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鬼録   作者: 小室仁
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帰らずの森 9

あれ、虫の声。

ふと思った。

私は顔を上げた。



一体どのくらいの時間が経ったんだろう。

今までわんわんと煩く騒いでいた皆の声が、

いつの間にか、まるきりしなくなっていた。

そのせいか、虫の声が異様に大きく耳に響いたのだ。



キャンプファイアーは、ぱちぱちと火の粉をはぜながら、

まだ赤々と大きな炎で燃え続けている。

この炎を見る限り、そんなに時間が経ったわけじゃないだろう。

酒のせいで、私が一瞬気でも失っていたのだろうか。


見ると、林さんが私の隣で座ったまま、動かなかった。

さっき浩太が潜り込んだテントを見たまま、

体を捻った不自然な姿で。

眠っているのだろうか。

「林さん?」

顔を覗くと、その目は見開いてテントの中を覗いているのだけれど、

まるきり静止画像のように止まっていた。

私は眉をひそめた。

 なんだ、こりゃ。

そして、辺りを見回した。


皆、一瞬前の格好のまま、

まるでストップモーションにでもかけられたかのように、

動きを止めていた。

飛び跳ねている者、大きくのけぞって笑っている者、

お互いの体をどつきあっている者、何かを喋っていて口を尖らせたままの者。

その光景は、まるで全て、一時停止をしたビデオ画面のようだった。


「何、これ」

私はもう一度呟くと、そろそろと立ち上がった。

三十人以上もいる人の、誰も一人として動くものはいず、

一瞬前の不自然な姿のまま止まっている。


虫の音だけがやたらと辺りに響いていて、

でも決して世界自体が急に止まったせいなのではないと、

その声が知らせていた。

何者かが、ここにいる私の他の全ての人間の動きだけを奪ったとしか、

思えなかった。


ぞっと背中を寒気が襲った。

「アカ、アカ」

私は訳の分からない恐怖に襲われて、アカの名前を呼んだ。

すると次の瞬間、耳元に小さな羽音がしたかと思うと、

「しっ、真備様。声を出してはなりませぬ」

アカの声が耳元で囁いた。

私は小さく頷いて、そのままそこに立ち尽くした。




さっきと同じように小さなつむじ風が突然湧き上がったかと思うと、

キャンプファイアーの炎を辺りに撒き散らした。

私は身にかかってくる火の粉を避けて、低くしゃがみこんだ。


次の瞬間、

私は何かが黒い森の奥から出てくるのを見た。


一人の女だった。

白っぽい服を着ている。

長い裾を引きずりながら、森の奥からよたよたと、

こちらへ歩いてくるのだった。

私は息を飲んで、しゃがんだままその姿に見入った。


赤い炎が白い服に反射して、

女がこちらに近づくにつれ、

遠めにも、その姿はまるで血に染まっているかのように、

てらてらと赤く滑るように光った。


あれは生きている人では無いだろう。

私は恐怖で小刻みに震え始めた手で、頭を押さえて身を低く構えたまま、

心の中で呟いた。

もしかして、あれが数十年前に心中騒ぎを起こした母親なのだろうか。



声が聞こえた。

細く小さな鼻歌。

女は何か唄を口ずさんでいるようだった。

辺りは虫の声すらもなくなり、シーンと静まり返っているのだけれど、

炎がはじける音がさえぎって、声は良く聞き取れない。

その声はだんだんと近づいて来るように思えた。

「ママッ!」

次の瞬間、物凄い声がしたかと思うと、

浩太が潜り込んだテントの中から飛び出てきた。

 浩太?

私は息を飲むと、浩太を振り返った。

動けるの?


浩太は靴を履くのももどかしく、鼻歌の方へと走り出した。

「ママッ!!やっぱりママだ!」

吹き続ける風に煽られるキャンプファイアーの炎を潜るようにして、

浩太は走って行く。

「ちょ、」

呼び止めようとした私の肩を、

いつの間にか、いつもの青い着物姿に戻っていたアカが押さえた。

「真備様、お静かになさいませ」

私は去っていく浩太を横目に、

「だって、あれどう見ても浩太の母親じゃないでしょ!」

早口で囁くと、

「あの坊主はこのまま人身御供として、森に差し出してはいかがでしょうか」

青い頭巾の下から、赤い目を覗かしてアカは言った。

「人身御供?一体、なんのことなの?」

私が聞き返すと、

「どうせ父親も手に余っていた模様。いなくなって清々するのでは?」

頭巾の下のアカの目を、薄い膜のまぶたがゆっくりと上下に撫でる。

私はアカの着物の襟元を両手で掴むと、揺さぶった。

「あんた、私に黙ってる事があるわね。この森の事で」

アカは首をすくめた。

「いい、あの子供がもし死んだら、あんたも生かしちゃおかないわよ」

「真備様、大袈裟でございまする」

怯えたようにアカは言った。

それに覆い被さるように、私は早口でまくし立てた。

「一体、この森には何があるの!」

「この森の現象は、決して真備様のせいではございませぬ。

 どうかお静まり下さい」

「誰のせいとかじゃないとか、そんな事はどうでもいいのよ。

 それに、私にはまるきり関係ないとは言えないでしょうがっ!

