表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼録   作者: 小室仁
31/72

欺瞞の家 8

イメージ。


私は薄暗い廊下を歩いていく。

見下ろすと白いソックス、紺の制服のスカート。

高校生の制服だろうか。

襟元には赤いスカーフが見える。

五見の学校のものとは違う。

足はゆっくりと廊下を歩いていき、

そして立ち止まる。


がちゃり。

突き当たりのドアを開ける。

明かりもつけていない暗い部屋。

そこには、二つの勉強机がある。

その一つの前に、痩せた少年が俯いて座っている。

新品のブランド物のTシャツ、半ズボン、

綺麗に揃えられた襟元の髪。

弟の清志。


「お姉ちゃん」

清志がこちらに気がついて私を見て、泣きべそを顔に浮かべる。

おねえちゃんなのか、私はこの少年の。




私は寝返りをうった。

例の不意なお客さんを送り出した後、

畳でそのまま寝入ってしまったらしい。

頬にめり込んだ畳が、寝返りを打つと同時に、

ばりばりと顔から離れて音を立てる。

 これは、夢か。

 夢の中で、私は清志の姉になっているのだ。

 でも一体、これは誰の夢なんだろう。

動かない体とは対照的に、頭の片隅で私は呟いている。

アルコールがはびこっている体を投げ出して、

私は別に抗いもせず、夢の続きに戻って行った。




イメージ。


泣きべそが歪んで、清志が手を差し伸べてくる。

私は手を伸ばして、差し出されたその手をしっかりと握る。

「お姉ちゃん、テストがね、テストがね」

清志が大粒の涙をこぼしながら、私に訴えてくる。


薄茶色のプリント用紙が机の上にある。

それを拾う私。

ああ、また不合格だ。

あの人の決めた合格点の80点には、あと10点足らない70点。

決して、悪すぎる点数ではないのだけれど、

あの人には足らなかったと言うことは、やらなかったよりも悪いものになってしまう。

潔癖で完璧で、自分が何でも出来て当たり前の人間だから、

努力をしても目標に到達出来ない人間がいるなんて、きっと思いもしないんだろう。

私は心の中でだけため息をつくと、にっこりと微笑んで清志の頭を撫でた。

「大丈夫だよ、お姉ちゃんが上手に謝っといてあげるから」

「本当に?」

清志は涙が一杯溜まった目で私を見上げながら、小さく震える声で言う。

「うん、大丈夫だよ」

私は残っているありったけの気力を込めて、清志に優しくて明るい笑顔を見せた。

私の言葉に少し安心したように、清志は小さく息を吐く。

だけど、また怯えた表情に戻って聞いてきた。

「お姉ちゃんは怖い思いしないの?」


小学五年の弟には、いつも天使のような姉でいたい。

だってもう私は17歳なんだし、清志よりも6歳も上なんだし。

この子を守ってやれるのは、私だけなんだから。

「怖い思いなんてしないよぅ」

最後はおちゃらけて、私は清志の頭を軽くはたいて見せた。


私が盾になれば、清志は殴られなくて済む。

そう気がついたのは、ほんの最近の事だ。

もっと前から分かっていたら、

お母さんがあの人と結婚した三年前から分かっていれば、

清志は殴られなくて済んだのかと思うと、

何も出来ず清志が殴られているのを見ていた、

この三年間が悔しい。


私は制服からジャージー生地のワンピースに着替えると、

清志を残して部屋を出る。

シャワーを浴びるのだ。

あの人は、石鹸の匂いが好きだ。

汗臭いままでいると、ぞんざいに扱われた。

綺麗な体でいれば、まだそれはましなのだった。


廊下を歩き、浴室へ向かう。

お母さんは。

通りがかりに、ちらりと部屋を覗いてみると、

お母さんはあの人との寝室の大きいベッドに腰掛けて、

携帯で誰かと話していた。

「そんなことないわよ、稼ぎはいいけど愛想の無い人だし。

 でも、二人の子持ちの私を貰ってくれたしねえ、

 お金には不自由しない暮らしだからね。

 幸せなのかもしれない」

新しく買ったブランドもののバッグを撫でながら、

お母さんは電話で話し続けている。

きっと、前働いていた職場の友達とでも話しているのだろう。

私が学校から帰ってきたのも気がつかない様子だった。

