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鬼録   作者: 小室仁
30/72

欺瞞の家 7

一体、誰にどうやってここを聞いてやって来たのかは、

定かではなかったのだけれど、

その例の服を着た豚が私を訪れてくるのは、

私には、なんだか分かっていた気がした。

失言を取り消すと、

その、私には豚のように見えてしまった女性というのは、

私の目の前で自殺してしまったあの少女の母親で、

病院で私の事を殺人犯だと思って掴みかかってやじっていたのだから、

遠からず、こうやって私を訪れてやって来ても不思議ではないと、

思っていたのだった。


もちろん、彼女はれっきとした人間で、

この冷静になった今なら、そう言える。

ただ、私の目にだけそう見えたと言うことだけのことなのだろう。

そして、今もそう見えるのだけれど、

今はもっと違う風に、自分の中で目の前に見える現象を、

昇華して取ることが出来た。

なぜなら、私はいつも正気と狂気の間で生きている。

それを今の私はきちんと把握している。

時々は、自分も他の人と違わない普通の人間だと錯覚して、

その理性のたがが外れてしまう時もあるのだけれど。


四本目のビールの缶を、靴箱の上に置くと、

私は一つ深呼吸して、部屋のドアの鍵を開け始めた。

鍵を外しながら、もう一度覗き窓から外を見る。

豚の洋服を着た妖怪は、今度は俯いていてその顔の様子を見ることは出来なかった。

「いきなり刺されたりして。洒落になんないな」

冗談とも本気ともつかない独り言を呟いて、

私は恐る恐る、ドアを開けた。

ドアが開くと、俯いていた顔が上がった。

その顔を見て、私は驚いた。

今まで見えていたような豚の形相ではなく、

普通の中年の、女の人の顔をしていたからだった。


その人は、面食らったようにドア越しの私を見ると、

何度か目をしばたいた。

まるで私が部屋のドアを開けたのが信じられないといった風情。

「あの、楠木真備さんでしょうか?」

怯えているような声で言った。

「はい、そうですけれど」

私の声も心なしか震えている。

「日中は失礼いたしました。私は立花と申します。

 昼間ご厄介をかけました、亜紀の母親でございます」

深々と、その人は頭を下げた。

上等な仕立てのベージュのワンピースの裾が、

頭を下げているその人の顔のあたりで夜風に吹かれて、

ふわふわと揺れた。

頭を下げたまま、その人は続ける。

「あの後、その時やはり現場にいたという人がお二人、

 楠木さんが亜紀を突き落としたのでは無いと警察に証言されまして。

 お一人は学生の方と、もう一人はサラリーマンの方でした」

はあ、と私は頷いた。

あの目線で会話をした学生と、携帯で119番と110番が上手くかけられなくて騒いでいた、

あのサラリーマンに違いないと私は思った。

なんていい人達なんだ。

どうやら、誤解は解けたらしいと知り、ほっとする。

あの場にいて、石を投げつけて私を昏倒させた人もいたけれど、

警察にわざわざ出頭してまで、私を助けてくれる人もいる。

やはり、人間はまだまだ捨てたもんじゃないのだ。

「亜紀はあなたに掴まれた手を振り払って、自分で飛び降りたのだとか。

 下からでも、はっきり見えたと証言されていました。

 本当に、申し訳ありませんでした。逆に止めてくれようとしていた恩人だったというのに、

 私ったら」

立花さんは、ようやく頭をあげたものの、後は泣き声に変わりつつある。


アパートの廊下は他に人影も無くて、静まり返っていた。

それぞれの部屋に人の気配はするので、やはり体裁が気になった私は、

大きくドアを引き開けると、

「どうぞ、狭くて汚い部屋ですけどお入りください」

立花さんを中へと招きいれた。

立花さんは一瞬戸惑った後、また深々と頭を下げて部屋の中へ入って来たのだった。





六畳と四畳半という造りの1DKのアパートなので、

台所に座ってもらうわけにもいかず、寝室とリビングを兼ねている和室の、

小さなちゃぶ台の前に立花さんに座ってもらった。

何か飲み物を、と考えて冷蔵庫の前に立ったのだけれど、

