欺瞞の家 8
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私は薄暗い廊下を歩いていく。
見下ろすと白いソックス、紺の制服のスカート。
高校生の制服だろうか。
襟元には赤いスカーフが見える。
五見の学校のものとは違う。
足はゆっくりと廊下を歩いていき、
そして立ち止まる。
がちゃり。
突き当たりのドアを開ける。
明かりもつけていない暗い部屋。
そこには、二つの勉強机がある。
その一つの前に、痩せた少年が俯いて座っている。
新品のブランド物のTシャツ、半ズボン、
綺麗に揃えられた襟元の髪。
弟の清志。
「お姉ちゃん」
清志がこちらに気がついて私を見て、泣きべそを顔に浮かべる。
おねえちゃんなのか、私はこの少年の。
私は寝返りをうった。
例の不意なお客さんを送り出した後、
畳でそのまま寝入ってしまったらしい。
頬にめり込んだ畳が、寝返りを打つと同時に、
ばりばりと顔から離れて音を立てる。
これは、夢か。
夢の中で、私は清志の姉になっているのだ。
でも一体、これは誰の夢なんだろう。
動かない体とは対照的に、頭の片隅で私は呟いている。
アルコールがはびこっている体を投げ出して、
私は別に抗いもせず、夢の続きに戻って行った。
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泣きべそが歪んで、清志が手を差し伸べてくる。
私は手を伸ばして、差し出されたその手をしっかりと握る。
「お姉ちゃん、テストがね、テストがね」
清志が大粒の涙をこぼしながら、私に訴えてくる。
薄茶色のプリント用紙が机の上にある。
それを拾う私。
ああ、また不合格だ。
あの人の決めた合格点の80点には、あと10点足らない70点。
決して、悪すぎる点数ではないのだけれど、
あの人には足らなかったと言うことは、やらなかったよりも悪いものになってしまう。
潔癖で完璧で、自分が何でも出来て当たり前の人間だから、
努力をしても目標に到達出来ない人間がいるなんて、きっと思いもしないんだろう。
私は心の中でだけため息をつくと、にっこりと微笑んで清志の頭を撫でた。
「大丈夫だよ、お姉ちゃんが上手に謝っといてあげるから」
「本当に?」
清志は涙が一杯溜まった目で私を見上げながら、小さく震える声で言う。
「うん、大丈夫だよ」
私は残っているありったけの気力を込めて、清志に優しくて明るい笑顔を見せた。
私の言葉に少し安心したように、清志は小さく息を吐く。
だけど、また怯えた表情に戻って聞いてきた。
「お姉ちゃんは怖い思いしないの?」
小学五年の弟には、いつも天使のような姉でいたい。
だってもう私は17歳なんだし、清志よりも6歳も上なんだし。
この子を守ってやれるのは、私だけなんだから。
「怖い思いなんてしないよぅ」
最後はおちゃらけて、私は清志の頭を軽くはたいて見せた。
私が盾になれば、清志は殴られなくて済む。
そう気がついたのは、ほんの最近の事だ。
もっと前から分かっていたら、
お母さんがあの人と結婚した三年前から分かっていれば、
清志は殴られなくて済んだのかと思うと、
何も出来ず清志が殴られているのを見ていた、
この三年間が悔しい。
私は制服からジャージー生地のワンピースに着替えると、
清志を残して部屋を出る。
シャワーを浴びるのだ。
あの人は、石鹸の匂いが好きだ。
汗臭いままでいると、ぞんざいに扱われた。
綺麗な体でいれば、まだそれはましなのだった。
廊下を歩き、浴室へ向かう。
お母さんは。
通りがかりに、ちらりと部屋を覗いてみると、
お母さんはあの人との寝室の大きいベッドに腰掛けて、
携帯で誰かと話していた。
「そんなことないわよ、稼ぎはいいけど愛想の無い人だし。
でも、二人の子持ちの私を貰ってくれたしねえ、
お金には不自由しない暮らしだからね。
幸せなのかもしれない」
新しく買ったブランドもののバッグを撫でながら、
お母さんは電話で話し続けている。
きっと、前働いていた職場の友達とでも話しているのだろう。
私が学校から帰ってきたのも気がつかない様子だった。
いつものこと。