いつものこと。



お母さんは、あの人と結婚してからまるきり変わってしまった。

私たちの事に関心が無くなってしまったようだった。

ううん、違う。

私は分かっている。

関心はあるけれど、私たちと会話をするのが怖いのだと思う。

あの人と一緒に暮らし始めて、どういう風に私と清志の生活が変わったのか。

それが聞くのが怖いのだろうと思う。

やっと金銭的に裕福になった、自分の今の生活に疑問を持つことが怖いのだ。





お母さんがあの人と結婚するまで、

凄く苦労をして私たちを育ててくれたのを、私は知っている。

何人かの恋人と暮らした後に、弟の清志が生まれて、

その後も恋人たちはみんな去っていくだけで、

お母さんの暮らしを助けてはくれなかった。


今の私と同じ年で、お母さんは私を生んだ。

私の父親は誰だったのか、

それはもう今ではどうでもいいことだ。

私の物心ついた時、

すでにいつもお母さんの手は、

あかぎれていて血が滲んでいた。

そしてそれ以上に、心も。


私があの人にされるようなことなんて、

お母さんが私たちの生活費を稼ぐためには、

今まで数え切れないほどたくさんしてきた。

たまには家でもしていたし、

お店でも、路上でもそうやって、誰かの相手をしていた。

一日、二回三回、

一万円二万円のため、

そして、全ては私達を育てるため。

お母さんが一体、その時どんな事をしてきたのか、

今の私なら想像に苦労はしない。


だから、私は抵抗しないし、拒みもしない。

だって、

人は生きていくためには、

生活のためには、

少なからずとも嫌なことをして生きていくものなのだから。

そんなこと、私だけのことじゃない。



清志とお母さんが安全に毎日を過ごしていられるなら、

私に怖いものなんて無い。

殴られるのも、蹴られるのも、

あんなことをされるのも、我慢できる。

だって、大した事じゃない。

命までとられるわけじゃないんだから。


穏便に暮らすというのは、

実は大きなリスクを伴うものなのだ。

そのリスクは、もうお母さんには負わせたくない。

実を言えば、

もう後ろめたい気持ちでお母さんに接するのが、

耐えられないのだ。

これ以上、辛い気持ちで私たちと暮らしてほしくない。

じゃなければ、私は私が生まれてきた理由を探す続けることが出来ないから。



綺麗にお湯を浴び、綺麗に髪を乾かす。

私とあの人が、居間で『勉強』が終わるまで、

清志もお母さんも、いつも一歩たりとも自分の部屋からは出ては来ない。

私さえ我慢すれば、何事も丸く収まる。

だから、私はあの人が仕事から帰ってくるのを、

居間の真ん中で正座して、毎日にこやかに微笑み続けて待っているのだ。








イメージ。


フラッシュ。フラッシュ。

眩しい。

天井に向かって上がる自分の二本の足。

畳の上にこすれて動く男の膝。


フラッシュ。

重複するシャッターを切るような鋭い機械音。

影と汗だけで出来ている覆いかぶさる顔。

じっとりと濡れている畳に押し付けられる私の体。

一人で力むあの人の濡れた髪が、滑稽な感じで空を踊る。


フラッシュ。

冷静に見つめると、

影も光も、もとは同じ一つの色なのが分かる。


フラッシュ。

光が消え、影が消えると、

後に残るのは紫色の残像。


残像の影に、悲しげな怯えている清志の目。

細く開けたドアから覗く目。

玉のような涙を浮かべて覗いている目。


私は慌てて起き上がって清志へと駆けようするのだけれど、

あの人に掴まれた乳房は痛いし、組み敷かれた足首にはどうしても力が入らない。

清志、怖がらないで。

だって、これは全部残像なの。

すぐ消える、残像なのよ。






ぐるりと視点が変わる。

強い風が私の頬を撫でる。

ここは、見たことのある場所。

あの少女が自殺をしたマンションの屋上だ。

時間はあの時、私が少女を助けようとしていたあの時だ。

私はまた駆け出している。

そして、少女の姿を見つける。

あの少女の姿は、フェンスの向こうで後ろ向きに手で柵を掴んでいる。

「真備様、あの少女はとてもおかしいですぞ。何やら不穏な気配がしまする」

アカが叫んでいる。

「あれはもはや人間ではございませんぞ!

