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鬼録   作者: 小室仁
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せんべいとチョコレート 4

駅からの道を歩いてたどると、

やがて見覚えのある家にたどり着いた。

花輪はもう取り除かれていて、

どうやらお婆ちゃんの葬儀は一段落したのだと分かる。


普通の二階建ての家。

黒い門の周りにはブロックの塀がぐるりと回り、

塀の内側には潅木が植えてある。

門からは丸い石が玄関まで敷かれていた。

掲げられている表札には「吉田」と書かれている。

ああ、そう言えば吉田さんって言ったっけと、

私は記憶を呼び出して頷いていた。




黒い鉄ともプラスティックとも言えない門を開けて中へ入り、

玄関のドアまで歩いて行った。


さてと。

私は呼び鈴を押す勢いでポケットに突っ込んでいた手を出したはいいけれど、

再び躊躇して、手持ち無沙汰になった両手を胸の前で組んだ。

「なんて言おうか」

今度は胸のうちを口に出して小さく呟いてみる。

答えは中空にぶら下がったままだ。

私はそのまま立ち尽くしていた。


いきなり訪れて来た私に、

「亡くなったお婆ちゃんが私のもとに現れましてね、

 お嫁さんに伝えて欲しいと伝言貰いましたので、お伝えに来ました」

なんて言われたら、お嫁さんはどうするだろう。

びっくりするだけならいいけど、警察なんか呼ばれたらどうしよう。

今の時代、頭のおかしい人間は掃いて捨てるほどいることだし。

私もその例に漏れないと思われても仕方がないのだ。


その時、頭上で鳥が鳴いた。

一声、甲高く。

アカでは無かった。

別の鳥。

しかし、私の中にアカの昨夜の言葉がこだました。


箸立の箸。




私は呼び鈴を押していた。

びくついてももう遅い。

電子の来客を告げる音は、容赦無く吉田家の中にこだましている。

引き返す事も出来ず、かといってただ立っている事も出来ず、

私はドアの前でおたおたとしていた。


「はい」

声がして、ドアが開く。

ドアのかげから覗いたのは、見覚えのあるお嫁さんの顔だった。

ただ、やはり不幸のあった家の人らしく、少しやつれた感じがぬぐえない。

それとも、それは単に重ねた年齢のためのものなのだろうか。


お嫁さんは私を見たことはあると思うものの、

直ぐには記憶の中のどの人物なのか思い当たらなかったようだ。

「楠木真備です。ご無沙汰してます」

私は言って頭を下げた。

一呼吸だいぶ置いてから、お嫁さんは驚いたように、

まあまあまあと三回大きく言った。




一通り体裁上の挨拶、例えば大きくなったわねえとか、

今はどこに住んでいるのとか、仕事は何をしているのとか、

そんな当り触りの無い会話をした後、

私は勧められたお茶を一口啜って、用件を伝えるための次の言葉を探していた。


「がらーんとしちゃってねえ」

私が口を開くよりも早く、お嫁さんが言った。

「おばあがいるころは、寝たきりだったからベッドもあったし、

 洗濯物もそこいら中干してあったし、

 ずいぶん部屋の中が狭く感じたものだったけど、

 人ひとり、家からいなくなるっていうのは、やっぱりぽっかりと穴が開くもんなんだねえ」

冗談とも本気とも、取れる口調。

だけど、言いながら辺りを見回す様は、

やはりお婆ちゃんの死に痛んでいるとしか思えない感じだった。

私が次の言葉を捜して口ごもっていると、

「いやね、他の人には楽になったでしょうって言われるのよ。

 寝たきりの姑の介護は大変だったでしょうから、これでようやく楽になれましたねって、

 言われるんだけれども」

多分、もうとうに五十の坂を越えただろう容貌のお嫁さんは、肩をすくめて言葉を続けた。

「楽になったのは楽になったけれど、でも楽になるってのは、

 寂しいもんなんだねえ。

 その時はその時の自分しか見えないから、

 何で私だけこんな辛い思いをしてなんて思ったりもしたけれど、

 今考えて振り返ったら、ちっとも辛くなんて無かったし。

 あーでもない、こーでもないと愚痴を正面向かって言える相手がいるってのは」

お嫁さんは少し黙った。

それは必死で笑顔を保つための間だったのだろうと思う。

「やっぱり、貴重なもんなんだよねえ」

笑顔で言葉を続けたものの、お嫁さんの言葉の語尾は震えていた。

「旦那が長期の単身赴任になっても、子供がひとり立ちしても、

 寂しいなんて思わなかったのに。

 おかしなもんね。今初めて、寂しいって言うものが、

 どういうものか分かったのよ」

お嫁さんは、あくまでも笑顔だった。

しかし、どうお嫁さんに慰めの言葉を言えばいいのか。

私はそればかり考えていた。



その時、お嫁さんの背中越し、

仏壇の脇に陽炎のように、空気がゆらゆら揺れるのが見えた。

息を詰めてみていると、それはお婆ちゃんの姿になった。

仏壇の脇に、地味な灰色の訪問着を着たお婆ちゃんが、

こじんまりと正座して、こちらをニコニコ見ているのだ。

