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鬼録   作者: 小室仁
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帰らずの森 14

早足で森へと急ぐ。

懐中電灯の小さな光の輪はとても心細く、

ちらちらと私の足元で揺れていた。

空は漆黒から濃い青へと変わりつつあったけれど、

まだまだ辺りが明るくなるのには時間がかかりそうだった。


森が目の前に来ると大きく一つ深呼吸をして、

私は勢いをつけて中へ入って行った。

太い幹の間を掻き分け、どんどん奥へと進む。

そしてその間にも、神経を張り詰め、

何かの気配が無いか、何かの音がしないかと、

耳を澄まし目を凝らした。


あの子供の足音はまだ聞こえてこない。

昼間、煩いほど私に付きまとっていたあの子供。

こちらが会いたい時に相手が現れないのは世の常、

なんてお気楽なことは言っていられない。

浩太の身の安全がかかっているのだ。

私は辺りに向かって呼びかけた。

まだテントの中で眠るみんなを起こさない程度の、小声の呼びかけ。

「戻ってきたわよ、どこにいるの?答えて」

それでも気配は無く、

やがて私は例の大きな木の柵の前にたどり着いた。

「立ち入り禁止」という打ち付けられている古ぼけた看板の字を、

もう一度懐中電灯で照らして読む。

昼間、あの子供は確かに私をこちらの中へと誘っていた。

私は迷う暇も無く、

その柵に自分の体の入れる隙間を見つけて体を滑り込ませた。



空気が変わった。

柵のこちら側に立ち、私はしばし立ち止まり辺りを見回した。

明らかに、柵の向こう側とこちら側では流れている空気が違っていた。

ある意味、作った人の願いが宿って、

柵がなんらかの結界としての役割をしているのかもしれない。

とにかく、

この柵のこちら側にじじいの木があるのは確かだ。

そして浩太も、死んだ母親の亡霊もその子供もいる。





パキリと枝を踏む音がはっきり聞こえた。

私は音の方角へ懐中電灯の明かりを走らせる。

「いたっ」

私は小さく叫んでいた。

サッと前方の木の陰に走りこむ、子供の残像を見つけたのだ。

私は急いで、そちらの方へ歩き出した。

勇ましい足取りと相反して、心臓が煩く音を立て始める。

「畜生、待てってば!」

口汚くののしることで自分を励ましながら、

私は子供が隠れた木の陰を覗いた。

子供はいない。

すると、また前方で音がした。

パキパキ。枝を踏む軽い音。

子供が小走りに走っているような音だ。

逃してなるかと、私も小走りになった。


柵のこちら側はますます木の生えている密度が濃くなり、

地面ははびこる木々の根っこなどで、でこぼこと起伏が激しい。

何度かつまづいて転んだ。

暗いから自分がどんな状況で転がっているのか判断しづらかった。

だけど、私は足音の主を見失わないよう顔だけは下げず、

体のあちこちの痛みをこらえて急いで立ち上がった。

そうして、どのくらい森の中を走っただろう。

急に目の前が開けて、小さな広場のような場所に出た。

正面には、巨大な杉の木がそびえている。

まだ暗くても、その木が枯れかけているのが分かった。

右側の枝がすべて枯れて下がっている。


そして、私は小さな啜り泣きが聞こえて来るのに気がついた。

懐中電灯の光を、その声の方へと滑らせる。


巨大な杉の木の下、浩太の姿があった。

もう泣きつかれて声も出ないという感じで、

木の根元に座り込んでいるのだった。

異様な光景はまだあった。

浩太は一人では無かったのだ。

白い服を着た一人の女が、

浩太のすぐ脇で木の根元に座り込んでいた。


私はゆっくりと近づいて行った。

私の気配に気がついたのか、浩太が振り返った。

その顔はびっしょりと涙に濡れ、

泥のついた手でこすったのか黒く汚れていた。

「おねいちゃん!」

浩太が声を上げる。

私は口元に人差し指を持っていって、

静かにするように示した。

「大丈夫、なんとかするから。もう少しだから我慢するんだよ」

自信の無い囁きを口から押し出し、

私は無理に笑みを作りながら側に近寄り続けた。

浩太は震えながらも気丈に頷いたけれど、嗚咽は止まらないようだった。

白い服を着た母親の亡霊は、

私に気がついているのかいないのか、こちらを見る気配も無く、

