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鬼録   作者: 小室仁
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帰らずの森 11

人影はゆっくりと、こちらへ向かって来る。

高鳴る心臓を、無意識に胸の外から手で押さえつつ、

私は目を凝らした。

影は一つで、その後に続くものはいないようだし、

先ほど現れた亡霊ともどうやら違うようだ。


なんだか異様な感じがした。

勿論、木々の精霊なんてものはもともと異様なものなのだけれど、

なんだろう、こちらへやって来る動きが変なのだ。

足を引きずっているようで、ぎこちない。

まるで動かないものをようやく動かしているといった感じで、

闇にまぎれてはっきりとはまだ見えないのだけれど、

とても苦しそうな感じが見て取れた。


「アカ、なんだか様子がおかしくない?」

私がぼそりと早口に言うと、

「そうでございまするな」

アカもぼそりと呟いた。




影はかなり時間をかけて、

炎の明かりの輪へと近づいて来た。

弱い風が、影の後ろからその背中を押すように吹く。

途端、目を開けていられないほどの刺激と悪臭がして、

私は両手で顔を覆った。


腐臭だ。

腐っているものの臭い。



「お邪魔しますよ」

声がした。

しゃがれた声。

老人の低いかすれた声。


鼻に当てた両手の間に作った隙間から有機臭を薄めてようやく息をすると、

私は指の隙間から声の主を見た。

アカが灯した焚き火の揺れる光の輪の中、

その声の主は背中を丸めるようにして入って来た。



一人の老人だった。

着ている物は黒いような色をした厚手の着物。

古びていて元の色が分からなくなってしまったような、

どす黒い色の着物だった。


その皺だらけの顔も灰色がかった黒に近い肌をしていて、

人間だったら、相当体の具合が悪く死にかけているに違い無いと思えるような感じだ。

目は落ち窪み、尖った鉤鼻には黒々とした染みがたくさん浮いていて、

唇もまるで黒い口紅を塗ったかのような色をしていた。



その老人はちらりと私を見た後、

アカを見て目を細めた。

「これはこれは」

驚いたような色を含んだしわがれた声で、

落ち窪んだ目でじっと、アカを見たまま老人は言った。

まるでアカを知っているようなその口ぶりに、

私は驚いてアカを見た。

アカは少し俯き加減のまま私を見ないで、

「どうぞ、お座りください」

焚き火を挟んで置いてあった、

もう一つの折りたたみ椅子を、その老人に手のひらで指した。

その老人はそれ以上アカには何も言わず、

薦められた椅子に、

居心地が悪そうに、かなり時間をかけて腰をかけた。


腐臭は、老人が近くに座ることによりますます強烈に漂い、

視界はその刺激によりかすみ気味で、

私は吐き気を我慢する事がやっとだった。


吐き気を堪えながらも、私は驚いていた。

その老人の袖から出ている右手、裾から覗いている右足。

まるでミイラのように、どちらも体の大きさとはかなり不自然なくらいにまで、

細く黒く干からびているのを見たからだ。

てらてらと膿がそれらの全体に浮いているのが見える。

何か相当、その老人は患っているのだ。

ぎこちなく、苦しそうにこちらに歩いて来ていた様子もきっと、

このせいだったのだろう。


老人はようやく椅子に座りやすい体勢を見つけたようで、

大きくため息をついた。


「アカ、一杯お勧めして」

私が言うと、アカは頷いて立ち上がり、

クーラーボックスから吟醸酒の瓶を持って来た。

紙コップに注いで、老人に差し出す。

「どうぞ、ササなど少し」

老人は小さく頷いて、

ちゃんと手の形をしている方の左手でアカからそのコップを受け取ると、

酒に口をつけた。




日本国における神様の類は、

皆例を漏れず酒には目が無い。

それは寓話や伝説、はたまた日常の儀式から見ても明らかだ。

必ず神聖な場面では酒を捧げるシーンばかり。

どうか、この異常な場面を酒の神様が助けてくれますようにと、

私は心の中で祈っていた。



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