欺瞞の家 12
御通夜に向かう途中の駅で、五見と待ち合わせをする。
夕方のラッシュの改札口。
きょろきょろと辺りを見回していると、
セーラー服姿の五見が学生鞄を抱えて小走りに近寄ってきた。
人ごみの中でも、私が着ている上下真っ黒の喪服のワンピースは目立つらしい。
「真備ちゃん、お待たせ」
お通夜に備えるためか、制服の赤いリボンを襟から取り外して五見は言った。
耳を澄ますと、パタパタと鳥の羽ばたく音が上空でしている。
アカがついて来ているようだった。
亜紀の家まで、駅からの道を二人で並んで歩く。
「ねえ、人の顔がさ。豚に見えるってどう思うよ?」
私は歩きながら正面を向いたまま、隣を歩く五見に問いかけた。
「豚?」
五見が聞き返してくる。
「うん。亜紀のお母さんの顔が、初めて見たときから豚に見えてしょうがないのよ」
私は言って、五見を振り返った。
五見は少し黙って考えた後、
「人の顔が何らかの形を変えて見えるって言うのは、別に珍しくもないんじゃない?」
真っ直ぐに私を見て答える。
構え気味に五見の答えを待っていた私は、少し拍子抜けがした。
「だってさ、一般的に性格の悪い人は顔に出るなんていうじゃない?」
五見の言うことの意味が分かると、私は頷く。
「うん」
「ということはさ、多少なりとも誰にも彼にも、
その人の内面が、顔なり仕草なり表に映り出て見えているっていうことじゃん」
「あ、そうか」
「私達はそれが、他の一般の人たちよりもはっきりと具体的に見えるってだけなんじゃないの?」
相変わらず、冷静な物言いの五見。
「五見も、同じような経験があるの?」
私が聞くと、五見は頷いた。
頷いたものの、どんなものを見たのか説明をしようとはしない。
私は五見を覗き込んで、恐る恐る聞いた。
「それって、私の見た豚よりも醜いもの?」
「うん」
ぶっきらぼうな感じで五見は答える。
「獣に見えるならまだましだと思うよ」
私は五見の言葉に黙ってしまった。
一体、五見は今までに何を見たと言うのだろう。
私より四つも下の従妹。
五見が聞いてくる。
「人間が、どうして他の動物と違うと分別されるのか分かる?
畜生と人間は全く違うって、仏教でも言っているでしょ?」
私は首をかしげて、五見の言葉の意味を考えた。
どうして、人間が他の動物と同じではないか。
「人間様」なんて多少揶揄して世間では言っているけれど、
確かに私の感覚の中では、動物と私達は何か違う重大なポイントがあるような気がする。
所詮、猿から進化したのだから、人間だって動物に違いないと言われてしまえば、
何の反論も出来ないくらいの微弱な感覚なのだけれど。
でもそれは微弱ながらも、私の中では不動な感覚だ。
他の人もそうなのだろうか。
動物と人間は、存在自体が別物だと感じる。
でも何故なのかは、説明出来ないのだけれど。
「違うとは思うけれど、その理由までは分からないな」
私が答えると、五見は静かに続けた。
「他を思いやる心だよ。これがあるか無いかが人間と動物の違いなの。
種を守るための本能とかではなくて、
純粋に自分と違う相手を、自分の感情を殺しても思いやれる気持ち。
こういう特殊な気持ちを持つことが出来るのが、人間だけ。
心があるってことかな。逆に言えば、心が無いのが動物。
感情じゃなくて、心ね。
あくまでも、自分の為とか種のためとか、
感情とかのために、本能で生きてしまうのが動物なの」
五見の言葉を、胸の中で反芻する。
「思いやりの心か。なるほどね」
私は言って、しみじみと頷いた。
一見、使い古された陳腐な言葉に思えるのだけれど、
実際、そうぞんざいに思えるほど、私達は思いやりと言う言葉を意識しているだろうか。
使っているだろうか。
そう思うと、逆に今の自分から「他人を思いやる」というのは、
一番遠い言葉に感じさえしてしまう。
「動物は自分が殺されてまで仲間を助けようとはしないはずでしょ」
五見は言う。
確かにその通り。
最も人間的な犠牲の最近の例を挙げれば、
この間のロシアの小学校のテロでは、
