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鬼録   作者: 小室仁
22/72

人形師 13

蒸し暑い夜だった。


祝言の行われる部屋の広さは60畳ばかり。

大きな商家らしく普段使われていない部屋を4つ、

全部の襖を取り払って作られていた。

その果てしなく広く見える座敷に、

忙しそうに使用人達が今夜訪れる100人近いお客達の為、

座布団を並べ始めている。


祝いの品は、祝言の行われる部屋の外に全て積み上げられ、

やがて来るお客達に、この盛大さを示すため飾りつけられている。

どこどこの誰々が、何々を持ってきた。

膨大な量の祝いの品一つ一つに、のしを貼り付けることも忘れない。


今夜、この呉服問屋に勤める使用人達は、

今までにないくらい忙しく立ち働いていた。


「ご長男の祝言の時も、その他のご兄弟の祝言の時も、

 こんなに盛大では無かったでのではないか」

使用人たちが、忙しく動きながらもひそひそと話をしている。

「なんにせよ、この御祝言は、それ以上の意味もあるものだというし」

「妖怪に憑れたのを払う儀式でもあるってねえ」

「末の息子様だからと、ご主人様が甘やかしていたから、

 妖怪に憑かれたりするんだよ」

「要七郎様は、お優しいと言えば言葉はいいけれど、

 結局、嫌なものを嫌だと言えないだけの方だから」

「自業自得っていうもんだ」

耳をひそめていると、噂話は絶えない。

先刻、店の入り口の格子戸の向こうから、

青い頭巾を被った得体の知れない美しい女が、

渡してきた変な人形を受け取った使用人達も、

忙しく働いていて、そんなことがあったのをすっかり忘れていた。





時間は刻々と過ぎていき、戌の刻は近づいていた。




要七郎の父親は、まだ仕事が終わらずに、

店先で、番頭と今度お得意の武家に収める品の打ち合わせをしていた。





喜代は与えられた自室で、今夜祝言の席にやって来る両親に、

今まで育ててくれたお礼の手紙を書いていた。

ふみ机に座って、一言一言筆でしたためる間にも、

部屋の向こう隅に掛けられている、今夜着る白無垢を振り返る。

それは上等な絹であつらえられた、上等な花嫁衣裳であった。

普通の町娘ならお目にかかることも出来ないような代物。

喜代は筆を持つ手を休めて振り返ると、その花嫁衣裳に見入った。

純白の着物は、衣紋掛けに掛けられ喜代が袖を通すのを待っている。

喜代の幼い頃からの夢が、今まさに実現しようとしていた。

夢に見た上等な白無垢を着て、上等の家に嫁ぐ。

そしてその上、自分が一緒になろうとしているのは、

町の娘全てが憧れるような、美しい夫。

喜代は、自分の恵まれた幸せにため息をついていた。





要七郎は、なんだか胸騒ぎが抑えられず、

自分の寝室で座っていた。

喜代を嫁に貰うことには何の不満も無かったのだけれど、

かつての自分の屋敷に、捨て置いてきた醜い女が気になるのだった。

別れの言葉も言わずに来た、みつ。

どうしているのだろうと、気になって仕方が無かった。



しかし、あの顔は。


思い出すだけで、要七郎は身震いをした。

親しみを覚える反面、こうして離れてしまえば、

みつは、やはり嫌悪するだけの女なのだ。


しみじみ、自分は冷たい男だと思った。

しかし、それ以上に、

みつは自分には受け入れられない女なのだと思った。








戌の刻にまで、もう一時。

風が吹いた。

