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鬼録   作者: 小室仁
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せんべいとチョコレート 3

考え続けた挙句、私的な解釈として「良心」というものは、

常識的に良いと思える行動への、

自分ではどうしようも止められない衝動だと納得した。


でも、この件に関しては、

はっきり言って面倒くさいし、関係ないし、

それこそ目の前で電車に飛び込もうとしているのなら別としても、

もう死んでしまった人だと言うのでは、

生きているそれも他人の私が腰を上げて改めて何かをするってのも、

どうかと思うし。

お婆ちゃんの伝言を伝えてあげたい気持ちもあるのだけれど、

一銭の得にもならないのだ。

私が出会う全ての亡霊の頼みごとを、いちいちボランティアで叶えて歩いたら、

飲まず食わずで私の一生を捧げても足りないだろう。


世に良く言うように、私は自分の良心と戦った。

そして勝った。

案外良心など、もろくも己の我の前には崩れ落ちるものだ。

「面倒くさいという我」の前には、

「伝えてあげたいという良心」など赤子の手を捻るようなもんだ。

だから私はこの問題は、このまま放っておこうと思った。


アパートの窓を開けて、

冬の夜中の凍るような空気に煙草の煙を吐く。

息のものとも煙草のものとも区別のつかない白い塊は、

ゆらゆらと黒い空へと上って消える。

人の命と一緒だな。あたしは心の中で呟く。

どこへ行くのだろう。誰も分からない。


煙は見えなくなっても存在自体は消えない。

分子になり原子になり、

消えて見えない姿となったまま空に彷徨い続けるのだ。


人も同じだ。


生きている、死んでいるという言葉の差は、

生きている人間から見たものだけ。

生きていても彷徨うけれど、

死んで荼毘に付され、

人に見えなくなった煙の分子になっても、人はどこかへ行くしかないのだ。






ふと気がつくと、見覚えのある小さな姿が、

ベランダの手すりの上で凍えて震えているのに気がついた。

「あれ、アカ。どうしたの?寒そうね」

赤い鳥のアカが、冷たい鉄の手すりの上で羽を風船のように膨らませて丸くなりながら、

恨めしそうに私を見ていた。

「一度外へ出てしまえば、私は招かれなければ家の中へ入ることが出来ませぬので」

少しふくれっつらの感じで、アカは言う。

するとこの二日間、お婆ちゃんが私の部屋に居座ってからというもの、

アカはこうして真冬の外で、暮らしていたようだった。

アカのことは勿論、窓の外を見るのも忘れるくらい、

実は私は背中越しのお婆ちゃんの存在を気にしていたようだ。

「悪い、悪い。入りなよ」

私は言ってアカを家の中へ招き入れた。


 けれど心の中で、舌打ちした。

血統書付きのペットでもあるまいし、

いちいち妖怪を家の中に呼び込むわきゃないじゃん。

私の表情に気づきもしないようで、飛び込むように羽ばたいて部屋の中へ入ると、

アカはぶるっと羽を一振りして人の姿へと化けた。

「いやー、いくら毛を着ていると言っても、

 真冬の夜の冷気は身にしみるものでございますよ」

お馴染みの紺色の着物を着て頭巾を被った女が、

暖房の効いた部屋の中に入ると、嬉しそうな声色を隠さずに時代錯誤な言葉で言った。

私は背中越しに窓を閉めると、今日の後味の悪い出来事を消すための酒飲みの相手を、

この鳥の妖怪にすることに決めて、にやりと笑って思いついた意地悪なアイデアをそのまま口にした。

「アカ、今からお婆ちゃんの家に行って冷蔵庫から酒を持って来て」

頭巾の下からアカが私を見る。

「え、かつ見様のところでございますか」

アカが怯えたような口調になって言った。

「そうよ、家は分かるでしょ?入り込めない?」

「無理でございます。私は招かれないとその家には入れませんと今申したばかりで・・」

ふむ、と私は腕を組んでアカの前に座った。

 

