して、美千子は私を訪れたのだ。
「好きでも無い方に嫁ぐ可哀想な妹に、どうか一言だけでも言葉を下さいませ」
美千子の真っ赤に腫れた目から、また新しい涙があふれ出てくる。
あふれ出てくるその涙をぬぐおうともせず、美千子は顔を寄せて私を凝視する。
一緒に逃げよう。一緒に死のう。
もしかしたら、そんな言葉を美千子は待っていたのかもしれない。
私の口がわなないた。
どんなに私も言いたかったか。
美千子が私に望んでいる言葉を。
だけど、不甲斐ない私には、
もうそれだけの気力が無かった。
美千子を愛しすぎて、私はもうすでに疲労困憊しすぎていたのだ。
所詮、神にも親にも見離された私達二人。
これから新しく何かを始めるにしても、絶望的に思えて、
私は情けなくも、まるきり何も言えなかった。
言葉を失っていた。
というよりも、こうまでして愛する人に請われているのに、
何も言葉を言えないこの口を、心の底から嫌悪した。
私は自分を呪った。
美千子の懇願する涙が、
布団に横たわったままの自分の顔に、ぽたぽたと落ちてくるのを感じた。
私はいつしか、美千子から目をそらしていた。
「お気持は良く分かりました」
美千子がとうとう、私の沈黙を破った。
「お兄様、どうかお元気で」
搾り出すように言うと、美千子は私の部屋を去った。
美千子が去っていく静かな足音を聞きながら、
私は泣いた。
何も言えなかった自分の口を千切るかのように、
やせ細った指で血が滴るまで、掴んでいた。
眠れずに迎えた次の朝、
屋敷がざわめいていた。
美千子の祝言のせいかと、聞きたくないと、
私は、重い体を布団の上で芋虫のように動かしていた。
しばらくして、
私の部屋の障子が大きい音を立てて開き、
「美千子が自害した。こうなったからには、
もうお前も、いつまでもこのままではいられないぞ。
生きるか死ぬか、はっきりしろ」
怒り狂ったような父親の声が、轟いた。
美千子が自害。
驚愕した私は、全身の力を振り絞って布団の上に起き上がった。
「何故、何故」
震える声で呟いて、父親の後を這うようにして追う。
美千子は、自室の結婚式の白い衣装の前で、
昨日のままの寝巻き姿で、柱に紐をくくって首を吊って果てていた。
下がった手足、頭はうなだれて宙に浮いていた。
使用人たちが慌てて、力を合わせて美千子を床に下ろす。
その顔は、赤黒く膨れていて、
生前の美しさは微塵も無かった。
苦しんで苦しんで苦しんで。
私が何も言わなかったせいで、美千子は最後まで苦しんだのだ。
私が見放した。
その孤独に苦しんだのだ。
私があそこで、
「美千子、お互いに一緒になれない運命だけれど、
お互いに幸せになれるよう頑張ろう」と言えたとしたのならば、
美千子はこんな形で死ななかったに違いない。
私は悔やんで、気が狂いそうだった。
私は結局、自分の甘い孤独を演じていただけだ。
美千子と愛し合ったといって、
決して彼女を受け入れたわけではなかったのだ。
本当に愛して彼女を受け入れようとするならば、
男女とは違う兄妹という形であれ、
一緒に生きていくことは出来たはずなのだ。
もう、
どれだけの意味が、この後残されているのか。
私の生きている意味が、私はこれ以上分からなかった。
(この後、ページは破られている)