生暖かいのだけれど、

猛暑の暑さを一瞬、撫で去るような冷たい風だった。




すぐ後、

おめでたい祝言の席を忙しく設けている呉服問屋に、

次々と悲鳴が上がり始めた。


まずは店の入り口。

そして、部屋と部屋を繋ぐ廊下。

悲鳴は屋敷の奥へと響いた。


みつの人形をあの青い頭巾の女から受け取った使用人が、

何事が起こったのかと座布団を持ったまま、

襖の側まで走って近づいて、

絶叫が湧き上がっている廊下を襖から覗き見た。



使用人の目の前に、人影が立ちはだかった。

瞬間、その人影の吐く息が顔にかかって、

使用人は目が眩んだ。

物凄い生臭さ。今まで嗅いだこともないような生臭い匂いだった。

そして鼻と口を押さえて、

目の前に立ちはだかる人影を見る。

使用人は息を飲んだ。


最初に目に入ったのは、めくれ上がった唇からのぞく恐ろしい牙だった。

耳まで裂けている口から、数え切れないほどの黄色く尖った恐ろしい牙がよだれを引いて、

使用人の目の前にあった。

牙から糸を引いているよだれには、真っ赤な血が筋になって混ざっていた。

使用人は震えながら、その口から上へと恐る恐る目を上げていく。

火で焼かれたような浅黒い皮膚に、凶暴な獣のようなしわの寄った鼻、

低く落ち窪んだその目は、嫌悪の黒い光をたたえて、

じっと使用人を見ていた。

そして、その額まで目をやったとき、使用人はとうとう悲鳴を上げた。

額には、己の血と肉を割って生えているねじれた巨大な二本の角があった。


使用人は鬼から目を反らした瞬間、鬼の背の向こうの廊下を見た。

おびただしい血がそこら中に流れていた。

ここに来るまでに、どうやら目の前にいる鬼が、

辺りの人間を手当たり次第に、襲って食い殺して来たのが一目瞭然だった。


「うわああああっ!」

使用人は絶叫して、鬼の前から逃げ出そうとした。

鬼は一声、地獄から響くような恐ろしい咆哮を上げたかと思うと、

逃げようとした使用人の首に噛り付いた。

使用人は抗って暴れた。

しかし、それも長くは続かなかった。


食らいついた首から流れ出る血で、

その鬼の着る着物は、びっしょりと濡れた。

しかし、それはもとが桜色と分かるくらいのもので、

もうここまで来るまでに殺めた、たくさんの人間の血で汚れていたので、

赤い上塗りをしただけに過ぎなかった。

鬼はひとしきり血をすすると、その使用人の体を他と同じように廊下へ投げ捨てた。

乱れた日本髪のほつれて落ちている幾筋の髪にも、

その血は飛び散り、流れて滴っていた。


鬼は来た場所をゆっくりと、振り返った。

おびただしい血で汚れた廊下には、

たくさんの自分が食いちぎり放り投げてきた、

この呉服問屋の使用人たちが折り重なっている。

鬼はふいと背を向けると、廊下の先を進んだ。 

まだ、目指すものとは出会っていないからだった。



喜代は筆を持ったまま、屋敷の中で上がる悲鳴や罵声を聞くと、

驚いて立ち上がり部屋の障子を開けて騒ぎのほうを見やった。

中庭を囲む長い通り廊下の向こう側に、

たくさんの使用人たちが倒れているのが見える。

一体何があったのだろうと、喜代は目を凝らしてその光景を眺め見た。

そして、恐ろしい形相をしている女が一人こちらへ歩いてくるのに気がついた。

血にまみれれた着物を着ている一人の女。

ここからでは顔の造作は良く見分けがつかないのだけれど、

その額から生える異様な二本の角は、遠目でも良く分かった。

 鬼!

