欺瞞の家 10
幽霊の正体見たり、枯れ尾花。
自虐的に、心の中で呟いてみる。
鏡に背を向けて振り返った私の目の前に、亜紀は少し俯いた感じで立っていた。
さっきまで私の背中に覆い被さり、ずっしりとその体重をかけてきて、
髪の間から白目を見せてこちらをのぞき見ていたのは、
はっきりと今、この少女では無かったと言える。
やはり私の恐怖心と所以の無い猜疑心が、
ああいう勝手な幻を私に見せていたのだろう。
背に負ぶさり髪の間からこちらを睨むというような、
まるで例の映画の貞子みたいな怖い彼女の幻覚を、
私は勝手に己の心の中で作って、勝手に見て震えていたというわけだ。
死んでからずっと私の側にいて、
生前の何かを伝えたいと思っていた亜紀は、
勝手にわけの分からない何かを見て喚いている私を、
一体この人どうしたんだろうくらいに、思ったのではないか。
私は私の自制心の無さを、しみじみ思い知って反省した。
しかし、言い訳じゃないけれど、
幻覚も、自覚の無い場合はその人に取っては現実になる。
というか、人間なんて、
常にいつも安易に、幻覚と現実が区別つかなくなり得る生き物なのだ。
心に支配されているというのはそういうこと。
そうしてみると「病は気から」なんて言葉は言い足りていない。
「気=心」だとすれば、
病だけが心のせいなんじゃない。
全て。
人間に起きる良いことも悪いことも全て、実は心からのみ生じているのだ。
世に成功している人たちは、
自分の心の操り方を良く知っていて、それをちゃんと実行出来る人達だ。
自分に何かを言い聞かせるのは誰でもするだろう。
それは、人それぞれで、
私みたいに般若心教だったり、
はたまた家訓とか座右の銘とかそれぞれ違うけれど、
だけどそれを自分に呟くだけで、
自分の心を前向きに力強く保てるというのは、簡単な事ではない。
だって、言い聞かせなんてものは、本当は重要では無いのだ。
大事なのはその後。
自分が自分を克せるかどうか。
自分を克せる人は、
人として、強いと言うことなのだ。
人はいろいろな環境に生まれ、
それぞれの立場や状況は違うだろうけれど、
価値観の枠を超えた大きな目で見れば、
どんな場合であれ、自分との戦いを生きていくのはそれぞれが同じだ。
その自分との戦いに勝てるかどうかが、
人生の勝敗を決める要因なのだ。
金持ちになるとか、出世するとか、
そういった目先に最高と思える事が人生の勝因なのではなく、
実は、人生の勝因というのは、
結局、自分の心との戦いに勝つということだ。
大げさに言ってしまえば、
過程はどうであれ、
最終的に、死の間際に笑って死ねるかどうかと言うこと。
「ああ。いい人生だった」
そう思えて死ねる。それがその人生の勝者のしるし。
例えば、貧乏で一人きりでのたれ死ぬとしても、
強がりでなく、それで良かったと思える人生を送ったとしたのならば、
それは勝者ということなのだろうと思う。
あの人は生まれがいいからとか、恵まれているからとか、
他人の環境のみを見てそう思う人もいるだろうけれど、
いかに他人から恵まれた状況にあるような人であれ、
自分との戦いからは、誰一人として逃れられない。
それぞれがそれぞれのバトルフィールドを持っている。
そのバトルフィールドにいるのは、自分と自分の心二人だけ。
生きていくというのは、結局、
自分と二人だけで戦っていくと言うこと。
その苦しさ、大変さは、
その立場になってみないと他の人には分からない。
ただ、分かっているのは、
どの人も最初から楽勝で、
その戦いに立ち向かっていると言うわけでは無いと言うこと。
他の人たちと比べて、
私は不幸せだと思えるあらゆる要因に勝って、
私は私が幸せだと思える所以は、
私の人生において、私は戦うべき相手が、
結局は自分だと分かっていることだ。
だから、今日、
私は自分の心に欺かれてしまったというのは、
決して、自分に言い訳の出来るものではない。
今夜の出来事は、自分にとって黒星なのだ。
これ以上、自分に負けるな、真備。
いつか、寿命を全うして死ぬときに、
笑って「いい人生だった」と死ねるように。
「で、どうして欲しいの?何が言いたいの?」
私は目の前に俯く亜紀に、声に出して聞く。
亜紀は、ただ俯いている。
「黙ってちゃ、分からないでしょう?
生きてたって、死んでしまったって、
黙っていれば、何にも分からないのは一緒だよ?」
そうなのだ。
どこか常に、人は奢った感情を持っている。
言わなくても他人は分かってくれる、そういう感情。
そんなん、根っからの勘違い。
生きてても、死んでても、
結局、言葉を使って言わなければ、聞かなければ、
自分と違う体を持っている他人の事なんて、
誰も何も分かりはしないのだ。
亜紀はゆっくりと顔を上げると、
声に出ない言葉を言った。
タスケテ
でも、言い終わるか終わらないかのうちに、
彼女の姿は消えてしまったのだった。
「は?」
私は誰もいなくなった浴室の鏡の前で、立ち尽くした。
「何を、どうやって助ければいいのよ!!」
怒鳴ってみた。
だけど、亜紀は消えてしまったまま、
姿を現すことは無かったのだった。
私は途方にくれて、手に持った携帯に耳をつけた。
「消えちゃったよ、何も言わずに。ただ、タスケテって言ってた」
受話器の向こうで心配して待っていた五見に、
私は力の抜けた声で伝えた。
「明日、彼女のお通夜に行くんでしょう?」
五見は深夜にもかかわらず、同情のこもった声で聞いてくる。
「うん」
私が言うと、
「私も明日、一緒に行くわ。何かしら、助けられるかもしれないし」
この場合の五見の言う、助けられるというのは、
私のことだと分かりきっていた。
「悪いね」
私が言うと、
「別に」
声色はクールな五見に戻っていた。
「ま、しょうがないわね」
意地悪な言い方に、私はぶーっとふくれてみせたけれど、
実は真面目に、涙が出そうなほど、
五見の冷静な仮面の下の優しさに、打たれていた。
有難いのは、血を分けた肉親だ。
本当に、最後に頼れるもの。
「ありがとう」
そう言って、私は五見との通話を切った。
亜紀の通夜の明日は、
とんでもない一日になりそうだと、
私は覚悟を決めた。
それは予感ではなく、ひしひしと押し寄せる実感なのだった。