私に後ろ姿を見せたまま座ったまま動かない。


近づくと、母親は亡霊の姿ではなく、

肉を持った人間の実態を伴っているようだった。

何故なら浩太の右手は、

しっかりと後ろを向いて座っている亡霊の手が掴んでいるのだ。

私は浩太の脇にしゃがみこんで亡霊が掴んで離そうとしない浩太の手を引き離そうと、

二人の手を掴んでねじったけれど、びくともしない。

「こんな事って」

私が驚いて、思わず呟くと、

浩太が我慢できないように、泣きじゃくる声で言った。

「おねいちゃん、どうしてこの女の人」

私は浩太の顔を見る。

「目が無いの?」

涙にびしょ濡れになった顔を上げて、

すがるような目で浩太が言った。


亡霊がゆっくりと振り向き、

私が引き離そうとしていた浩太の手と私の手を、

もう一方の手で掴んだ。

私はひるみ、そしてその顔を見て小さな悲鳴を上げる。

女の顔。

目と口が黒々とした空洞になっていて、

まるでムンクの叫びのような顔をしていたのだ。

だけど、その人は絵画ではなく、

肉を持った人の実体の姿だった。

確かに肉を持った姿なのに、

その顔には目と口が無かったのだ。



どうにか、深呼吸をして亡霊から目を上げると、

爺の宿る木の枝が目に入った。

太い枝が一本真っ直ぐに、私達の上に伸びている。

その枝の中ほどに、

結ばれて切れた、ロープが一本風に揺られて下がっていた。

これが母親のぶら下がったロープなのだろう。

命を絶った綱。


怯えた。

だけど、なんとか堪えた。

浩太は私よりももっと、怖いはずなのだから。


「浩太くん、目をつぶって」

私は胸の鼓動で途切れがちになる言葉を、

なんとか口から押し出した。

浩太は自分の手を掴む、本物の人間と変わらない肉を持った亡霊を見やって、

首を左右に振る。

「駄目だよ」

言葉にならない言葉を、

浩太は涎のたれる口で呟く。

「見ていてもいいから。心の目は閉じていて。

 私の言っている事の意味分かる?」

浩太は首を横に振った。


その時だった。

浩太を掴んでいる亡霊の手と、浩太の手との間に、

もう一本手が現れたのだ。

か細い手が二本、浩太の手を掴む亡霊の手を押し返すように、

掴んだ。

浩太の母親だ!

私は思った。

亡霊の子供の遺骨を探す間、

浩太の母親が加勢してくれるということなのか。


「浩太くん、目を閉じて」

私はもう一度言った。

人間が何かに惑わされないためには、

目を閉じているのが一番なのだ。

「だって、今はお母さんが側にいるでしょう」

浩太は涙の浮いた目を見開き、

それでも急に自分の腕からもう一本腕が生えて、

自分を掴んでいる女に抗っているのを見ると、

諦めたかのように頷いた。

この不思議な現象を自分の頭で理解するのを諦めたかのようだった。

この突然生えてきたもう一本の腕が死んだ母親だと思うのすら、

彼には出来ないようだった。


でも、それでいい。

どうせこの世の物事は、

最初から自分の頭で考えても追いつかない事ばかりなのだから。

それが幼い子供なら、なおの事。

私は小さく息を吐き出すと、

目を閉じた浩太の頭を一撫でした。

「いい子で、待っていてね。すぐ戻って来るから」

「おねいちゃん」

浩太は目をつぶったまま言った。

「何?」

私はその場を急いで去ろうとしていたので、

背中越しに浩太に聞く。

「僕の事、嫌いじゃないの?」

「何で?そんな事あるわけないじゃない」

二、三歩浩太の方に戻りながら、私は本心から言った。

「時々ね、皆僕を嫌いなんじゃないかと思うから」

かすれた声で、浩太は言う。

私は走って浩太のもとに寄って、彼を抱きしめた。

「馬鹿だねえ」

私が言うと、

浩太は私にしがみついて、泣きじゃくった。

「戻ってくるから、信じていて」

私は浩太の頬を撫でた。

浩太は目をつぶったまま、頷いた。


世の中は、こうした小さい子供にも、

どうやら世知辛いらしい。

環境の違いはあれ、

子供も大人も、要は感じることは一緒なのだろう。

だって、同じ心を持っているのだから。


私は浩太の頭をもう一度一撫ですると立ち上がり、

亡霊の子供の遺体を探すため、その場を走り去った。





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