喜代は悲鳴を上げて持っていた筆を投げ捨てると、

隠れる場所を探して部屋の中を見回した。






要七郎は自室の畳に寝そべり、目を閉じていた。

たくさんの悲鳴が聞こえて来たのは、自分の夢なのかと思った。

しかし、それにしてはあまりにも生々しすぎる。

何者からか逃げ惑う使用人の足音まで響いてくるのを感じて、

要七郎はようやく目を開けた。

その夢の中の物かと思った騒動が、目を開けても聞こえてくるので、

何事が起こったのかといぶかしげに思い、要七郎は部屋の障子を開けた。

その途端、離れた喜代の部屋の方から悲鳴が上がった。

要七郎ははっと我に帰ると、部屋を走り出した。

 一体、何が起こっているというのだ。まさか。

走り出してふいに思いつくと、要七郎は急ぎ戻って慌てて部屋の中を探し回り、

ようやく見つけた人形を作るときに使っていた小さな刀を持つと、

また再び走り出した。






喜代は部屋の押入れに身を潜め、息を殺して膝を抱えていた。

 あの鬼は、要七郎様に憑いたという物の怪に違いない。

 それはやはり本当のことだったのだ。

喜代は着物の上から、破裂しそうなほど鼓動を打っている心臓を押さえた。

そして、この時になって初めて喜代は自分が浅はかだと思い知った。


大体が、結界が張られた家に嫁ぐ事自体がそもそも恐ろしい話だったのだ。

夫となる男の見た目の美しさと、家柄の良さに目が眩んで、

物の怪話など端から馬鹿にしていた。

聞くところによると、要七郎様に心底惚れていた醜い女が、

妖怪と化して祟っているという話だった。

それは本当のことだったのだ。

一緒に暮らした男が勝手に他の若い女と祝言をあげるということを聞いたら、

誰でも嫉妬の念に焼かれることだろう。

誰かに、嫉妬というものは緑色の目をした妖怪なのだと聞いた事があった。

人の心の恐ろしさを侮っていたつけが、今こうしてまわってきているのだ。

喜代はぶるぶると震えながら、どうか見つかりませんようにとただひたすら祈るのだった。


ただでさえ蒸し暑い夏の夜、喜代の隠れる襖の中は自分の体温と夏の昼間の名残の暑さで、

息苦しいほどだった。

しまってある布団に押し付けている背中が、燃えるように熱い。

喜代は息を潜めて、締め切った襖の陰から外の様子を体中の細胞で伺う。

しかし、今まで盛んに上がっていた悲鳴や怒声は消え去り、

辺りはしーんと静まり返っているのだった。

それでも先ほど見た鬼の姿の恐ろしさに、喜代は息を潜め隠れ続ける。

半時も経とうかと言う頃、さすがに首をかしげて喜代は隠れている押入れの襖に手を掛けた。

悩んで悩んで、それでも無音の屋敷の気配に、

喜代はきっと鬼はどこかに行ってしまったに違いないと思い、

そろそろと襖を横に滑らせて開けたのだった。


「おぬしかああああああっ!」

途端、耳をつんざく怒号がすぐ目の前で上がったかと思うと、

押入れの中に隠れていた喜代の体が物凄い力で外に引きずり出された。

喜代の両肩を鋭い爪の生えたどす黒い手が掴み、宙に吊り上げる。

喜代は自分の体中の内臓を吐き出すような、恐怖の叫びを上げた。


喜代の目の前にあるのは、

血走った黒い目、どす黒い肌、しわの寄った獣のような鼻、

口は耳まで裂け、その唇からは多数の鋭い牙が覗いている。

そしてその額には、おどろおどろしいねじれた二本の角。

唯一、それがかつて人間だったと思わせるものは、

乱れた日本髪と着ている血まみれの着物。

そして、かろうじて聞き取れる言葉だけだった。

「おぬしか、要七郎様の花嫁は」

生臭い息を吐いて、鬼は喜代の顔をぎょろぎょろと血走った目で見る。

掴まれた肩に鬼の爪が食い込んで、喜代の着ている綺麗な緑色の着物が赤く滲み始めた。

喜代は悲鳴を上げ続けた。

鬼は喜代を畳へ放り投げた。

「確かに、美しい女子じゃ」

畳に打ち付けられながら、呟くように言った鬼を振り返って、

喜代は息を飲んだ。

鬼は泣いていた。

どす黒く醜い肌に埋もれた小さな目から、

涙が一筋流れたののを見たのだった。

「どうか、お助けを」

喜代は打ち捨てられてままの格好で、その鬼の流した涙に一縷の望みを掛けながら、

仁王立ちになっている鬼に力なく呟いて、命乞いをした。

鬼はそんな喜代を見下ろして荒く息をし、

まるで自分の中の何かと戦っているかのように見えた。

そして鬼は大きな息をついて、ゆっくりと顔を上げた。

そして、喜代が今宵着るはずだった白い花嫁衣裳を見た。

鬼は地響きがするような咆哮を上げた。