生憎、飲みかけのポカリスエットとトマトジュースしかない。

冷蔵庫の中の、山とある缶ビールと発泡酒をしばらく眺めて、

私はため息をつくとそのうちの一本を手に取り、

立花さんの所へと戻った。

「こんなものしかないのですけれど」

グラスに注いで差し出すと、意に反して立花さんは頭を下げてそれを受け取り、

なんと、一気に飲み干してしまった。

あっけに取られながらも、私はもう一杯お代わりをグラスに注ぐ。

それも立花さんは一気に飲み干した。

子供に先に死なれた親の気持ちはいかほどかと思うと、

私は心からの同情を抱いて、

何度も何度もグラスを酒で満たしてあげた。

そして、立花さんが口を開くのを黙って待ったのだった。



「何で、自殺なんか」

ぽろぽろとこぼれる涙を気にもせず、立花さんは口を開いた。

「本当に明るくて、賢くて、とてもいい子だったんです。

 まるで太陽のような子でした。

 死ぬほど何かに悩んでいたなんて、まるで思いもしなかったんです。

 私の再婚相手とも、別に問題なく仲良くしていたようでしたし」

私は別に何も聞きはしなかったのだけれど、立花さんは堰を切ったかのように、

話し始めた。

「あの子は、いつも笑っていました。

 本当にそれはそれは、我が子ながら天使のような微笑で、

 その笑顔を見ると周りの私どもは、いつも癒されていたものです。

 弟思いで、家族思いで、いつも優しさを辺りに振りまいているような子でした。

 なんで、何故、死ぬなんてこと」

嗚咽に言葉が飲み込まれる。

私は黙って、立花さんの気の済むまで泣き止むのを待つことにした。

ここでどんな慰めの言葉を言っても、立花さんの耳には届かないだろうと、

私は思ったのだ。

所詮、人間は、

自分の感情は自分でしか操ることは出来ないのだ。

そしてそれは、ままならないことの方が多い。


学校の成績もすこぶる良く、友達も多く、

テニス部に所属し、週末にはボランティアなどの活動にもいそしみ、

母親の再婚相手とも、まるで本当の親子のように打ち解けて、

小学校6年生の弟の面倒も良く見て、

亜紀さんは、まるで世に言う高校2年生の鏡みたいな少女だったという。

いつも笑顔の綺麗な少女。

それが何故、自殺なんか?

状況を聞いている私も、わけが分からなくなる。


「明日、亜紀の通夜になります。どうか供養と思って、ご足労願えますでしょうか」

俯いていた立花さんが、手持ちのハンカチで顔を拭って言った。

「ええ、勿論伺います・・」

言いながら、私はぎょっとする。

目の前に涙を拭きながら座っている立花さんの顔は、

再び醜い豚の形相に変わっていたからだった。


立花さんは頷くと、住所等を書いたメモを置いて帰っていった。

私は半ば唖然とした感じで、立花さんを見送った。

一体、顔が豚に見えると言うこの現象は何なのだろうか。




いつも笑っていた少女、亜紀。

そういえば、私の手を振り払ってマンションから飛び降りる一瞬前も、

確か綺麗に笑っていなかっただろうか。

見とれてしまうような、愛らしく美しい笑顔だった。


しかし、普通の人間が、

死ぬ間際に、にっこりと笑って見せるものなのだろうか。



誰だって人は、

いつも自分が一番傷ついていると信じているものだ。

だから、死ぬ前に誰かに笑って見せると言うのは、

異常だろう。

少なくとも、私なら、

自殺する前に、誰かを野次ることはしても、

誰かに微笑むなんて事はしないだろう。

それに、笑える理由があれば、

もう少し生きていけそうな気がする。


彼女のあの笑顔は一体なんだったのだろう。

死のうとしているその時も、

笑わずにいなければならなかったというのは、

一体何故?



立花さんが帰った後、

自殺した亜紀の現れるのを、じっと待った。

目の前に現れたら、あの時の笑顔のわけを聞きたかったのだ。


しかし、6本目のビールを飲み干しても、

彼女は私の目の前に現れなかった。

そのまま酔いつぶれて、私は畳の上で眠ってしまったのだった。



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