おくろ 2
秋の日差しの中で、毛糸のカーディガンの腕をまくりながら、
私はその日も一人で遊んでいた。
庭は広かったので、その猫に気がつくのは大分だってからだったと思う。
「ちょいと、かーぶーせ」
歌い終わってふと顔を上げると、その猫は少し離れた場所にいたのだった。
「変な猫」
第一印象の言葉を、そのまま子供らしい無邪気さで、
私は口に出した。
それも無理はなく、
真っ白い猫なのだけれど鼻の下にえらく大きな黒い模様が丸くあるのだ。
変な言葉で表現してしまえば、馬鹿でかい鼻くそをくっつけているかのように見える白い猫。
「変なの」
もう一度言うと、私はその猫から目をそらし背中を向けて、
また一人遊びに戻っていったのだった。
「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ・・・」
また何回か繰り返し一人で鞠遊びをした後、
私はまだそこにいる猫に気がついた。
猫は木漏れ日のちらちらと光る木陰で、きちんと四本の足を揃えて、
じっと私の方を見ている。
それこそ、食い入るようにといった表現がぴったしなくらい、
猫は私を見ていた。
一体、何だってそんなに私を見ているのかしら。
子供心に、猫に対する不審な気持ちが沸いて、
私もその猫をじっと見続けた。
猫は何か言いたげに目を細めてにゃおんと鳴いてみたりするのだけれど、
勿論猫の言葉が分かるはずも無い私は、首を傾げて猫に見入るだけなのだった。
それからさわやかな初冬の晴れ間の続いた日々のしばらくの間、
その鼻の下にでっかいほくろのある猫は、毎日のようにそこにやって来て、
私が鞠で遊ぶのを眺めていたのだった。
その猫がやって来なくなったのは、どれくらい経ってからだろう。
毎日そこにいることに慣れてしまっていた私は、
ある日突然姿を見せなくなった猫がとても心配になった。
鞠を持ったまま近所を歩いて、その辺の茂みや藪をかがんで覗いたり、
「・・・くろ、くろ」と声に出して探してみたりした。
勿論、くろというのは内気な私の遠慮した呼び声で、
本当は「ほくろ、ほくろ」と探したかったのだけれど、
通りすがる他の人達に変な目で見られるのが嫌で、
くろと呼んでいたわけなのだ。
しかし、日が暮れるまで探しても猫の姿は見つからず、
私は諦めてその日は帰ったのだった。
その猫が、行方をくらましてすぐ次の日だっただろうと思う。
やはりその日も私は庭先で鞠をついて、あんたがたどこさで遊んでいた。
すると、突然ガサガサッと庭の潅木の茂みが揺れて、
と同時に何やら素っ頓狂な声が飛んできたのだ。
「あんたよか鞠持っとるじゃなか。ちょっと貸してばい」
きょとん、として私は声のする方を見た。
すると、いつの間にか入ってきたのか、
一人の少女がすぐそこに立っていたのだ。
白い毛糸のワンピースを着て、髪をお下げに縛っている。
この辺では見たことの無い少女だった。
言葉に聞いた事の無いようなイントネーションがある。
一体、どこの子なんだろうと思って顔を見た瞬間、
私は目を見開いたのだった。
あの、鼻の下の大きなほくろ!
