おくろ 1
母親を生まれると同時に亡くし、私は父子家庭で育った。
その家庭環境もさることながら、
生まれながらにして死んだ人が見えるという特殊な能力があった私は、
幼稚園の年小くらいの物心がつき始める年頃から、自分が他の人と違うという認識を持ち始め、
もともと内気な性格だったのが、ますます言葉少ない陰気な子供になっていたと思う。
そんな風だったから、いやいやながら通っていた幼稚園にも、家の近くの近所にも、
友達と呼べる子供の存在はなく、
父親が仕事に行っている間預けられていたおばあちゃんの家の庭で、
いつも一人きりで遊んでいたのを思い出す。
おばあちゃんの家に毎日預けられていたと言っても、
おばあちゃん自身はいつも仕事で日本全国を飛びまわっていたから、
家にいるということはまず滅多に無く、
がらんと広い家の中には、
今もまだ現役でおばあちゃんに仕えている「きつと」という、
年齢不詳のお手伝いさんと私の二人きりでいるのが多かった。
きつとさんは色白で大きな黒い目をしている。
そして、妙に赤い唇、肩までのおかっぱ頭。
着ているのは昔も今も、茶色い作務衣だ。
無口で無表情。まるで人形みたいな人。
歩くときも足音一つせず、背後に近づかれても気配を感じない。
しかし疑問なのは、きつとさんは一体いくつなのかということだ。
それは昔も今も答えの分からない大きな疑問だ。
おばあちゃんに聞いても、何だかはぐらかされてばかりだし、
従妹である五見もその妹の七見も、
五見達の母親でおばあちゃんの実の娘である人見叔母さんも、
きつとさんのことは詳しくは知らない。
ただ気がついたら、おばあちゃんの家に住み込みで仕えていたというだけ。
って、一体何年前からなんだ。
叔母さんの小さい頃からいたとすれば軽くもう三十年は経つはずなのだから。
十代にも三十代にも見える。というより、それ以上年上には見えない。
計算が合わないことこの上ない。
普通住み込みで働いて三十年以上経っていれば、最低四十半ばは過ぎているはずなのに、
きつとさんは下手をすると少女にさえ見えてしまう。
あの人18歳だよと言われれば、誰も別に疑いなく納得するに違いない。
最近私は思い始めている。そして一人で納得をしていたりする。
おばあちゃんに使えているという状況からして、
きつとさんは、普通の人間ではないのかもしれない。
おばあちゃんのシキの白猫ビャクの例もあるのだから、
彼女もシキで、そうすると人間ですらないかもしれないのだ。
そう思えば、納得する。
「ねえ、きつとさん、一体年はいくつなの?」
今度問いかけてみようかと、しばしば思うことがある。
直接本人に答えれば、きっと答えてくれるに違いない。
「それはあなたの価値観での年齢のことですか?」
あー、そんな風に聞き返してきそう。
「うん」
私が答えたら、
「800歳です」
なんて、無表情でさらりと言いそうだ。
そして、動きの少ない黒い目でじっと私を見て、
その口元からはチロリと先の割れた赤い舌が覗いたりするんだ。
と、ここまでのきつとさんに対する想像は、
まだ幼稚園に通っていた頃の幼い私の中には無かったのだけれど、
やはり何か不穏な印象を抱いていたのは間違いが無かった。
幼稚園のお迎えの時間になると、
園庭のフェンス越しにいつの間にか、きつとさんの顔が覗いていた。
作務衣を着ていることでさえ、何だか他の人達とは違うのに、
他の子供達が親の姿を見つけて歓声を上げ、親も大きい声で迎えの言葉を叫んでいる最中、
ただ黙って私がそちらへやってくるのを待っているきつとさんの無表情は、やはり子供心ながらにも、
どこかしら気味の悪い物があった。
つなぐ手にも、全く体温といったものは感じられず、
相当の冷え性か、それとも生きていないからなのではとさえ思えるほど冷たい手だった。
きつとさんは幼かった私に対しても常に無言だったので、
私もいつも無言だった。
そうして二人して黙ったまま、おばあちゃんの家へ帰ったものだった。
おばあちゃんの家は、今も昔も変わらず、
鬱蒼とした木に囲まれている大きく古い屋敷だ。