お母さんは、あの人と結婚してからまるきり変わってしまった。
私たちの事に関心が無くなってしまったようだった。
ううん、違う。
私は分かっている。
関心はあるけれど、私たちと会話をするのが怖いのだと思う。
あの人と一緒に暮らし始めて、どういう風に私と清志の生活が変わったのか。
それが聞くのが怖いのだろうと思う。
やっと金銭的に裕福になった、自分の今の生活に疑問を持つことが怖いのだ。
お母さんがあの人と結婚するまで、
凄く苦労をして私たちを育ててくれたのを、私は知っている。
何人かの恋人と暮らした後に、弟の清志が生まれて、
その後も恋人たちはみんな去っていくだけで、
お母さんの暮らしを助けてはくれなかった。
今の私と同じ年で、お母さんは私を生んだ。
私の父親は誰だったのか、
それはもう今ではどうでもいいことだ。
私の物心ついた時、
すでにいつもお母さんの手は、
あかぎれていて血が滲んでいた。
そしてそれ以上に、心も。
私があの人にされるようなことなんて、
お母さんが私たちの生活費を稼ぐためには、
今まで数え切れないほどたくさんしてきた。
たまには家でもしていたし、
お店でも、路上でもそうやって、誰かの相手をしていた。
一日、二回三回、
一万円二万円のため、
そして、全ては私達を育てるため。
お母さんが一体、その時どんな事をしてきたのか、
今の私なら想像に苦労はしない。
だから、私は抵抗しないし、拒みもしない。
だって、
人は生きていくためには、
生活のためには、
少なからずとも嫌なことをして生きていくものなのだから。
そんなこと、私だけのことじゃない。
清志とお母さんが安全に毎日を過ごしていられるなら、
私に怖いものなんて無い。
殴られるのも、蹴られるのも、
あんなことをされるのも、我慢できる。
だって、大した事じゃない。
命までとられるわけじゃないんだから。
穏便に暮らすというのは、
実は大きなリスクを伴うものなのだ。
そのリスクは、もうお母さんには負わせたくない。
実を言えば、
もう後ろめたい気持ちでお母さんに接するのが、
耐えられないのだ。
これ以上、辛い気持ちで私たちと暮らしてほしくない。
じゃなければ、私は私が生まれてきた理由を探す続けることが出来ないから。
綺麗にお湯を浴び、綺麗に髪を乾かす。
私とあの人が、居間で『勉強』が終わるまで、
清志もお母さんも、いつも一歩たりとも自分の部屋からは出ては来ない。
私さえ我慢すれば、何事も丸く収まる。
だから、私はあの人が仕事から帰ってくるのを、
居間の真ん中で正座して、毎日にこやかに微笑み続けて待っているのだ。
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フラッシュ。フラッシュ。
眩しい。
天井に向かって上がる自分の二本の足。
畳の上にこすれて動く男の膝。
フラッシュ。
重複するシャッターを切るような鋭い機械音。
影と汗だけで出来ている覆いかぶさる顔。
じっとりと濡れている畳に押し付けられる私の体。
一人で力むあの人の濡れた髪が、滑稽な感じで空を踊る。
フラッシュ。
冷静に見つめると、
影も光も、もとは同じ一つの色なのが分かる。
フラッシュ。
光が消え、影が消えると、
後に残るのは紫色の残像。
残像の影に、悲しげな怯えている清志の目。
細く開けたドアから覗く目。
玉のような涙を浮かべて覗いている目。
私は慌てて起き上がって清志へと駆けようするのだけれど、
あの人に掴まれた乳房は痛いし、組み敷かれた足首にはどうしても力が入らない。
清志、怖がらないで。
だって、これは全部残像なの。
すぐ消える、残像なのよ。
ぐるりと視点が変わる。
強い風が私の頬を撫でる。
ここは、見たことのある場所。
あの少女が自殺をしたマンションの屋上だ。
時間はあの時、私が少女を助けようとしていたあの時だ。
私はまた駆け出している。
そして、少女の姿を見つける。
あの少女の姿は、フェンスの向こうで後ろ向きに手で柵を掴んでいる。
「真備様、あの少女はとてもおかしいですぞ。何やら不穏な気配がしまする」
アカが叫んでいる。
「あれはもはや人間ではございませんぞ!