見覚えがあるどころか、私は確信した。
この間までそこで座って私の鞠をつくのを見ていた、あの猫の化身に違いない。
「私の故郷では、その歌の終わりは違う風に歌うとたい。
最初の頃は一緒ばってん、最後は『それば漁師がテッポで撃ってさ
煮てさ食うてさうまさがさっさ』って歌うとたい。もとは私の故郷の歌なのたい」
無邪気に目を細めて言う少女の顔は、やはり人間と言うよりは獣くさい感じが拭えない。
そして楽しそうに言いながら、じりじりと私に近づいてくる。
このまま口をきいてはまずいような気がして、私はきつとさんに助けを呼ぼうと屋敷を振り返った。
「怖がることはなかでしょ?今までだって、私鞠が欲しかったばってん、
何もあんたにせんかったでしょう?」
その少女は言った。
確かに、そういわれてしまえばそうなのだと私は思いとどまった。
猫の姿をした妖怪と、人間の姿をした猫の妖怪とはどっちも一緒ではないか。
猫の姿をしていたときは怖がらなくて、どうして人間の姿をして話しかけて来たからといって、
今更怖がる必要があるのだろうか。
私は黙ったままだけれど、その少女の方に向き直った。
「あんた、名前は?」
その少女が聞いてくる。私はごくりとつばを飲んでかすれる声で答えた。
「名前を聞くときは、先にそっちが言うもんじゃないの?」
すると、その少女はどこか猫の鳴き声のような「にゃにゃにゃ」といった感じの声で笑いながら、
「よかわよ、私の名前は”おくろ”たい」
私は笑い出したいのをようやくこらえた。
”おくろ”って。
絶対”ほくろ”の間違えだろうと、心の中で叫びながら、
約束は約束なので、私も名乗った。
「真備だよ」
その日から、おくろは毎日のように遊びにやって来た。
おくろの故郷のやり方の「あんたがたどこさ」も教わったし、
故郷の言葉もいくつか教わった。
ある日、おやつを持って来たきつとさんが、
私がおくろと遊んでいるのを見つけてしまった。
妖怪なんかと遊んでいて怒られるかとひやひやしていると、
おくろがきつとさんが持って来たおやつを見て無邪気に、
「いっちょはいよ」
言って手を差し出した。
それは芋をふかしてバターを乗せたものだった。
きつとさんはしばらく無言でおくろと私を眺めていたかと思うと、
縁側に皿の乗ったお盆を置いて黙って去って行ったのだった。
「怒られなかった」
ほっとして呟くと、おくろは不思議そうな顔をして、
「別に何も悪いことしとらんと、はりかかれるわけんじゃなかの」
悪いことをしていないから、怒られるわけが無い。
言われてみればもっともで、おくろのきょとんとした顔を見て私は笑ってしまった。
おくろのおかげで、一人で過ごす時間が楽しいものになったのは否めなかった。
私はいつの間にか、おくろが来るのを今か今かと待つようになっていたのだ。
楽しみに待つものが出来ると人間というのは現金なもので、
一日のうちにするべき事や、しなきゃいけない物事も前ほど嫌に思わなくなるものだ。
幼稚園で一人きりでぽつんと過ごすのも前ほど嫌に思わなくなったし、
その上、おくろがやって来る時間が少しでも早まりはしないかと、
自分から進んで朝早く起きて、幼稚園に行く支度をしたりしたものだった。
ま、そこは子供の浅はかさ。朝早く起きたって、夕方は早くはやって来ないのだけれど。
おくろはとても明るい、物怖じしない子で、
私はたくさんの事をおくろから教わった。
その中でも一番印象に残っていることは、
おくろが自分の鼻の下の不細工な大きいほくろを、
ちっとも嫌がっていないということだった。
「痛くも痒くもなかとば、どうしてそぎゃんに気にする必要があっと?