そして、これも今と変わらないのだが、
数少ないおばあちゃんの在宅時には、たくさんの来訪者がこの屋敷を訪れて来ているのだけれど、
おばあちゃんが留守の時は、ひっそりと静かで薄暗くがらんとしていた。
この頃には、まだビャクもいなかったので、
きつとさんと二人きりの広い屋敷は、
静か過ぎて今よりももっと不気味なところがあった。
家のいたるところに物陰があり、目の届かない暗闇があり、
そして、そこら中に何かしらの気配があった。
その気配は全て、おばあちゃんを頼って訪れてきた人たちが置いていった、
悩みや悲しみや苦しみの残骸だったり、またはそのものだったりした。
幼稚園から戻ると、私は毎日のように家の中に入っていくのをためらって、
玄関で立ち止まっていた。
その得体の知れない者達がうごめく暗い闇は、
決して直接自分に害をなすものではないと分かっているものの、
やはり見えるということ、分かるということは気持ちのいいものではないのだ。
明るい日の差す玄関でいつまでも立ちすくんでいると、必ずきつとさんがやって来て、
「大丈夫ですよ」
一言無感情な言葉を言うと、私の腕を引っ張って家の中へ入っていくのが常だった。
だだっ広いキッチンの椅子に座ると、
きつとさんは必ずおやつを用意してくれていた。
それはお餅の磯辺焼きだったり、みつまめだったり、
揚げたパンの耳だったり、その日によって違うのだけれど、
どれもきつとさんの手作りだった。
無表情で言葉の少ない人だったけれど、
あのおやつだけはとても美味しかったのを覚えている。
おやつを食べてしまえば、後は父親のお迎えが来るまで、
私は何もすることが無かった。
きつとさんは家の他の用事にかかっていたし、
一緒に遊ぶような友達もいなかったし。
テレビを見ても良かったけれど、一人ぽつんと薄暗い居間でテレビを見ていると、
何かに肩を叩かれたり、髪を引っ張られたり、
もしくはアニメの映っているテレビ画面の表面に、
何やら漫画とは関係の無いものまでが映りこむことも多々あったので、
私はそれを恐れて、明るい庭に出て一人遊びをしているのが多かった。
太陽の明かりというのは、偉大なるものだと本当に思う。
光は命の象徴なのだ。
光の中にいさえすれば、怖い思いはしない。
いっそ夜が無くなってしまえばいいのにと、子供の頃から何千回思ったことか。
でも、今の私は知っている。
夜があるから、昼間があるのだ。
死者がいるから生者がいるのだ。
逆の逆は正に戻る。
それが、この世の造りなのだ。
幼い頃の私はまだ恐れることしか知らなかった。
夕暮れが怖く、他人が怖く、
他の人と違う自分が怖かった。
生まれつき自分は孤独なのだと、
言葉も知らないうちからあきらめていた気がする。
だから一人遊びは、決して苦ではなく寂しくも感じはしなかった。
まあ、友達と遊んだ経験があまり無いから、
一人遊びが当たり前だったのだと言えば、そうなのだけれど。
覚えているのは、良く鞠をついて遊んでいた。
安いゴムのピンクの鞠。
そして、一人でひたすら飽きもせず、
「あんたがたどこさ」で遊んでいたのを思い出す。
あんたがたどこさ
肥後さ
肥後どこさ
熊本さ
熊本どこさ
せんばさ
せんば山には狸がおってさ
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ
焼いてさ
食ってさ
それを木の葉でちょいとかぶせ
「さ」で足の下にボールをくぐらせる。
そして、最後の「かぶせ」では、大きく鞠をついて、
地面に落ちる前にくるりとかかとを軸にして体を一回転させて、
落ちてきた鞠を両手で受け止めるのだ。
単純な遊びなのだけれど、運動神経が鈍いせいか、
私はなかなか上手く出来なくて、何度も最初から繰り返し、
いつまでも飽きずに遊んでいたのを思い出す。
そんな折、一匹の猫がおばあちゃん家の庭に迷い込むようになっていた。
今と同じくらいの季節。
夏が終わり、秋と言うよりはもう初冬かと思うような寒い時期、
その猫は初めて私の前に姿を現したのだった。