 じゃあ、なんで私は動けるのよ。他の皆は動けないってのに!」

私は掴んでいたアカの襟元を押し飛ばすように離すと、

浩太の後を追って走り出した。

「真備様っ!」

アカが叫ぶ。

私はアカを無視して、浩太の後を追い続けた。


炎が後を追って来るかのように、赤い手を無数に伸ばしてくる。

私はそれらを潜り抜けて、森へと走った。

息を切らして走り続けると、前方に浩太の後姿が見えた。

浩太の向こうには、例の白い服を着た女の姿も見える。

私は構わず、大声で叫んだ。

「浩太君っ!ちょっと待って!」

辺りに私の大声が響き渡る。

浩太がこちらをちらりと振り向いた瞬間、

白い服を着た亡霊の姿と声は、かき消すように無くなった。

浩太は私の姿を認めても、走るのをやめようとはせず前を向いた。

そして、亡霊の姿がもはや見えない事に気がつくと立ちすくんだ。


ようやく追いつくと、私は浩太の肩に手をかけた。

「ママ?ママ?」

浩太は森の方に、人影を探して呼び続けている。

「浩太君、あれはママじゃないのよ」

私が言うと、浩太は私の腕を振り払った。

「嘘だ、あそこにママが立っていて呼んでたんだ」

「違う、あれはママじゃない」

そういった瞬間、

私の頭の中に、ぐらりといくつかのイメージが飛び込んできた。


 白い病室、赤いカーネーション、林さんの悲しげな顔、

 ベッド、浩太の頭を優しくゆっくりと撫でる、

 機械から伸びているたくさんのチューブに繋がれたあのか細い白い手。

 さよなら、元気でいい子でね。ママ先に死んじゃってごめんね。

 でも、ママはいつもここにいるよ。

 ここにいるよ。

 浩太の胸を指差している。

 銀色の結婚指輪をはめているあの白い手。


「ママだよっ、ママなんだっ!離してよ!」

浩太は肩を掴んで離さない私の足を思い切り蹴ると、

ひるんだ私の手をすり抜けて、また走り出した。

私は痛むすねを抱えて息を詰まらせたけれど、

大きく息を吸って痛みを堪えると、また浩太の後を追った。

「ママは死んじゃったでしょう、さよならしたでしょう」

言いながら、またようやく今度は胴に手を回して浩太を捕まえると、

そのまま私達二人は地面に転がった。

「死んでやしない、だってあそこから呼んでたんだもん。

 森の中にいるんだもん」

浩太は泣きながら、体を掴む私の手を殴り両足をばたつかせた。

私はようやく浩太の馬鹿力に勝って馬乗りになって押さえ込み、

「あの森にはママはいない、だってママは言ったじゃない」

息を切らしながら叫んだ。

「ママはここにいるって、

 死んでしまっても、いつも浩太のここにいるって言ってたでしょう」

そして、私は浩太の胸を人差し指で強く突いた。

一瞬、浩太の動きが止まった。

やはり、あれは浩太の母親の臨終のイメージだったのだ。


浩太は大声で泣き出すと、体の力を抜いた。

「ママは死んでなんかいないんだ、死んでなんか」

後は寝転んで喚く子供らしい号泣。

私は体の力を抜くと、浩太の手を掴んだまま、

その体から降りた。

途端、物凄い激痛が私の手に走った。

「痛っ」

浩太が私の手を思い切り噛んで、私の手を逃れたのだった。

「お前なんか大嫌いだっ!!!」

浩太は言うと、キャンプ場の方へと走っていった。

私は噛まれた手をもう一方の手で押さえて、

その痛さにすくんで動けずにいたけれど、

浩太が森の方へ走って行かなかった事にほっとしていた。

そっと噛まれた手を見てみる。

親指と人差し指の付け根に、赤い歯型が滲んでいた。


お前なんか大嫌いだっ!

浩太の声が耳でエコーする。

ストレートな言葉は、心をえぐる。

私は森を振り返った。

黒い鬱蒼とした闇の固まり。

あの森は、一体なんだというのだろう。


涙が出てきた。

何故、私なんだ。

こんなにも、無力なのに。



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