帰らずの森 15
浩太と亡霊の側を走って離れながらも、
目に焼きついた光景をもう一度思い浮かべる。
爺の宿る杉の巨木は、亡霊の首をつったロープの下がっている右側が、
幹も枝も立ち枯れしていた。
どうやってかは知らないが、亡霊はロープの下がっている右側から、
爺の精力を吸い取っている。
このまま、亡霊を放っておけば、やがて爺の杉の木は全て枯れ果ててしまうだろう。
それを防げと、爺は私に迫っていたのだ。
私は自分のやらなければならないことを再認識した。
今は肉すらを持とうとする強力な亡霊に、
はるか昔の実の子供の遺体を差し出さなければならない。
なんて無謀なんだろうと思う。
何故なら、遺体が自然の中にあっては、
風が吹き、日が照り、雪が降り、水が流れる。
人間など、悠久の時間の流れの中では芥子粒みたいな存在。
普通の状況では、見つけられるほうが難しい。
しかし、私は見つけなければならない。
浩太を救うために。
唯一、希望を抱けるのは、
死んで数十年経とうと、あの子供は今も私の目の前に現れている。
ということは、やはり母親に会いたい子供の霊なのだろうと思う。
というか、母親の罪を自ら補おうとしているかのような、
神聖な霊ですらある。
なんの事情があったのかは知らない。
だけど、それから逃れるために、
抵抗も出来ない子供の首を絞め、無理心中を図った母親よりは、
今なお母親を救おうとしている子供は、とても崇高な存在だ。
私は足音を探しながら、暗い森を懐中電灯の光を頼りに彷徨った。
目を凝らす。耳をそばだてる。
見ると黒い森の彼方の空は、
うっすらと紺色がかってきていて、やがて来る朝が遠くは無いと知らせている。
期限は朝だ。
どうか、もう一度だけでいい。
私の前に姿を見せて。
口に出して呟きながら、私は必死に当たりを見回していた。
どのくらい時間が経っただろう。
きっと五分、十分でしか無かったのだろうけれど、
私にとっては、呼吸をするのも辛くなるくらい重い時間だった。
「お願い、お願い」
呟く祈りもかすれてしまって、
心が目に見えるならば、
擦り切れて血が滲んでいたに違いないと思えるほど。
気がつくと、
2、3メートル離れた場所に、
その子は立っていた。
年のころは、小学校低学年くらい。
短い髪をしいる小柄の丸顔の女の子だ。
服装は薄汚れた白いセーターと紺のスカート。
そして、裸足の足。いいや、片方には泥で汚れた靴下を履いていた。
俯いて、でもこちらを向いて佇んでいた。
人は死んだ時の姿で、生きている人の前に現れるという。
もしそれが本当ならば、これがその子の最後の姿なのだろうか。
実の母親に首を絞められ死にかけて、息を吹き返した後はただ一人、
誰も助けに来てくれないこの森の中で、息絶えるまでどんなに心細かっただろう、
どんなに辛くて苦しかっただろう。
「辛かったね」
ようやく声に出すと、私はゆっくりとその子に近づいた。
その子はゆっくりと顔を上げると、
近づいてくる私をじっと見つめた。
そして、無言で地面を指差す。
落ち葉の積もった、何の変哲も無い場所。
私ははっとして、その子の指差す場所へと走った。
もしかして。
形振り構わず膝まづくと、両手で落ち葉の積もった地面を掘り始める。
時間は迫っているのだ。
それが証拠に、辺りは薄っすらと明るく色づき始めている。
爪に土が入り込み、手の平に固い木の枝のかけらが突き刺さる。
それでも私は手を止めず、土を掘り続けた。
何の確証も無い。だけど、何の確証も無いなんてのは、
私の生きていること自体だってそうだ。
「あった!!」
しばらく我を忘れて地面を掘り続けた挙句、手に当たった硬いものを見つけて、
私は叫んでいた。
その丸い手の平大の固まりを土の中から掘り出し、
被っている土を手でなぞると、白い色が下から現れた。
目の穴がある、鼻の穴がある。
子供の頭蓋骨だった。
顔を上げた。
だけど、もうそこにはその子の姿は無かった。
辺りを見回しても、もう見当たらない。
私は大きいため息をつくように呟いた。
「有難う」
空は本格的に白々と明けつつあった。
私は気を取り直すと、土の中から見つけ出した頭蓋骨を抱えて、
爺の木のもとへと走り出した。




