欺瞞の家 2
屋上へと続く鉄の扉は、普段は開閉禁止になっているらしい。
「関係者以外立ち入り禁止」の札がドアノブにぶら下がっていた。
こんな無人の場所のそんな古ぼけた札が、
実際に、ここを開けようとしている人間の何を止めるのか定かではなかったけれど、
そんなことすら躊躇する時間ももどかしく、
私は重いドアノブを掴むと思い切り引き開けた。
体を預けるようにして重い扉をようやく開けると、
一陣の風が、一瞬私の目を潰した。
10階もの上空の風は、真夏といえども薄っすらと冷気を孕んでいる。
幻の冷気。本当なら地上を這って生活する人間には縁の無い領域の風だ。
ある意味、人間とは程遠い存在の聖域の風。
自分の置かれた今の状況もあって、その風は私を厳かにした。
そして、ふと動きを私は止めて辺りを伺う。
何かを感じる。飛び降りようとしている少女とは別の何かの意思の残骸?
死んだ人?それとも。
一体何の気配なんだろう。
私は目をしばたかせて、屋上へと足を踏み入れた。
足を屋上のコンクリートの上へ乗せた途端、
たった今感じた何者か他の残骸は煙のように消えうせた。
誰か死んだ人の残像なのだったのだろうか?
やはり、この屋上から身を投げた人間?
ここまで心の中で疑問形をつぶやいて、私は慌てて打ち消した。
まだ、あの少女は生きている。
飛び降りていなければの話だが。
軽い羽の音がして、
私の後ろからアカが扉の外へと飛んで行くのが分かった。
少女を止めに行くのだろうか。
私も震える足に力をこめて、アカの後を追った。
どこ?どこにいるんだろう?
きょろきょろと見回しながら、少女の姿を探す。
大きな給水タンクの陰を回りこんで行くと、
手すりを越えてフェンスを掴んで立っている、後姿の少女を見つけた。
また間近に羽ばたきの音がして、
少女を助けに飛んで行ったのかと思いきや、アカは私の方へ戻ってくる。
「真備様、あの少女はとてもおかしいですぞ。
何やら不穏な気配がしまする」
小さい赤い鳥は、くちばしからつばを飛ばす勢いでしゃべりかけてくる。
「馬鹿、自殺しようとしている人間が、
元気はつらつなわけがないでしょ!
普通と違うに決まってるじゃないの!」
ささやき声で言い捨てるように返しながら、
私はそろりそろりと、
私の姿が見つかった時にもなるたけ少女を脅かさないよう、
彼女の側へと近づき続けた。
「いや、あれは真備様・・・」
鳥の声を無視して、私はフェンスへと近づいた。
少女のフェンスを後ろ手に掴んでいる指が段々と近づいてくる。
自分の手が届くのはもう間近だ。
フェンスは腰の上少し位の高さ。
彼女の両手をフェンス越しにでも掴んでしまえば、
何とか落下は防げるに違いないだろう。
その後、フェンス越しに引き上げるのは無理でも、
誰か助けを求めてここに来て貰えるまで、
彼女を引き止めるのに、何とか持ちこたえられるに違いない。
その時には、今までまるきり役に立たないこの妖怪のアカでも、
人間の姿になって引っ張ってもらえば少しでも違うだろう。
少女に近づいた最後の2、3歩はダッシュだった。
金網越しの少女の両手に、私はしがみついた。
次の瞬間思ったとおり、
建物の際に立つ少女は、驚いて振り向いた。
ジーンズにTシャツといういでたちは、
下から見たときとなんら変わりは無かった。
でも振り向いたその顔は、風になびく髪に邪魔されることも無く、
はっきりと見えた。
17歳か18歳くらい。
色白のとても可愛い少女だった。
驚いて振り返った表情も、まるで雑誌のアイドルかのように愛らしい顔。
黒い大きい瞳、すっとした鼻筋、血の色の透けた赤い唇。
ただ何の悩みがあるのか、そのやつれた感じは拭えなかった。
私は確かに、その少女の暖かい十本の指をこの手で掴んだ。
フェンス越しながら、二度と離すまいという勢いで力を込めていた。
少女は抗う感じも無く、そうして私に掴まれている自分の両手を見ていた。
そして、少しの時間が流れた。
お互い、無言。
自分の指を掴む私の手から、やがて少女はゆっくりと顔を上げ、
私の顔を見た。
私は緊張したまま、その少女の表情を見守る。
階下の人達に助けを呼ぼうにも、私は少女に見つめられて全く動けずにいた。
「死ぬなんて馬鹿げてるよ」
心の中で説得するのだけれど、言葉にならないのだった。
「死ぬのが馬鹿げている」
それはどの位の人に、そう言って分かってもらえる言葉なのだろう。
実は、死ぬのが馬鹿なんじゃない。
だって、死ぬことは、多少ならずとも苦痛を伴うことだし。
ある意味、その苦痛を越えて行こうと決心することは、
えらいと私は思う。
誰だってどんな人でも、いつかは死ぬ。
だから生まれてきた以上、万人が一度は通って避けられないものだ。
誰だって、痛いのとか苦しいのとかは嫌だろう。
それをあえて、先走ってやろうとするのだから、
ある意味えらいとさえ、私は思ってしまうのだ。
だけど、私がそれでも「死ぬのが馬鹿だ」と主張するのは、
死んでも悩みが消えないことを、
私は知っているからだった。
生前に死ぬほど悩んで、そして安直に(あえて言う)、
死を選んだ人は、死後も大変苦労している。
だから、幽霊とか妖怪とか、自縛霊とか悪霊とか、
このITの時代にでも、言葉が残っているのだ。
命は続いている。
特殊な意味での命の意味なのだけれど。
次の瞬間、
その少女は、まるで花のような微笑みを浮かべて私を見た。
本当に美しい、見とれるような微笑だった。
死にたいと思う人間が出来るような顔では無かった。
ふと、私に安堵に似た気持ちが沸いた。
なーんだ、この少女は死ぬ気なんて無かったんだ。
そう思った瞬間、私の手から少女の手を押さえる力が、
ほんの少し無意識に抜けた。
それは、スローモーションのようだった。
少女は力の抜けた私の手を払いのけ、
微笑んだまま、ゆっくりと後ろ向きに倒れて行った。
あっと、思ったときには遅かった。
フェンス越しに掴んだ少女の指のぬくもりは、まだ私の手の中にあった。
遥か下の遠くで、鈍い衝突音がした。
私はその場に座り込むと、目を閉じてうめいた。
ふと、アカが叫んだ。
「キエーーーっ」
聞いたことの無い叫びだった。
私は呻き続けながらアカを見た。
空でアカは狂ったように、丸く縁を描いて飛んでいた。
少女のいたフェンスの向こうのその場所に、
私ははっきりと見た。
黒い肌をした子供ほどの背の小さな鬼が、
フェンス越し、卑しい表情でほくそえんだように、
私を見ていた。
私は思わず立ち上がった。
次の瞬間、その鬼は少女の後を追って飛び降りた。
アカはその鬼を追って、もの凄い勢いで急降下して行った。
一体あれは、何なのだろう。
そう頭の端っこで思うのだけれど、
その指をしっかりと掴んだ少女を救えなかった衝撃に、
私は身動きすら出来ないで、
ただ誰も居ない屋上に立ちすくんでいるだけなのだった。
神様、私が生き続けると言うことに意味があるのですか。
少女の後を追って飛び降りる勇気があるのならば、
私はそうしていただろう。
私は弱い人間なのだった。