何人かの教師は凶弾の盾になり自分の命を犠牲にして、生徒をかばったという。
まあ、それが実際に出来るかどうかは別として、
でも、私は私の中に、
その時の彼らがしたと一緒の行動が、
その時、同じその場にいたのなら、
同じように出来たはずだという可能性があるのを信じている。
それなんだろう。
そういった可能性を持てるのが、
人間という、生き物なのだろう。
逆に、それを除いてしまえば、
他は動物となんら変わらないということにもなるが。
でも、今のこの時代は、
テレビのニュースなんかを見ていると、
心が動物化、獣化しているような人たちがあまりに多い気がする。
人間の心は、一体どこに向かって進んでいるのだろう。
テロの人質になった子供を蹴り倒して逃げる教師しか、
この世にいない時代がすぐ目の前に迫っているような気がする。
驚くことに、
実際、テロなんて言葉を、私自身、
平々凡々な毎日を過ごしながらいるのに、
こうやって普通に、使うことは少し前なら全く無かった。
平気でテロという言葉になじめるというのが、
私を代表として、
人間の、劣化の流れというものなのだろう。
でも、私には、
自分の種の劣化を、嘆く暇は無い。
私は私という人間の劣化を、最小限に食い留めるよう努力するだけだ。
他にはかまっている余裕が無いというべきか。
自分が可哀想な人間にならないよう、
この命が果てる時まで努力するだけだ。
「真備ちゃんが、その亜紀さんのお母さんの顔が豚に見えるってのは、
きっと、お母さんの中に豚がいるってことなんじゃないの?」
五見が言う。
「え?どういう意味?」
私が聞くと、
「豚がいるってのは抽象的な表現だから、もっと具体的に言うと、
人間の心を忘れて、動物的に自分本位な気持ちになってるからじゃないのって意味」
「あ」
五見の言葉を聞いて、私は脳裏に何か走ったのを覚えた。
「そういえば、私夢を見せられたんだった」
「え?」
今度は五見が聞いてくる。
「あのね、昨夜、亜紀のお母さんが来た後、
そのまま酔いつぶれて畳で寝ちゃったんだけど」
五見の目つきが、急にじろりと呆れたように変わる。
私はそれを見ぬ振りをして、慌てて言葉を続けた。
「その時に見た夢が、確か」
私は記憶を巻き戻そうと、立ち止まって頭を抱えた。
「そうそう、確か清志っていう男の子が出てきて」
そう言葉を続けた途端、私は夢の全てを思い出した。
大丈夫だよ、お姉ちゃんが上手に謝っといて上げるから。
私ははっとして、五見の肩を両手で掴んだ。
「五見、亜紀ちゃんは義理の父親に性的虐待を受けてたの」
五見は驚いたように、目を見開く。
「亜紀のお母さんは、亜紀が義理の父親に性的虐待を受けてたのを知ってたの。
だけど、自分の今の生活を壊さないために黙ってた。今の恵まれた自分の生活を守るために。
だから、私の目に豚に見えて映ったんだわ」
私は納得して叫んだ。
「えっ?」
五見がわけが分からないといった感じで、驚く。
私は説明をした。
「亜紀が、夢の中で教えてくれたの。
亜紀の母親は若いころ金銭的にかなり苦労したみたいで、
この再婚をした後は、全くお金には不自由しなかったみたいね。
だから、離婚するのが怖くて、娘の亜紀が夫に性的虐待を受けているのに、
目をつぶっていたのよ」
「ああ」
五見も頷く。
「そういうことだったのね」
「それでね」
私は続けた。
五見が首をかしげて、私を見る。
「夢の中では、その弟の清志が」
五見の顔を見守りながら、私は生唾を飲み込んで、
今から言う自分の言葉に集中した。
「弟の清志も虐待を受けてるの。義理の父親に。
多分、自分が死んだ後も、亜紀が助けてと言ってたのは、
清志の事よ」
「ああ」
五見が間を置いて、頷いた。
「亜紀さんって人が、助けを求めてたのはそのせいね」
五見は冷静に言いながら、自分の言った言葉に寒気を覚えたように震えた。
「助けてあげなきゃ」
私が言うと、五見は頷いた。
夏の夕暮れの空気は段々と、
湿気を帯びた感じで、夜へと変わりつつあった。
でも、なんだか肌寒いのは、
決して気候のせいだけではなかった。




