欺瞞の家 1
八月半ばの日差しは容赦なく降り注いで来て、
ただでさえ猛烈に焼けているコンクリートの道の上を歩く私の体を、
丸ごと焼き尽くすかの勢いだった。
「暑い」
息をつこうと喘いで口を開けば、壊れたCDデッキのように、
私の口からは、この言葉しか出てこない。
バイトをしている居酒屋の今日の私のシフトは、
午後二時から出勤する中番なので、
他の人達の通勤ラッシュにははずれているものの、
この暑さの中を仕事場へ出向かなければいけないのは、
それはそれで結構辛いものがあった。
たくさんのあぶら蝉が、街中の少ない緑の中のありとあらゆる所で鳴いている。
その蝉達の声すらも、アヂーアヂーと喚いているようにしか聞こえなくて、
余計といらいらしてくる。
上を向いても、横を向いても前を向いても、
くらくらと視界はぼやけがちだった。
だから、数人の通行人たちが、
その場に立ちすくんでいるのに気がついたのは、
その人達の側を通り過ぎてしまった後だった。
その通りは二車線の道路で、
両側にはあまり大きくないビルが立ち並んでいる。
大通りの一本裏道といった感じで、
通る車も大通りに比べるとあまりない。
歩道を歩く人達の数も、
物凄く暑い日中というせいもあるのか思いのほか少なくて、
数人の立ち止まって上を眺めている人達に、私が気がつくのが遅かったのも、
仕方のないことだったのかもしれない。
通りをはさんで四人の人達が、歩道でぽかんと口を開けて空を仰いでいた。
営業途中のサラリーマン、買い物途中の子供を連れた主婦、
夏休みなのに学校へ行ったのか制服姿の男子学生、
そして、私と同じようにフリーターっぽい若い青年。
どの人も通りすがってここにいるといった感じの人達だった。
そのどの人も、みんな上を向いて何かを見ていた。
私は通り過ぎかけてそれに気がつくと、
歩く足を止めて彼らに見入り、そして同じように上を向いた。
純粋な疑問が浮かんだからだ。
一体、何があるのだろう。上に。
四人の人達が見上げているのは、ある一つのマンションの屋上で、
私もつられて見上げるとそのわけが分かって、
同じように口をあんぐりと開けた。
一人の女の子が、
10階建てのマンションの屋上のフェンスを乗り越えて、
フェンスを両手で後ろ手に掴み、今にも飛び降りそうな感じで建物の端に立っていたのだった。
ジーンズにTシャツといういでたちは、ここからも見て取れる。
顔立ちははっきりとは分からなかった。
髪が風になびいて顔を覆っていたのだ。
でも、どう見てもまだ十代を超えないあどけない少女なのは、
その体型や雰囲気から見て、すぐ分かった。
「うそっ」
私は状況を飲み込むと、小さく呟いて慌ててあたりを見回した。
しかし、誰も固まったように動く様子は無くて、
ただ魂を抜かれたかのように上を見ている。
「どうすんの?どうしよう」
私が怯えたように声を出すと、制服姿の男子学生がちらりと私を見た。
どうしよう。
彼も怯えているようだった。
視線で、まるきり同じ無言の言葉を投げて来る。
サラリーマン風の人は、ふと携帯電話を開いてダイヤルを押しはじめた。
だけど、慌て過ぎていて上手くボタンが押せないようで、
何度も何度も舌打ちをしながら押しなおしていた。
「あー、警察は何番だっけ。救急車は何番だっけ」
サラリーマンは苛々と口に出しながら、ボタンを押し続ける。
主婦は半泣きで子供の手を強く掴んで、おたおたとあたりを見回し、
自分の体が金縛りにあったかのように動けないことに、うめき声を上げた。
そしてまた不安げに、涙を浮かべた目で、
マンションの屋上に視線を戻すのだった。
子供にこんな光景を見せてはいけないと思うものの、
死のうとしている人間を目の前にして逃げ出すほどの、
ずうずうしさを持ち合わせていない自分の不甲斐無さに、
うめいているようだった。
フリーターの若い男は、はっきりと表情に出してはいないものの、
ありありと屋上の少女が飛び降りるのを待っているようだった。
まるで目の前に起こっている出来事は、映画かドラマの中の出来事かのように、
目を光らせて屋上の少女を見ている。
早くしろよ。
声にならない彼の声が聞こえた気がして、私はぞっとした。
世の中にこういう人間が少なくない事は、もう私は知っているけれど。
屋上の少女はまだ動く気配は無さそうだった。
私の刹那な願望にしか過ぎないのかもしれなかったのだけれど、
まだ動く様子はない様だった。
ある衝動が私を襲っていた。
人間として当たり前の、原始的な衝動なのだろう。
あの少女を助けなければと、私は咄嗟に思った。