 普通の家でも入れないのなら、アカにお婆ちゃんの家に忍び込むのは無理かと思い直す。

お婆ちゃんは私の何十倍も霊能力があって、なおかつ修行をした人だ。

そして、あの家には私ですら相性の悪い白猫のお婆ちゃんのシキ、ビャクもいる。

アカなんてきっとビャクの前ではコテンパンだろう。ぱくりと食われてお終いに違いない。

だけど、金の無い夜中の今、私が酒を仕入れられるとしたらあの家しかないのだけれど。

発泡酒で思考の濁った頭を振り絞り、どうにか算段出来ないか考えた。

「しかし、知らない通りがかりの人間を襲って金品を奪い取り、

 その金でコンビニで酒を買って来ることは出来まするが」

まるでいい案を思いついたかというように、アカが張り切って言った。

「・・・馬鹿、それは駄目」

一瞬躊躇した自分が怖い。

「何故、駄目なのでござりますか?かつ見様の家は良くって、

 どうして見知らぬ他人を襲うのは駄目なのでするか」

「他人から物を奪い取るのは、最低の事よ」

・・・いや、身内の家から盗むのも悪いことなんだけどさ。

この言葉は黙っておく。

「力の強いものより、弱いものから搾取するのが人間の世の習いだと、

 私は悟っておりまするが?」

鼻息を荒くしてアカが言う。頭巾の下のまぶたの妙に薄い赤い目が大きく見開く。

私は直ぐに言い返す事が出来ず、大きくため息をついた。


妖怪から見たら、

自分よりも遥かに力のあるお婆ちゃんから酒を盗むよりは、

見知らぬその辺の弱い人間を襲って、その金品で酒を買った方が楽だと。

それはそうなのかもしれない。

実際、今の人間社会でも強者が弱者を搾取するのは、

社会的に日々当たり前に行われている事だし。


遥か大昔から今まで人間の世界で生きてきた妖怪にとっては、

それこそが私たちの世の真の流れだと思うのだろう。

だって、昔も今も、変わらない。

何処の国でもなんでも、それは変わらない。

だけど、私までもがそんな事を手下の妖怪に命令してしまうとしたのなら、

私は一体どんな存在になってしまうというのだろう。

私はただ日々、平凡に平和に暮らしたいだけ。普通の人間でありたいのだから。



「酒はもういいや。お茶入れて」

私は諦めてアカに命じた。

少し腑に落ちない顔色ながら、アカは従順に従って狭い台所のガス台に歩み寄ると、

水道からやかんに水を汲んで火にかけた。



アカの入れてくれたほうじ茶を飲みながら、

私はぼつぼつとお婆ちゃんの話をしていた。

醒めかけの発泡酒の酔いのせいもあったかもしれない。

そして、私は聞いた。

「どう、思うよ?あんたなら、お婆ちゃんの気持ちを伝えに行く?」

結局、私は自分の良心に勝ちきれていなかったということなんだろう。

気になってしょうが無かったということなのだ。

アカは正座した姿勢を崩さず、啜っていた茶碗を置くと、

被った頭巾を直して少し上目遣いに私を見て言った。

「真備様、私には人間の情の細かいことまでは良く分かりませぬ。

 ただ私に言えるのは、この世の人間の縁の仕組みは、

 箸立てに詰められた箸のようなものであるという事だけ」

「箸立ての箸?」

思わず、素っ頓狂な声で聞き返してしまう。

アカは頷いて続けた。

「ぞんざいに突っ込まれている箸同士でも、

 かつては対になり使われていたこともあるということです。

 この現世の人間達というのは、

 そういった箸立のいくつも集りでござりまする」

「箸立の集まり?」

非常に分かりにくい例えで、とんちんかんに思いながらも、

私はアカの次の言葉を待ってみる。

だって、今の時代に箸立てが食卓の上にある家がどの位あるんだ。


でも確かに昔、お婆ちゃんの家に父親に預けられて通っていた頃、

そこの食卓の上には箸立があったのを覚えている。

