花 5
その白い影は、どうやら男のようであった。
ぼんやりとした輪郭ながらも、まだうら若いのが感じ取れる。
私と同じ20歳そこそこくらいの若者だろうか。
下から見上げる彼と、私の目が合った。
彼は何かを訴えているようだった。
だけれど、彼には口が無い。
例えこの世のものではないとはいえ、やっかいなのは人間同士で、
生きていても死んでいても言葉が無ければ、
お互いに理解することは難しい。
あとの理解の手段というのは、
相手が私に送ってくる映像的なものだけ。
だけど、構えていてもこの白い影は、
私にイメージのようなものを送ってくることは無かった。
困ってしまった。
ここにこうして来られても、
私は何故彼が私の元に来たのかが、わからないからだ。
「アカ、どうしよう」
私は独り言のように呟いた。
「追い払いまするか」
後ろでアカの声がする。
私はしばらく躊躇して、首を横に振った。
「害も無さそうだし。
このまま、待ってみようか」
白い影の男を玄関に入れたまま、
私は爪先立ちになって開いたドアのノブを掴むと、そっと閉めた。
影はそのまま、その場所でじっとしている。
私とアカは結局、一睡もせず酒を飲んで一晩、
過ごしたのだった。
朝が来た。
白々とアパートの窓のカーテンの向こうが明るくなり、
また違う一日が始まったのが分かった。
いい加減疲れ果て、睡魔に勝てなくなった頃、
またこうしても自分に関係の無い物事に巻き込まれたと、
腹立たしく玄関先の白い影を振り返った時だった。
玄関先の若い男は一匹の白い猫の姿に変わり、
立ち上がってこちらを見ていた。
ゆっくりと尻尾を振り、まるで誘っているかのようにこちらを見ている。
私とアカは顔を見合わせて、その白い猫に見入った。
猫もじっと私を見つめて動かない。
しばらく、猫と見つめあい私は重い腰を上げた。
「一体なんだっての?」
ため息混じりに呟いて猫の元に寄る。
猫は待ってましたとばかりに、私の足に柔らかい体を擦り付けてきた。
まるで、生きている猫のような感触。
私は驚いて、しばらく自分の足にまとわり付く猫を見ていた。
死んだはずなのに、肉体を持っている?
不思議になって、そろそろと手を伸ばす。
恐る恐る伸ばした指が、膝元にまとわりつく柔らかい猫の額に触れた。
その瞬間、
まるで脳天をハンマーで殴られたかのような衝撃を覚えて、
私はよろけた。
倒れる間際になんとか下駄箱にしがみつく。
その衝撃とは、咆哮に近い男の叫び声だった。
苦痛と悲しみと怒りとが、ごった混ぜになったかのような、
物凄い叫び声が伝わってきたのだ。
「美千子、許せよ」
肉を裂いて血を流すかのような叫び声。
私の脳みそを揺さぶり引きちぎるかのような声だった。
「真備様、大丈夫でございまするかっ」
アカが駆け寄ってくる。
猫を私の足元から、
払い飛ばそうとしたアカの腕をかろうじてつかんでとめて、
私は頷いた。
目の前に星が飛んでいるようにちかちかしている。
それほどの衝撃だった。
「待って、アカ」
私は息を荒くつきながら、低く呟いた。
「この猫、何か言いたい事が、
やっぱりあるらしいわ」
アカが私を見る。
「ねえ、アカ。どうして私は人のために苦しまなければならないのかな。
まったく関係の無い人のために、こうやって苦労しなければならないのかな」
アカは少し目を伏せた。そしてため息をつきながら、言った。
「真備様、人の一生の間に起きる物事は、
全てその人の為に起きる事柄でございます。関係のないという物事は一つもありませぬ」
アカの言葉で私の脳裏に、
おばあちゃんの「修行」という言葉がよみがえる。
私のこの一生も、他の人たち全ての一生も、
全部「修行」なのだという。
嫌な事も良い事も、全て経験というものは「修行」なのだそうだ。
何のための修行なのかは、私には良くわからない。
けれど、血を流してでも「経験」をするということは、
後に必ずプラスになってくる。
それは決して、死んでから輪廻がどうのこうのというよりも、
生きている間にでも言える事なのだろう。
経験をつめば、豊かな人間になれる。
でも、豊かな人間になったその先は?
誰も答えてくれない疑問は、つきない。
まあ、確かに、こういった変な力でもなければ、
私の人生というものは本当に平凡で、
今よりももっと小さなことにびくびくと怯えて生きているかもしれない。
少なくとも、こうして日常に現れる死んだ人たちを前にしている今は、
私は枯れススキを幽霊だと見間違えることは無い。
それにしても、死んだ人の人生を、
それも私よりももっともっと波乱に満ちた人たちの人生を、
再体験するということは、とても気が重く辛いものだ。
悲しみや苦痛や恐れを、同じように見たり聞いたりしなければならないのだから。
「この猫が私を必要としているように、私の人生もこの猫を必要としているわけ?」
半分あきらめたように、私はアカに言った。
「選択の余地はございまする。あとは真備様次第でございましょう」
気の毒な風を隠せずに、アカは言った。
私はそれはそれは大きなため息をつくと、
よろけるようにその場に座って、
ゆっくりと、傍にたたずむ猫にもう一度手を伸ばした。
手が震えた。
やはり、怖かったのだ。
この猫が以前、どんな人間として生きたのかを思うと。
でも、この猫を招き入れてしまったからには、
自分で追い出すしかないのだ。
しかし、一体。
私は私の人生を終わるまでに、
どのくらい生きるのだろう。
死んでしまった過去の人達の人生を。