普通の人間なら、誰でもこういう状況には刈られる衝動だと思う。
だけど、私に今出来る事は一体何なのだろうと躊躇して動けないのだった。
非人間的なフリーターの若い男を除けば、
ここに居合わせた全員が感じているのだろうと思った。
助けたい気持ちで居ても立ってもいられないのに、
何が出来るのか分からなくて、固まってしまっているのだ。
そして、私はふと思い出した。
私が普通の人間じゃないことを。
つい最近、妖怪を手下にしたばかりだったじゃないか。
「アカ!」
私は周りを気にもせず、その妖怪の手下の名前を呼んだ。
すると、どこから飛んできたのか、
すぐ耳元で鳥の羽ばたきがして、
「あいな」
返事はすぐ返ってきた。
「あんた、鳥の妖怪でしょ。すぐ飛んで行ってあの女の子助けてよ!」
私が耳元の赤い小さい鳥に叫ぶと、
他の人達は一斉に私を見た。
さすがに自分の体裁を気にしている場合じゃないとしても、
これはまずいと感じた私は、
その場から小走りに走り去って、歩道に立っている大きな木の陰に隠れた。
そして、言葉を続ける。
「あんた、妖怪ならパーッと飛んで行ってあの少女を地面の上に連れてくることくらい、
何てこともないでしょ?」
私は早口でアカに言う。
「死にたい人間は死なせておけばよいのでは?」
いかにも、やる気無しという感じで赤い小さな鳥のアカはのんびりと答えた。
「死にたい人間をむざむざ目前で死なせてしまうのは、
人間として恥ずかしい事なの!他の人はどうであれ、
私はそう思うの!だって、今の辛さから死んで逃げられると思ったら大間違いでしょう。
死んだって辛いのよ。変わらないと分かっているなら、
生きているうちに立ち向かわせてあげるってのが、
こんな特殊な人間に生まれてきた私の使命というもんでしょう?
人の何倍も長く生きている妖怪のあんたなら、そんな事くらい分かるでしょうよ」
鼻息を荒くして、私は肩に止まる赤い鳥に喚きたてた。
「あー、それは確かにそうでございますな」
暢気に答える鳥の頭をデコピンする。
「分かっているなら、早く行って助けて来なさいよ」
「されど」
赤い鳥はまたしても、のんびりと言う。
「私は昼間は妖気が薄れるゆえ、やれる事は限られているのじゃ」
きょとんとした丸い目をぱちくりしながら、無邪気にアカが言う。
「いくら私が妖怪でも、この小さな鳥の姿のまま、
人間の少女を背負ってくるのは到底、無理でございますな。
他に出来る事といえば」
「出来る事と言えば?」
ほとんど、怒鳴るようにして私は聞き返す。
「昼間は人間の姿に化身することぐらいしか・・・」
「人間でもいいわよ!助けに行ってよ!これは命令!!!」
「承知」
アカは私の肩から飛び立つと、少女の立つ屋上のあるマンションに飛んで行った。
アカが飛んで行って数分が経った。
何だか嫌な胸騒ぎがした。
理由の無い焦燥感。
私も木陰から飛び出ると、
アカの後を追って、
少女の飛び降りようとしているマンションへと走り出したのだった。
生憎、それは10階建てだというのに、
エレベーターが無い古いマンションだった。
階段を一つ飛ばしに駆け上がる。
しかし、普段全く運動不足の私は、
三階にたどり着くまでには息が切れてしまって、
一歩一歩階段を上がるのがやっとになってしまった。
アカは間に合っただろうか。
心の中で呟きながらも、足を引きずるようにして階段を上がり続ける。
奇妙な青い着物が目の前に見えたのは、
四階にたどり着いたあたりだった。
「アカ!」
私は息を切らしながら、見つけた青い着物に向かって叫ぶ。
「真備さま、お早うございましたな」
青い着物を着て、青い頭巾を被った時代錯誤ないでたちの、
人間に姿を変えた鳥の妖怪のアカが、
やはり私と同じように息を切らして階段をゆっくりと上がっているところだった。
「あんた、まだこんなところにいたの?」
怒ったように言う私に、アカは着物の肩をすくめて答える。
「いつも飛んでいる私には、階段を人間の足で歩いて登るというのは、
何しろ初めての事なもので、とまどっておりまする」
「飛んで屋上まで行って、そこで人間に変身すればいいでしょうが!」
アカは私の言葉に、ポンと手を打った。
「そういう手もありましたか」
「もう、いい。あんたの助けは借りないわ」
私は役立たずのシキに怒って言い捨てると、残っている力を振り絞って、
残りの階段を上がり始めた。
本気で助ける気が無い妖怪に、頼んだ私が馬鹿だったわ。
どうか、間に合いますように。
祈りながら、私は目に落ちて来る汗をぬぐったのだった。




