帰らずの森 12
老人は、アカが渡した紙コップの中の酒を一息に飲み干し、
大きなため息をついた。
「これはこれは、良いささですな」
目を細めて言うと、また再びアカを真っ直ぐに見た。
アカは居心地が悪そうに、
もじもじと腰を動かしながら、
手に持った極上の吟醸酒の瓶を見ていた。
「それで、今はアカ殿とおっしゃる」
老人がかすれる声で言うと、アカは小さく頷いて、
「事情がありましてな」
同じようにかすれる声で答えた。
やはり、この二人は知り合いなのだ。
まあ、遥か昔から生きている鳥の妖怪と木の精霊。
そんな二人が知り合いであっても全くおかしくはない。
というか、この二人の間に私が座っている事の方が異様なのだ。
ふと、素朴な疑問が湧いた。
「二人は知り合いなのですか?」
私は思わず口を挟んでいた。
すると、まるで初めて見たと言う風に、
老人は私に向き直った。
そして今度は意地悪な感じで目を細めて、
「おぬしが、アカ殿のご主人でおられる」
じろじろと私を見て言った。
なんだかその無遠慮な感じにむかついて、
私は口調を荒げると、
「何か問題でもありますか」
老人に向かってつっけんどんに言い放った。
老人はひるむ様子も無く、私を真っ直ぐに見て続ける。
「どうやら人間とお見受けするが」
「ええ、それが何か」
私が言うと、老人は表情を変えないまま言った。
「私はどうも、人間というものを好きませんでな」
私と老人は黙ったまま、お互いを見ていた。
「まあ、アカ殿ほどの者を下して主人になるくらいの人間ならば、
普通の人間では無いのは明らかですがな。
しかし、おぬしが一体どの位、
他の人間と違うかということは、とても重要な事。
これから起こる事を、どれ位上手く収められるかで、
本当の力量が分かる。
もし、おぬしがしくじった場合は、
遠慮なくアカ殿も返して頂く事になりますが、
それでもよろしいか」
何?何だっての?
老人の言っている意味が分からず、
私はただ首を傾げて、言われた内容を頭の中で反芻するだけだった。
アカを返す?この老人に?
一体、どういうことなんだろう。
「真備様、あまりこの方の言葉は真に受けないようにして下され。
ただ今は、あの林殿の坊主の安全を第一にお考えなさいませ。
今、真備様が懸念されている事が、
本当に一番大事な事でございましょう」
アカは心なしか、力無く私に言った。
「アカ殿」
鋭い老人の咎めるかのような口調。
アカは少し肩をすくめた。
「たかが人間に、そうも思い入れなされたか」
老人が呆れたように言うのに、私は何が何やら分からなかったけれど、
なんだか本当に腹が立ってきて、
「木の精霊だかなんだか分からないけど、
そこまであんたに言われる筋合いは無いし、
過去に何があったかしら無いけど、
今現在、浩太を拉致まがいするのはどう考えても、
おかしい事でしょう。
それに、これからここで何か起きるにせよ、
アカがどうこう関係してくるのもおかしい話だわ。
馬鹿な話もいい加減にしてよ!」
私が大きな声で言うと、老人は黙って私を睨むように見た。
「さては」
強気な口調に裏腹に、私は老人に睨まれると怖気づくのを禁じえなかった。
なんせ、こいつは人間では無いのだ。
「かつ見の血縁か」
老人は吐き捨てるように呟いた。
私の心臓が飛び上がる。
おばあちゃんの名前!
「他の迷惑を顧みないというのは、
どういうことか分かりまするか」
老人は大きく息をした後、少し口調を和らげて聞いてきた。
「おぬしがもし、かつ見の血縁なら分かるはずでございましょう。
それが人間同士であろうと、はたまた種族を超えた者同士であろうと、
間柄に生ずる関係は、同じでございます。
物事には道理というものがありましてな、
おぬしがここにこうしていて、私と話をしているというのも、
理由があるというわけでございまするよ。
ならば、私がおぬしからアカ殿を取り戻したいというのも、
事の道理で」
私は言われた内容を頭の中で噛み砕いて理解するのが精一杯で、
何も言い返すことが出来なかった。
「かつ見という名の人間に、一度は譲歩しましたがな、
今度は譲歩はいたしませぬ。
おぬしが、私の思った通りに出来ないのがわかったなら、
アカ殿も返していただき、今までの契約も無かったことにして頂きましょう。
第一」
老人はため息をもう一度つくと、睨むように私を見て言った。
「人間ごときが、私達種族をどうのこうのしようとするなど、
おこがましいわ」
静かだけれど、あまりに威厳のあるその老人の言葉に、
固まった。
「良いですか」
また、もとの穏やかな口調に戻って老人は言う。
「そなた達人間は、私共にとってとても迷惑な存在なのですよ。
たった今も、そのお陰で私は朽ち果てようとしている。
これをどうにかなさい。
そうすれば、多少の事は大目に見てあげることも出来ましょう」
老人はそう言うと、立ち上がった。
苦しそうな様子は相変わらずだ。
そして、あの腐臭も。
「痛いのですよ、苦しいのですよ」
老人は言うと、腐った方の右手を私に差し出してきた。
「生きながら朽ち果てていくというものが、
どういうものか、おぬしに分かりますかな」
コールタールのような、どろりとした物凄い腐臭が私の鼻を襲い、
私は眩暈をこらえているのがようやっとだった。
「期限は、明日の朝。
よろしいですな」
老人は言うと、よろよろと焚き木の明かりの輪の外へ出て行った。
「ちょっと待って!」
私は叫ぶと立ち上がり、老人の後を追う。
しかし、そこには黒々とした闇。
遥か向こうに森をたたえた黒い闇だけだった。
「アカ、あんたあの老人とどういう関係?」
振り返りざまに、私は聞いた。
アカはただ小さく呟いた。
「親のようなものでございまする」
親!
私が言葉を見つけられずにいると、
「一番最初に生を受けたのは、あの爺の枝の先でございました」
少しの沈黙の後、
私は思い切って訪ねた。
「あんたは私があの爺さんの言う事を叶えられなかったら、私のもとを去るの?」
「それは」
アカは私を見た。
「私にも正直、分かりませぬ」
私は何も言い返せなかった。
大体、最初から私とアカの間に何があったというのか。
遊びの勝ち負けの賭けの関係。
そんな確信が無い関係は、
非常に脆く危ういものではないのか。
アカは、本当に去ってしまうのかもしれない。
そう思うと、ぞっとした。
「あいつの望みは、一体なんなの」
ようやく私が口を開くと、アカは答えた。
「見つけることでございまする」
「何を?」
アカの答えは、あまりに気の遠くなるようなもので、
私は体中の力が抜けて、
その場に折りたたみ椅子の上に崩れ落ちてしまった。
「だって、何年前の話だっての!」
叫んでも何にもならないのは承知だったけど、
思わず、叫んでしまったのだった。