 自分の心を妖怪に食い荒らされてしまった抜け殻です!」

「え?」

私はフェンスまで近づくと、現実には聞かなかったアカの言葉に後ろを振り返った。


途端、とても強い力で両手を掴まれた。

驚いてフェンスの方に向き直ると、フェンス越しに少女が私の手を掴んでいるのだった。

その顔は無表情な顔から、またあの時見たような美しい笑顔になった。

輝くような笑顔。

しかしあの時と違うのは、

それは凝視している私の前で、見る見ると違うものに変わっていったのだ。

目は落ち窪み、鼻はただの黒い穴と変化し、

笑っていた唇は叫び始めて、顔の両方へと裂けていった。

そのもはや人間とは思えない恐ろしい顔は、

私の方へと迫って、耳もつんざける様な声で叫んだ。


タ・ス・ケ・テ!!!!!!











がばりと起き上がった。

私は畳に両手をついて、荒く息をする。

汗が髪を顔に張り付かせていて、それにもれず、

Tシャツといいジャージといい、

私は、体中がびっしょりと汗で濡れそぼっていた。

「一体、なんだこれ」

夢のイメージが強く頭に張り付いていて、

頭が重くて、押しつぶされそうだ。



時計を見る。

時間は午前一時。

あの少女の母親が帰ってから、数時間、

このまま畳の上で、缶ビールに酔いつぶれて寝てしまったらしいようだった。



部屋の中は暑いのに、私の体は自分の汗で濡れてぶるぶると震えていた。

突然、シーンとした夜中の一人の部屋に、

小さな携帯の呼び出しのベルが鳴った。

私はまだ荒く息をしたまま、携帯を探して部屋の中を彷徨う。

通勤鞄の中にちかちか光るランプを灯す携帯を見つけて、

引っつかむと私は呼び出しの主の名前を見た。



「真備ちゃん?」

五見からだった。

電話に出ると、いつもどおりの五見の落ち着いた声に、

私はさっきの夢から切り離されるのを感じて、ほっと息をつく。

「大丈夫なの?やっぱり心配で」

夕方に引き続き、今までには無い優しさ。

私は詰め寄るように、電話口で五見に聞いていた。

「一体、何をそんなに私の心配しているの?」

「真備ちゃん、もしかして気がついてない?」

私の疑問に、五見も疑問で返してくる。

「何が?」

私は半ば怒ったような口調になってしまった。

だって、分からなかったのだ。

たった今見た夢の内容や、その前に訪れてきたあの少女の母親の事なんて、

彼女には知る由もないのだし。


「鏡を見た?」

五見の冷静だけれど、心配な口調に私の心は一気に不安を増した。

途端、ずしりと肩の辺りが重くなって、

私は息を飲んだ。

首の辺りに違和感も生まれる。

サラサラと、何かが触るような感触。

そっと、目の玉だけを動かして、

肩に触っているものを見ようとする。

ちらりと、何かが見えて私は呻いた。

今日一日、五見が知っていて、

私が気がついて無かったものはこれか!?


私は携帯に耳を当てたまま、慌てて鏡のある浴室へと走っていった。

暗い浴室に入り、恐る恐る電気のスイッチに手を伸ばす。

パチリ。

小さな音を立てて、浴室はぱっと明るくなった。

つぶった目を、ゆっくりと開けて、

私は鏡に映る自分の姿を見る。


Tシャツの私の背中に、

俯いた少女が覆いかぶさるように、負ぶさっていた。

首にさらりと触っていたのは、俯く彼女の垂れ下がる髪の毛。

その両手が羽交い絞めのように私の首の周りに回っていた。

私は恐怖に息を飲んだ。

本当に恐ろしいとき、人間は悲鳴なんか出ないもんだ。


放り投げた携帯から、五見の声がかすかに聞こえる。

「真備ちゃん、真備ちゃん?」

「五見、なんとかして!」

浴室の壁が震えるくらいの大声で、

私は床に落ちている携帯に向かって叫んでいた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