自分の心を妖怪に食い荒らされてしまった抜け殻です!」
「え?」
私はフェンスまで近づくと、現実には聞かなかったアカの言葉に後ろを振り返った。
途端、とても強い力で両手を掴まれた。
驚いてフェンスの方に向き直ると、フェンス越しに少女が私の手を掴んでいるのだった。
その顔は無表情な顔から、またあの時見たような美しい笑顔になった。
輝くような笑顔。
しかしあの時と違うのは、
それは凝視している私の前で、見る見ると違うものに変わっていったのだ。
目は落ち窪み、鼻はただの黒い穴と変化し、
笑っていた唇は叫び始めて、顔の両方へと裂けていった。
そのもはや人間とは思えない恐ろしい顔は、
私の方へと迫って、耳もつんざける様な声で叫んだ。
タ・ス・ケ・テ!!!!!!
がばりと起き上がった。
私は畳に両手をついて、荒く息をする。
汗が髪を顔に張り付かせていて、それにもれず、
Tシャツといいジャージといい、
私は、体中がびっしょりと汗で濡れそぼっていた。
「一体、なんだこれ」
夢のイメージが強く頭に張り付いていて、
頭が重くて、押しつぶされそうだ。
時計を見る。
時間は午前一時。
あの少女の母親が帰ってから、数時間、
このまま畳の上で、缶ビールに酔いつぶれて寝てしまったらしいようだった。
部屋の中は暑いのに、私の体は自分の汗で濡れてぶるぶると震えていた。
突然、シーンとした夜中の一人の部屋に、
小さな携帯の呼び出しのベルが鳴った。
私はまだ荒く息をしたまま、携帯を探して部屋の中を彷徨う。
通勤鞄の中にちかちか光るランプを灯す携帯を見つけて、
引っつかむと私は呼び出しの主の名前を見た。
「真備ちゃん?」
五見からだった。
電話に出ると、いつもどおりの五見の落ち着いた声に、
私はさっきの夢から切り離されるのを感じて、ほっと息をつく。
「大丈夫なの?やっぱり心配で」
夕方に引き続き、今までには無い優しさ。
私は詰め寄るように、電話口で五見に聞いていた。
「一体、何をそんなに私の心配しているの?」
「真備ちゃん、もしかして気がついてない?」
私の疑問に、五見も疑問で返してくる。
「何が?」
私は半ば怒ったような口調になってしまった。
だって、分からなかったのだ。
たった今見た夢の内容や、その前に訪れてきたあの少女の母親の事なんて、
彼女には知る由もないのだし。
「鏡を見た?」
五見の冷静だけれど、心配な口調に私の心は一気に不安を増した。
途端、ずしりと肩の辺りが重くなって、
私は息を飲んだ。
首の辺りに違和感も生まれる。
サラサラと、何かが触るような感触。
そっと、目の玉だけを動かして、
肩に触っているものを見ようとする。
ちらりと、何かが見えて私は呻いた。
今日一日、五見が知っていて、
私が気がついて無かったものはこれか!?
私は携帯に耳を当てたまま、慌てて鏡のある浴室へと走っていった。
暗い浴室に入り、恐る恐る電気のスイッチに手を伸ばす。
パチリ。
小さな音を立てて、浴室はぱっと明るくなった。
つぶった目を、ゆっくりと開けて、
私は鏡に映る自分の姿を見る。
Tシャツの私の背中に、
俯いた少女が覆いかぶさるように、負ぶさっていた。
首にさらりと触っていたのは、俯く彼女の垂れ下がる髪の毛。
その両手が羽交い絞めのように私の首の周りに回っていた。
私は恐怖に息を飲んだ。
本当に恐ろしいとき、人間は悲鳴なんか出ないもんだ。
放り投げた携帯から、五見の声がかすかに聞こえる。
「真備ちゃん、真備ちゃん?」
「五見、なんとかして!」
浴室の壁が震えるくらいの大声で、
私は床に落ちている携帯に向かって叫んでいた。




