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鬼録   作者: 小室仁
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欺瞞の家 5

「通りすがりに事故に遭いまして」

職場のマネージャーに電話をした。

さっと事情を話すと、案外あっさりと今日のシフトを休むのを承諾してくれた。

しかし、どこまでマネージャーが私の話を信じてくれたかは分からない。


飛び降り自殺をしようとしている少女を止めようとして、

建物の屋上に駆け上がったはいいけれど、間に合わず目の前で飛び降りられ死なれてしまい、

その現場にいた野次馬に、お前が突き落としたんだろうと叫ばれて、

石を投げられたのが頭にぶつかり、

気を失ったところを病院に運び込まれたのです。


胡散臭い話、この上ない。

だけど、事実が胡散臭いからと言って、

それを隠すために軽い内容の、

例えば具合が悪いだのと欠勤理由に嘘をつくのは、もっと嫌だった。

事実は小説よりも奇なり。

いいや、奇なんかっていうもんじゃない。

私が面している事実は常に、小説なんかよりも胡散臭いのだ。

それが私の今まで生きてきた日常だった。

他人に疑われることには慣れているし、

変なやつだと思われることにも慣れている。

だから、マネージャーが私をどう思おうとも、

別に気にしないことにした。


『警察』の男たちは、何度も同じ話を聞いてきた。

その時、何をしていたのか。

どうして、マンションを上っていったのか。

助けようとした時の状況。

少女の落ちる間際の様子。

そして、その時の私の様子。

その後の私の取った行動。

その理由。

一体、どうしてなのだ。一体、なぜなのだ。

どうして、そうなったのだ。どうして、そうしたのだ。


しつこいくらいに、同じような単純な疑問を私にぶつけてくる。

その度に、私はいらいらとしながら、

同じような答えを言うのだった。


通勤途中、歩いていると辺りの人が見上げていたので自分も上を見た。

少女が高いマンションから飛び降りそうなので、思わず引きとめようとして上っていった。

走っていって少女の指を掴んだけれど、

少女が微笑んだ顔を私に向けたので、掴んだ指から思わず力が抜けてしまった。

その私の手を払いのけて、少女は飛び降りてしまった。

私は少女の飛び降りた恐ろしさで動けずに、そのまま屋上にしばらく立っていた。

少女とは面識は無い、初対面です。

その時一緒に階下にいた人達も、面識の無い人達です。

少女は何も言ってませんでした。

私も何も話しかけてはいません。

少女を突き落とすなんて、考えもおよびません。

私の事を「あの女が突き落としたんだよ」と叫んだ声の主も、

誰だか分かりません。


「どうして、君が突き落としたと叫ぶ人がいたのだろう」

『警察』が最後に言った。


どっちかっていうと、あの時のその声は人のものでは無かった気がする。

でも、そんな事を話してしまえば、ますます事を複雑にするだけだったし、

第一、聞かれた事の全てが誰でも分かるのならば、

それこそ警察なんてものがいらないのではないか。

多分私が怪しく見えたんでしょうね、

とでも言っていれば『警察』は納得したかもしれない。

でも、そんなこと言うのは全くもって願い下げだった。

私は、小さくため息をついた。


「警察さん、もうこれ以上お話することはありませんが」

疲れて頭を抱えながら、私はげっそりとして言った。

私に警察さんと呼ばれて、男はむっとした表情になり、

そして大きく息を吐き、立ち上がる。

「ま、後ほど家の方へ連絡することもあるかと思いますが、

 その時にはまた一つよろしくお願いしますよ」

多少投げやりな言い方で言うと、『警察』の二人の男たちは私のベッドから離れて行った。


両手でずきずきと痛む頭を押さえてうつむいたままいると、

ふと、黒っぽいものが視界に入って私は顔を上げた。

ベッドのシーツの端を掴む、小さな黒いごつごつした指を見つけたのだった。

到底、人間の手ではないであろう、

タバコの箱くらいの大きさの小さい骨ばった異様な五本の指が、

ベッドの端の白いシーツに食い込んでいた。

腐ったような色の黒い指の先には、灰色の細くて長いつめが生えている。

 何だ、これは。

強張って動かない体に鞭をいれて、

私はそれが一体何なのか確かめようと、恐る恐る体を伸ばして見入った。

途端、私の気配に気がついたのかヒュッと指はベッドの下に隠れる。

私は、ベッドの下を覗き見た。


血走った大きな目がベッドの暗がりの中で、私を見上げていた。

私は両手を自分の口に押し付けて悲鳴をようやく抑え、

慌ててベッドから身を起こした。

 何だ、これは。一体!