その時は、家族の箸もそれぞれ取り立てて決まっているわけではなくて、

同じ柄のたくさんセットで売られているような細い箸が、何本も突っ込まれていて、

食事の時には、そこから二本づつ自分で対を取り出して使ったものだった。


「人間は特殊でございまする。真備様を目の前にして恐縮でござりまするが、

 人間はいつも、目の前にある真理に気づかず、

 一度己の身を通じて知った事実ですらすぐ忘れてしまいがちでございまする。

 かつて一対の箸であったというような縁を、

 妖怪ならば生まれ変わっても決して忘れはしませぬ」

私はアカの言葉を心の中で反芻した。


対で使われたことのある箸。

ある意味、凄く意味深で重い言葉である上に、気持ちの悪い言葉だ。

私たち人間がもし箸だとすれば、側を通り過ぎる他人との縁は、

私たちの理解を超えた誰かが一食たべる間、箸として対になったということなのか。

そして、ただ単にそれを忘れてしまっているだけだというのか。


例え、たった一度ひと時を一緒に仕事した間柄だとしても、

自分が知らないだけで、実はそれきりと思われていた関係が、

その後二度と会わないにせよ、箸立という同じ場所に常に戻るのは一緒だとしたら、

それは自分が思っているよりも重い関係なのではないだろうか。


「一体、どういう意味なの?」

混乱してしまった私は、アカに怪訝な顔をして聞き返す。

「人間の世で、関係の無い者同士は、

 決して出会うこともないということでござりまする。

 星屑ほどの命がひしめき合うこの混沌の中で、お互いが側に来るということ自体が、

 生きているもの同士では奇跡に近い確立なのでございまする。

 さすれば、どんなに些細な間柄でも一度出会ったとするならば、

 それは深い縁により結ばれし関係によるもの。まあ、私の例えで繰り返し言いますれば、

 同じ箸立の中で今生を暮らしている間柄ということになりますでしょうな。

 同じ箸立の中にいるから、知り合える。他の箸立の箸とは到底、

 知り合えませんでしょうからな」

うーん、と私は頭を抱え込んだ。

「物品、肉骨の質を超えた真理を、気にするも気にしないも、理解するも理解しないも、

 後は個人の心の器量次第。それが人として生きるというものでござりましょう。

 それがすなわち、かつ見様の言う人間の俗世での修行にも通じるというわけでござります」

「ふーん」

私は訳が分からないながらも、アカの言うことに、

自分で納得する細い道筋を見つける。


ようは、こういうことなのか。

どんな些細な関係の人間であれ、縁があるのだから、

その人を助けよと。それが人として生きる正しい道であり、

それをすることが、最終的には自分に返ってくるのだから、

消して人を助けるためと奢ってするものではないのだ。

仲間を助けるのは当たり前だと。


「ある意味、この世で生きる人間の正しいあり方って凡庸なのね」

私の、精一杯の皮肉のつもりだった。

アカは笑った。

「真備様、凡庸は本有に通じるのでございまするよ」



私は立ち上がると、寝るために隣室のベッドに向かった。

「禅問答はもう結構。分かったわよ。明日お婆ちゃんの言葉を伝えに行くわよ」

私が言うと、

「私はこちらで休まさせて頂きます」

アカは暖房のタイマーを手馴れた様子でかけながら、座布団を二枚並べて言った。

私は背中越しに了解と手で合図すると、アカを見もしないで襖を閉めた。

ベッドにもぐりながら、私は大きいため息をつく。


この世は、考えてもしょうがない事が多すぎる。

色々、色々。

「まず手始めに不思議なのは隣で寝ている妖怪だ」

呟いて、私は寝返りを打ったのだった。





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