真備の悪いところは、痛くも痒くもなかもんば気にしすぎっところだ」
おくろと仲が良くなってしまえば、ほくろなんて全く気にならなくなっていたのは、
確かにそうなのだった。
出会ってから半年くらいが過ぎただろうか。
ある日、おくろはぽつりと言った。
「もう、遊びに来れんかもしれん」
「え、どうして?」
私は子供ながらに、おくろの言葉に驚愕して手が震えたのを覚えている。
「お母さんが死んでしもたとだ」
寂しそうに笑ったおくろの顔が、今でも忘れられない。
妖怪にも母親がいるんだと思いながら、でもどうして遊びに来れなくなるのか、
聞きたいことはたくさんあったけれど、
私はその日も普通に特別な挨拶をするわけでもなくおくろと別れたのだった。
そして、それきり、
おくろは私の前に現れなかった。
おくろが現れなくなって、三日目、
私は寂しさにとうとう耐え切れなくなって、地方の仕事から帰ってきたおばあちゃんに、
おくろの話をした。
白い猫で鼻の下に大きな黒いほくろのある猫の化身であるということ。
ちょっと変わった訛りのある言葉をしゃべっていたこと。
毎日一緒に遊んでいて、寂しくてしょうがないということ。
優しく微笑んで私の話を聞いていたおばあちゃんは、しばらく考えた後、
思いついたように言った。
「ああ、三丁目の細川さんとこの猫だね。一人暮らしで白い猫を飼っていたよ。
そうそう、細川さんは熊本出身だったって言っていた。でも確か、先月亡くなったね」
私の頭を優しく撫でて、おばあちゃんは言った。
「細川さんは90歳を過ぎても元気だったんだけどね」
「おくろはどこに行っちゃったの?」
私が聞くと、おばあちゃん首をかしげて、
「誰か引き取ってくれたならいいけどねえ」
少し残念そうな表情で言った。
飼い主のいなくなった猫が、どういった運命をたどるのか、
私はその後迎えに来た父親に聞いた。
おくろはかなり年を取った老猫だったということ。
細川さんに他に身寄りと言えるものはいなかったということ。
野良猫で暮らしていくには、年を取りすぎているということ。
すると、必然的に「保健所」に行くことになっただろうということ。
幼かった当時の私は、その夜本気で保健所に行って火をつけるつもりだった。
そうすれば、檻に入れられたおくろは逃げ出すことが出来る。
私のもとへ逃げ出して来られる。
幼いながらに、私は本気だった。
保健所がどこにあるのかも定かじゃなかったけれど、
私はマッチの箱を手に夜中、
父親と暮らすアパートを抜け出したのだ。
どこをどう歩いたのかは覚えていない。
しかし、ふと気がつくと、
おばあちゃんの家の庭にいるのだった。
辺りは静まり返っている夜中、月明かりだけが煌々と庭を照らしていた。
「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ 船場さ 船場山には 狸がおってさ
それを漁師が テッポで撃ってさ
煮てさ 食ってさ うまさがさっさ
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ 船場さ 船場川には エビさがおってさ
それを漁師が 網さでとってさ
煮てさ 食ってさ うまさがさっさ」
おくろが、私のピンクの鞠をついて遊んでいた。
白い毛糸のワンピース、お下げ髪。
そして、いつも笑っているようなあの顔の鼻の下には、
愛着がたくさんあるあのほくろがあった。
「これから少し旅に出るから、明かりが必要たい。
その火ば頂戴よ」
おくろは言うと、私に鞠を渡し代わりにマッチの箱を手に取った。
「どこに行くの?」
私は寂しい涙をこらえて、ようやく聞いた。
私が誰かを思って泣きそうになったのは、
この時これが初めてだった気がする。
おくろは言葉を捜しているようで、首を傾げて考え込んでいたけれど、
そのうち、明るい表情になって言った。
「なーに、寂しかていう気持ちば忘れなきゃ、また会えるもんさ。
でも、人間は忘れっぽいから心配ばってんね」
そう言って、おくろは月明かりの下、にゃにゃにゃと笑った。
この後、どう私は家に戻ったのか、記憶に定かではない。
ただ、最後に見たおくろの笑顔だけは今もはっきりと覚えている。
あの鞠は、今も私の部屋の押入れの中にある。
そして、私は時々おばあちゃんの家の庭でぼーっと過ごすこともある。
それでも、まだおくろはやって来ない。
おくろの方こそ、今も私を覚えているのだろうか。
やがてまた私を訪れてくれるだろうか。
私の初めての友達。