大きな禿げた頭をした、小さな子供くらいの大きさの黒い獣だか妖怪だかが、

膝を抱いて座りながらぎょろりと目を剥いて、私のベッドの下にいたのだった。

そして、私は思い出した。

あの少女が飛び降りた時、

少女のいた場所に立ってこちらをにやりと見た後、

後を追って飛び降りた同じような異形がいたでは無かったか。


さっきの人間の服を着た豚といい、今ベッドの下にいる化け物といい、

少女の飛び降り自殺現場でも、これの他に獣のようなものを見かけた。

一体何だというのだろう。

死んだ人の形すら留めていない霊などは、今までに確かに何度も見たことがあったけれど、

こんなに続けて、表現に困るような得体の知れないものを見たのは初めてだった。


だけど、さっきの豚で女の姿をしたやつなんてものは警察の人にも見えていたようだし。

それに、彼らはそいつをまるで普通の人間のように扱っていなかったか。

自殺したあの少女の母親だとか、言っていた。

ということは、あの豚の妖怪は、

彼らには取り乱しているだけの普通の母親という人間に見えるのだろうか。

それとも単にあれは少女の母親で普通の人間なのに、

私にだけ彼女の姿が、

豚が服着て歩いていたと見えていただけなのか。



「自殺した少女の錯乱した母親が豚に見えると言うことも、

 今ベッドの下に妖怪がいるのが見えると言うことも、

 とうとう私の頭がはっきりと狂ってしまったせい?

 見知らぬ少女の死を目の前にして、

 普段ようやく保って来ていた神経の糸が切れたっていうわけ?」

私はぶつぶつと小さく声に出して呟いた。


そうよ、だって私かなり今まで無理して来たもの。

自分が正気だと信じて生きることに、凄く努力して来たもの。

もうそろそろ、いいんじゃない?いい機会なんじゃない?

楽になるには。


愕然としながら、それでもどこか妙に納得しながら、

私はベッドの上で自分の肩を抱いて座っていた。

狂ってしまったのなら、それはそれでいいと思っていた。

これからもう、自分の存在を無理に肯定する必要も無くなるわけだし。


そんな風に、自分という人間から逃げる口実を見つけた私が、

急に現実に戻されたのは、また病室の入り口から声が聞こえたからだった。

今度は聞き覚えのある声。


「真備ちゃん、ちょっと大丈夫なの?」


病室の入り口で大きな声がしたと思うと、

腰までの黒いまっすぐな髪をたらした黒目がちの美少女が、

高校のセーラー服姿で飛び込んできた。

「飛び降り自殺少女を止めようとして、自分が落っこちかけたって?」

素っ頓狂な声。

「は?」

駆け寄って来る従姉妹の五見に、そう返事するのがやっとだった。

自分の気が狂ってしまったと、たった今認めかけたのに、

くるりと急に方向転換させられてしまって、戸惑ってもいるのだった。

「別に私は落ちかけてはいないけど」

五見が側へやって来ると、なるたけ平静を装って五見を見上げた。

五見はベッドの脇に立ち尽くしたまま私を黙って見る。

近くを見ているのに遠くを見ているかのような、彼女の不思議な焦点の視線。

私は自分にもそれが思い当たって、五見を見返した。

彼女は私の肩越しに何を見ているのだろう。


「大丈夫?」

五見はいつも通りの無愛想というよりは無表情な顔で、私に聞く。

「大丈夫も何も、軽い脳震盪なだけでぴんぴんしてるわよ」

私もなるたけ元気な声を出して、五見に答えた。

「ふーん・・・・」

五見は私の肩越しの何かを見つめながら、曖昧な感じで頷いた。

気になってはいるものの、何か凄く特殊なものに憑かれているとしたならば、

五見と同じような死者を感じる能力を持っている私自身が分かるはずなので、

私は、大したものなのじゃないのだろうと思い、あえてそれを無視した。

「どうして、ここに?」

明るく五見に聞く。

「真備ちゃんの間抜けなシキが学校まで迎えに来たのよ。

 あの、小さな赤い鳥よ。あのさ、良く言っておいてくれない?

 青い着物着て、青い頭巾被って歩いている人間なんて、

 今時どこにもいないでしょうよ。

 第一、赤い小鳥なのに青い着物って訳わかんないし、

 今度何かあって学校へ来るときは、違う格好しろって言ってよ。

 目立ってしょうがない。恥ずかしいわよ」

私は驚いた。アカが五見を迎えに行ったのか。


病室の入り口へ目をやると、扉の向こうで、

例の古風な青い着物が見え隠れしていた。

五見と一緒に病院にやって来たらしいアカは、

あの少女の飛び降りの場面で役に立てなくて怒られるのを恐れているらしく、

びくびくとした様子で、隠れてこちらを見ているようだった。

「まるきり役には立たないんだけどね、悪気は無いらしいから許してやって」

私は苦笑して五見に言った。

「役に立たないシキなんて、持ちたくないわね」

五見は肩をすくめた。

「成り行きの縁ってものもあるのよ、この世にはね」

私が言うと、五見は小さく笑った。

「成り行きの縁なんて、この世には無いわよ。自分が全て招いている結果よ」

とても、16歳の高校生とは思えない大人びた表情で五見は言った。

五見には、何だかいつも負けている気がする。

年齢では、私のほうが4歳も年上だというのに。

この劣等感は幼いころから、続いている。

人間的な器が違うという事なのだろうか。

悲しいかな。

私は言い返す事が出来ず、ただ黙っているだけだった。


「体が大丈夫なら、退院の手続き取る?」

五見が言った。

私は頷いた。

でも、これからの自分のアイデンテティーを確かめるために、

五見に聞く。

「私のベッドの下に、もしかして何かいる?」

私が言うと、五見は少ししゃがんで私の座るベッドの下を見た。

「・・・うん、いるねえ」

五見は相変わらず、無表情で言った。


私の私による私のための私の人生を、

放棄するための言い訳は、

ここで消えてしまったのだった。



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