次の瞬間、鬼は喜代に飛び掛った。

部屋の壁際に掛けてある純白の花嫁衣裳に、

鬼が食いちぎる喜代の首から、

吹き上がる血が、真っ赤な染みを吹きかけた。



「喜代っ!」

喜代の部屋にたどり着いた要七郎が、

息を切らして喜代の部屋の障子を勢い良く引き開けた。

鬼は畳に座り込み、倒れている喜代の血をすすっていた。

「おのれ、妖怪め」

要七郎は唸ると、手に持った小刀を構えて鬼の背中へ飛び乗った。

何度も、何度も使用人達の血に染まった桜色の着物の背中に力いっぱい刀を突き立てる。

鬼は苦痛に一声吼え、

背に乗る要七郎を払いのけると、振り向いて要七郎と向き合った。

「要七郎様」

醜い顔で荒く生臭い息を吐き、

鬼は要七郎に突かれた背中からだらだらと血を流しながら、

はっきりとした言葉で言った。

要七郎は戸惑って、手に持って振り上げた小刀を持つ手の力を一瞬緩めた。

鬼の牙の生える口の周りには、今すすった喜代の血がぬめぬめとこびりついている。

その口が震えて、もう一度要七郎の名を呼んだ。

「要七郎様」

要七郎は言葉にならない、ぐうという呻きを喉から漏らした。

鬼はしばし要七郎と、たった今まで血をすすっていた畳に横たわる血まみれの喜代の体とに、

交互に落ち着かない視線を投げて、うなだれた。

「お前、みつなのか」

要七郎は恐る恐る口を開く。

自分の言った言葉に恐れおののく感じであった。

鬼は小さく頷いた。

「こんなつもりでは無かったのです。

 こんなはずではなかったのです」

鬼は涙を流して、鋭い爪の生えた醜い両手を救いを求めるかのように、

要七郎に伸ばしてきた。

要七郎は思わず飛びのくと、鬼と化したみつの両手を避けてのけぞった。

それを見たみつは、低く慟哭のうめきを上げると、

要七郎が手に持っている小刀を奪い取り、ぐさりと己の首に突き立てた。

赤い血がみつの喉元からあふれ出た。

要七郎は息を飲んで、ただ見ているだけだった。


鬼は、みつは要七郎の見ている前で、

次第に息絶えていった。

要七郎は逃げることも出来ず、

動くことも出来ず、ただそれを見ているだけだった。


要七郎は死んでいく鬼の形相のみつを見ながら、

一緒に暮らした日々を思った。

みつの作る飯は、いつも本当に美味かった。

みつはいつも、綺麗に家を掃除し、きちんと洗濯をし、

要七郎が居心地の良いように、立ち働いていた。

ただ、その容貌が醜いというだけだった。

どうしても好きになれない醜い女ではあったものの、

心は濁っていない女だった。

それがどうして、鬼に化身して人を食い殺すほどのものになってしまったのか。


私のせいか。


鬼の形相のみつが完全に息絶えたと見取ると、

要七郎はふらふらと、部屋を出た。



屋敷はそこら中が、血にまみれていた。

廊下も、喜代と祝言をあげる筈だった部屋も、

全てが、そこに携わり働いていた者の血で埋め尽くされていた。



要七郎は、ふらふらと屋敷を彷徨い歩いた。

そして数え切れないような使用人達の死体の先に、

父親も、古くからの信頼置ける番頭と共に、

店先で息絶えていているのを見つけた。

そして、父親の死に絶えている側に、

何故か、かつてみつを手本に作った、

自分の人形が転がっているのも見つけた。

しかし、手にとって見ると、

その転がっている人形は、かつてのものと違っていた。

それはもう、のっぺりとした不細工なだけの人形ではなく、

額には不気味な二本の角の生えている、異形の人形であった。


要七郎は始めて、心から泣いた。

叫んで、わめいた。

全て、自分の優柔不断な心が招いた事の結果なのだと、

思い知った。



なおも、要七郎は泣きながら、

台所へふらふらと歩いて行った。

そして、そこにも横たわるたくさんの使用人達の体を乗り越え、

給仕場で肉切り包丁を見つけると、迷わず自分の手の爪先に振り落とした。

まずは右手、そして左手。

もう二度と、人形を作れないように自分を戒める為であった。

肉の痛みよりも、心の痛みの方が勝っていた。

要七郎は切り落とした自分の指先を、台所のそこら中に投げ捨てた。

この全ては、弱い自分の招いた事なのだ。

悔やんでも、悔やみきれ無い罪なのだと、

要七郎は叫んだ。



この由緒正しい古くから続く大棚の呉服問屋は、

この晩をもって廃業となってしまった。




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