欺瞞の家 了
「清志君、身近に必要な最小限度のものを、
素早くバッグに詰められる?」
清志が落ち着いたのを確かめて、私は早口で清志に話しかける。
「うん」
清志の目には、もう微塵も私に対する疑いの気持ちはない様だった。
「少しの間、この家を離れることになると思うの。分かってくれるわね」
この家で清志に行われている事は、児童虐待のほかならない。
清志を連れてこの家から逃げなければ。
きっと役所の福祉関係の所へでも逃げ込めれば、保護してくれるはずだ。
「でも、お母さんは?」
清志が小さな声で聞いてくる。
「お姉ちゃんと、僕までもがこの家からいなくなったら、お母さんはどうなるんだろう」
上目遣いの疑問。母を心配しているのだ。
自分がここまで痛めつけられていても、なおかつ母親の心配をするのか。
私はしばし言葉を失って、黙って清志の顔を見た。
豚の仮面を被ったあの母親は、
清志のこの体中の痣を見て見ぬ振りをしている。
たとえ、彼女が直接この痣に関わっていないにしろ、
一緒にこの家から連れ出すどころか、
清志をこの家から連れ出すことにさえ賛成するとは思えない。
「今はお母さんには黙って行くしかないの。
でも、清志君がこの家を出ることで、
きっとお母さんも最終的には助かることになると思う。
今の悪い夢から目が覚めて、もとの優しいお母さんに戻ると思うわ」
私は清志の薄い肩に手を置いて、出来るだけ安心させるような笑顔で言った。
清志は意味が分かったのか、小さく頷いた。
とにかく、簡単な着替えだけでもと、
私は清志を手伝って、近くにあったスポーツバッグに急いで荷造りをした。
子供部屋を早足で出て、弔問客のごった返す客間の方へ戻る。
そして一気にそのまま玄関へと通り抜けようと、私は清志の体を自分の背後に隠すようにして、廊下を小走りに走ろうとした。
「どこへ行く」
その時、辺りが静まりかえるほどの大きな声がした。
怒鳴り声と言ってもいいくらいの、大声。
いいや、吼え声といっていいくらい人間離れした異様な響きを持つ声だった。
私はびくりと足を止めて、清志を自分の背中の後ろに隠したまま、
その声を振り返った。
弔問客の群れがさーっと割れるようにして、声の主を前に送り出してくる。
それは喪服は着ているものの、あの鬼の形相をした義父だった。
どす黒い色をしたその顔の額から、二本の捻じれた角が突き出ている。
口は耳まで裂け、そこからは無数の犬歯のように鋭い歯がはみ出して生えていた。
私の顔をじろりと睨み付け、そして背中に隠しているのが清志だと分かると、
低くうめき声を上げた。
途端、くらりと私を眩暈が襲う。
己の感情にだけ支配されている義父が振りまいている瘴気が、
辺りにいる弔問客の黒い心の部分を煽っているのだろうか、
その人たちすらもがもはや人間の顔をしている人は一人として見えないのだった。
犬だったり狐だったり、獣と言ったほうがいい人たちの群れになってしまっている。
何故だろう。私は不思議に思いながら辺りを見た。
そして、危機感を覚えた。
気丈にいなければ。私は自分に言い聞かせた。
己の欲望、願望、ねたみや嫉妬、
それら負の思いだけに人間が囚われるのはとても簡単な事だ。
なぜなら、自分だけよければいいという気持ちはあっという間に伝染する。
「何故、清志を連れ出そうとしている?許可もなしに未成年を連れ出すのは、
誘拐になりますよ」
変にエコーの効いた声で、義父は私に近寄りながら言う。
その吐く息は生臭く、離れていても体の中身が腐っているような臭いが近くまで漂ってきた。
「あら、ごめんなさい」
ふと、聞き覚えのある声がして、
セーラー服の五見が私と義父の間に、足を滑らせてひっくり返るようにして転がり込んだ。
義父の足元に身をかがめて義父を足止めすると、五見は早く行けと私に目で合図する。
私は頷くと、清志の手を掴んで玄関のほうへ走り出した。
「どこへ行くっ!」
怒号の声。私は無視して清志と走った。
玄関のドアまでたどり着き、外へ出ようとした時、
ドアが目前でばたりと閉まった。
豚の顔をした女が、私と清志の前に立ち塞がったのだった。
「どこに行くの、清志?」
喪服を着た豚が口を開く。その口からは涎が一筋流れた。
私は清志を抱きすくめると、母親のいるドアから離れた。
「真備ちゃん!」
五見の叫ぶ声がする。
振り向くと、義父も五見を振り切ってこちらへ歩いてきている。
「清志君は、この両親に虐待を受けていますっ!」
私は切羽詰って、辺りに叫んでいた。
獣の顔をしている弔問客達がざわめく。
どうか、あなた達、この家に関係の無い人達は正気に戻って!
全ての思いを込めて、私は弔問客達に訴えた。
「清志君の体中を覆っている痣が証拠です!