「寂しいと思うのは、取り残されてしまったと思うからでは無いですか?」

私は口を開いた。

お嫁さんは私を見る。


ここからが正念場だ。


「例えば、死んでしまっても今もそこにいて、

 お嫁さんをニコニコ笑って見ているとしたなら、

 それは置いて逝ってしまったということにはならないでしょう?」

お嫁さんがぽかりと口を開けて、私を見る。

そして、一呼吸置いて、

私が昔どういう変わり者かと噂されていたのを思い出したらしい。

「もしかして、そこにいるの?」

思ったよりも穏やかな口調。私は安心して頷いた。

「どこ、どの辺なの?」

お嫁さんはきょろきょろと辺りを見回す。

私はゆっくりと腕を上げて、お婆ちゃんが見える辺りを指差した。

すると、お嫁さんは私の指差した方向へ座りなおし、

もう感情を押し殺す事はせずに、震える声で彼女には何も見えないはずの空間へ話しかけた。

「おばあ。全く、なんでこんなに早くにいったのよ」

もろに怒っている口調。いつもこうして会話していたのだろう。

「もう一度、一緒に歌舞伎町にお芝居見に行くって言ってたじゃないの。

 そのために着物だって新しく買ったばかりでしょうよ。

 私だってお芝居に着ていくワンピース、新しいの買いたかったのに、

 おばあの葬式に着る喪服に化けちゃったじゃないの」

その後、しばらくお嫁さんは私に背中を向けたまま、声を殺して泣いた。

私はただ黙って、その震える背中を見ていた。

 嫁と姑。世間によく言われるけれど、

そして、あんなに喧嘩をしていたのを見る限り、

きっとこの家も例に漏れないだろうと思っていたけれど、違うのだなと思った。

案外、人の情なんてものは、

傍から見るほど簡単なものなのではないのかもしれない。

血の繋がっていない他人が、一緒に長い間暮らすというのは、

暮らせるというのは、

人の浮ついた詮索を上回るような、深い情愛のなせる業なのだろう。


ふと、お嫁さんが大きく息をした。

どうしたんだろうと見守っていると、

お嫁さんはその場に背筋を伸ばして座りなおした。

そして、驚く私の目の前で両手をきっちりとついて、

畳に額がこすれるくらい、深々と頭を下げた。

「今まで、可愛がってくださって有難うございました」

そこに座っているはずのお婆さんに、お礼を言っているのだった。

お婆ちゃんの寝たきりの介護をした後も、

お嫁さんはお婆ちゃんにお礼を言っているのだった。



すると、言葉を失って見ている私の前で、

私だけに見える陽炎につつまれたお婆ちゃんも、

お嫁さんと同じように、両手を前についてお嫁さんに頭を下げた。

衝撃だった。

見えなくても、生と死が二人を別ち合っても、

繋がっているのだと思い知らされた。

同じ箸立の箸。



私は私の用件を伝えるまでもなく、自分の役目は終わったのだと感じた。

「お線香を上げさせて頂きますね」

そう言って、私はゆっくり立ち上がると仏壇に向かった。

慌てた様子で涙をぬぐいながら、

「あらあら、ごめんなさいね。どうも本当に有難うございました」

すっきりとした笑顔に戻って、お嫁さんは立ち上がった。


仏壇の前に座ると、お嫁さんが線香をつけるために蝋燭にマッチで火をつけてくれる。

私はお婆ちゃんの遺影の前に立ててある線香立てから線香をつまみ出して、

火をつけようとして固まった。

お婆ちゃんの遺影の後ろに飾ってある男の人の遺影に気がついたからだ。

私がじろじろと見入っていると、お嫁さんが気がついて私の見ている先を覗き込んだ。

「ああ、それはおばあの旦那さんの写真なの。戦争で若くして亡くなったんだけれど、

 あれだわよね。真備ちゃんのお父さんにそっくりでしょう?

 真備ちゃんがお父さんとこの町で暮らしている頃は、良くおばあと言ってたのよ。

 真備ちゃんのお父さんは、おばあの旦那の生まれ変わりに違いないってね。

 だから他人のような感じがしなくて、いつも真備ちゃんにお菓子を上げるんだって」

そう言うと、お嫁さんは思いついたように台所へ行った。

私はただ呆然と、あまりに似すぎているその遺影に見入り、

お線香に火をつけるのも忘れていた。


 同じ箸立ての箸。


私は確信していた。死んだ父親は、お婆ちゃんの旦那さんの生まれ変わりだと。

私たちは同じ箸立てというグループの仲間なのだろう。

輪廻は仲間どうしの間で行われるのだ。




お嫁さんが何やら手にして戻ってきた。

「もうそんな年でもないかもしれないけど」

少しはにかんだ様子で、お嫁さんは私に手を差し出す。

それはせんべいとチョコレートだった。

でも昔とは違い、ティッシュに包んであるのではなく、

スーパーの袋に入れられた一袋ごとのものだったけれど。

「有難うございます」

私は素直にお礼を言った。




帰り道、私は辺りを必要以上に見回していた。

だって、こうしている間にも、

死んでしまった父親は、そして私を生んで直ぐ死んだ顔も良く知らない母親は、

同じ箸立の仲間として、どこかで生まれ変わっているかもしれないのだ。

私にすぐ見える近くで。



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