欺瞞の家 3
私は動けずに佇んだままだった。
屋上に一人立ち、しばらくの時間が過ぎた。
佇んでいるというよりも、固まっていたと言うべきだろう。
私は怖かったのだ。
今さっきまでそこにいた少女が、
たった今、自分の目の前で死んだということが。
私のそこ、すぐ前で笑っていたのに。
その血の通った温かい指を、確かにフェンス越しに掴んでいたのに。
やはり、自分のせいなのだろうと思う。
あの時、手の力を緩めてさえいなければ、
彼女は落ちなかったかもしれないのだ。
自殺する人が普通の心境ではないと、アカに説教したばかりだった。
ならば、あの美しい明るい笑顔は、
やはりこのシチュエーション的に尋常で無かったのは、
分かったはずではなかったのか。
心を握りつぶされるような後悔と、罪悪感が私を襲っていた。
通りすがりの少女。
きっと、私の事情を知っている人達は、
例えば、さっき下にいて少女の様子を見ていた、私以外の三人の人なら、
「しょうがないよ」と思ってくれるかもしれない。
例の四人目のフリーターの奴には、拍手喝采されただろうけれど。
奴には、そのうち心を込めた不幸の手紙を送っておこう。
自分で自分を慰めて見るのだけれど、私は体が強張って動く事が出来ずにいた。
私がもしも、この思い上がりのおせっかいをしていなければ、
少女はあのままフェンスの外で、
飛び降りるのを躊躇して立っていたかもしれない。
そのうち、誰かが呼んだ警察なり消防車なりがやって来て、
何らかの説得をして、少女の飛び降りを止めたかもしれない。
私がそれを邪魔してしまったかもしれないのだ。
私の心を読んだかのように、やがて10階下の路上で、
救急車のサイレンの音がした。
それに続いて、パトカーのサイレンも聞こえてくる。
それでも、身動きが出来なかった。
私はその場で、少女の飛び降りたフェンスの近くで、
下を覗き見ることも出来ず、引き返してマンションの階段を下りる事も出来ず、
そのまま呆けた様に突っ立っていたのだった。
やがて、羽音がしたかと思うと、
階下に何かを追って急降下をして飛んでいったアカが、
屋上に戻って来て、私の周りを飛んで言った。
「あれは、やはり妖しいものです。真備様、近づいてはいけませぬ!
あれは、もう人間ではありませぬぞ」
パタパタと私の頭の周りで飛びながら、小さい赤い鳥の姿のアカは言い続けた。
「死んだ人が、もはや人じゃないのは当たり前でしょう」
力なく、沈んだ声で私は呟くように言うとアカを無視して、
足を引きずるようにして屋上から、建物の階段へと足を進めた。
彼女の後を追って飛び降りるつもりが無いのなら、
ずっとこのままここに立っていても何の意味もないと、
にごった頭で考えたからだった。
誰かを助けようと思ってしたことが、
結果として、こうやって誰かを追い詰めることになってしまう。
またしても、私は自分の生きている意味がまるきり分からなくなるのだった。
重い足取りで、たったさっきは息を切らし駆け上がって来た、
階段をずるずると降りて行く。
マンションの入り口を出ると、
路上に止まるパトカーと、救急車の反射灯が目に眩しかった。
いつの間にか想像もしなかったくらい、
そこにたくさんの人が集まっているのに驚いて立ち止まった。
路上に止まっているパトカーと救急車の反射灯が、
赤く赤く、まるで私の顔や体中だけを照らしているように、光っていた。
それは結局、路上に激突した少女の血の色を反射していただけなのかもしれない。
丁度今、救急車は少女の体を積み込んだのか、
けたたましいサイレント共に、走り出していく瞬間だった。
この真昼間に、どこから沸いて出たのか、
たくさん集まって来ていた野次馬は、
マンションの入り口からのろのろと出てきた私を見つけて、
数人が注目してた。
その時、どこからか素っ頓狂な声がして、
辺りにいる野次馬全ての注意を引いた。
「この女が突き落としたんだよ!この女が突き落としたんだよ!」
声のトーンは、無邪気と言って良いくらいのものだった。
でも、子供とも大人ともつかない不可思議な声。
高くも無く、低くも無く。
その声が私を糾弾しているのだと気がついたのは、
辺りの全ての人が私を見ているのに、気がついたからだった。
「この女が突き落としたんだよ、突き落としたんだ」
また声は聞こえてくる。
ざわざわと、野次馬から声が上がるのが分かった。
そして、私もここに来て、
自分の身の危機を感じる。
異常な犯罪の多い今、
この声の叫ぶことを、この野次馬たちが信じ始めてたのだ。
アカは妖怪鳥ながら、誰にも分からない言葉で、
あたり一面の人間に、反論していたようだ。
「キエーキエーっ!」
「私が彼女を突き落としたんでは無い」と。
生憎、妖怪の昼間の言葉は誰にも伝わらなかった。
その時、彼女が人間の姿に化身して、
青い着物を着た人間で叫んででもいれば、
誰かしら分かったかもしれないが。
役立たずとは、こういうことをいうのだろう。
「いえ、私じゃないです!」
私もその時、叫んだような気がする。
でも、良くは覚えていない。
誰かが投げた石が、私の頭に当たったからだった。
薄れいく意識の中で、
私はその糾弾の声の主を見た。
例の私と同年代のフリーターの少年が、叫んでいたのだった。
屋上から少女が飛び降りるのを、心待ちにしていたあの少年だった。
ただ不思議なのは、その叫んだ声が、
まるきりその本人の声とは思えないような、妖声だったのだ。
人間とは思えない、エコーのかかった声。
私は気を失って目をつぶる瞬間、あるものを見た。
それは、一匹の獣だった。
フリーターのその少年の後ろに、
隠れるように潜んでいた。
あれは何だろう。
見慣れない動物だった。
自分の知識を駆使して、頭の中で形容する前に、
私の意識は薄れた。
獣か人間。
どちらが本当の姿なのだろう。
そこまで思って、
私の意識は消えた。