亜紀さんもそこにいる父親の虐待を苦にして自殺したんです!」
清志や亜紀の人権を考えたら、こんな公衆の面前で言ってはいけない事だったのかもしれない。
だけど、私には他にどうすることも出来なかった。
「何をふざけたことをっ」
義父の姿をした鬼が、怒りの吼え声を上げた。
「真備ちゃんっ!」
再び、五見の叫び声。
何かを見つけたのか、五見は廊下に転んだまま緊迫した表情で、
今のこの騒ぎでこちらに集まり、もう誰もいなくなった亜紀の祭壇のある部屋を見ていた。
私は五見の見ている方を見て、息を飲んだ。
豪華な祭壇の前に、ぽつんと生前と同じ姿の亜紀が立っていた。
そして俯いたままだったけれど、彼女は真っ直ぐに右腕を上げて天井を指差していた。
何?
私は亜紀が指差している天井を見る。しかし、そこには何も無いのだった。
義父はもう私と清志のすぐ側まで迫って手を伸ばして来ている。
後ろを見れば、ドアの前に立ちはだかっている母親。
豚の顔をした母親と鬼の形相をした義父とに挟まれ、
私達の逃げる場所はジリジリとなくなっていた。
私は焦りを覚えて激しくなる心臓の鼓動をこらえると、
もう一度亜紀の指を差している場所に目を凝らした。
すると、白い天井のその辺りに薄っすらと筋が入っていて、
天井裏へと上がるための入り口があるのを見つけた。
そこに?!
「アカっ!!アカっ!!」
私は、次の瞬間叫んでいた。
「亜紀の指差しているところを破ってっ!!あそこに何かがあるっ」
途端、ヒュっと私の耳元を掠めて何かが風を切って飛んで行き、
祭壇の置いてある部屋の天井の一角に、
私に命じられ赤い弾丸と化した妖鳥のアカが突っ込んで行った。
バリバリッと物凄い音と埃、板くずなどの煙を上げ天井は崩れ落ちた。
弔問客が驚いて悲鳴を上げる。
「うおーーーーっ」
アカの壊した天井を見て、義父はわけの分からない叫び声を上げた。
そして続く、ドサドサドサーッという音。
何かが、まとまって落ちたようだった。
義父は天井から落ちてきたそれらに慌てて駆け寄り、両手で抱え込んで隠そうとする。
しかし落下物は、落ちた拍子にあちらこちらに散らばり、
それは弔問客の足元までに広がって散乱した。
写真だった。
たくさんの写真。
そのどれもが、亜紀と義父のものだった。
オートシャッターで撮ったものなのだろうか。
義父に組み敷かれ、泣いている亜紀の肌もあらわなものばかりだった。
一目で、異常だと分かる光景。
間違いなく、義父が力ずくで義理の娘を陵辱しているものだった。
それがたくさんのファイルにしまわれ、大きいダンボールの箱に入れられて、
天井裏に隠されていたのだ。
それぞれの足元に落ちてきた物を見ると、弔問客達はざわめいた。
しかし、そのざわめきは、
今までのものとはまるきり違うものだった。
私はその変化に気がついて、辺りを見回した。
先ほどまで獣の群れと化して見えていた弔問客達は、
再び普通の顔を持つ人間に戻っていた。
それぞれの人々の持つ良心が、亜紀のむごい写真を見て義父の瘴気に勝ったのだ。
私は清志の肩を強く抱きながら、そっと背後の母親を振り返った。
母親はドアの前に崩れ落ちるように座り込み、号泣していた。
そのだらりと力の抜けた手には、写真が一枚握られていた。
「立花さん、少しお話をお伺いすることになりますが」
ふと、凛とした声がする。
気がつくと、写真の山を抱え込んで座り込んでいる義父の側に、
あの刑事が立っていた。
その顔は青ざめていて、許せないという毅然とした感じで義父を見下ろしていた。
義父は声にならないかすれた悲鳴を上げて、刑事を見上げた。
その顔は、もはや鬼の形相ではなくて、
冷や汗をびっしょりとかいて刑事に怯えている、単なる人間の犯罪者の中年男性の顔をしていた。
「清志」
ふと声がした。
弔問客の中から一人が、私達に歩み寄ってきたのだ。
「大変だったね」
声が震えている。その顔を見て私は息を飲んだ。
亜紀にそっくりな中年の女性。
「姉さん、清志は私が預かります。いいですね」
震える声でドアの前に座り込んでいる母親にきっぱりと言い切ると、
その女性は私に深々と、頭を下げた。
「ご面倒をおかけしました」
「順子叔母さん」
清志が声を上げる。
その叔母さんが手を差し出すと、清志は素直に叔母の手にすがった。
「お母さん?」
清志が母親を振り返る。
母親は微動だにせず、清志を見ることも無くただ呆けたように泣いていた。
「真備ちゃん、行こう」
いつの間にか、五見が私の側に来てそっと囁く。
「え、だって」
「真備ちゃん、あの天井どう説明するの?」
早口で五見が言い、私も気がついて慌てた。
「どうしよう、あれ説明出来ない」
「だから、辺りがわさわさしているうちに帰ろう」
私は頷くと、そっとその場を離れたのだった。
「もう御用はございませぬか?もうございませぬのか?」
アカの素っ頓狂に陽気な声がする。
私と五見はそれを無視して、さっさと家路についたのだった。
帰り際、私はふと亜紀の家を振り返った。
急いでいたので、はっきりと見えたわけではない。
でも、門の脇に、
亜紀が立ってこちらに手を振っているような気がした。




