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鬼録   作者: 小室仁
19/72

人形師 10

女は食事が終わると、食器を綺麗に片付け、

要七郎の家を後にした。

別に女が去っていくことに何の特別な感情を抱かなかったのだけれど、

まさか名前すらも聞いていないことを思い出し、

要七郎はほんの少し、女を引きとめた。

「みつでございます」

女は答えて、深く頭を下げ要七郎に背を向けた。

ほっとしたような気持ちで要七郎は、女を見送った。

気持ちの奥底で懸念していた、

これを機会に、この醜い女にまとわりつかれたら・・という心配は、

全くの杞憂であったようだった。


みつが去って行った後、考える。

さて、昨夜どこであの女を拾ってきたのだろう。

さっぱり思い出せない。

突然降って沸いて、家の中にいたとしか思えないのだ。


要七郎が自分で誘って家に連れてきたのだったのだろうか。

それしか、あの女が要七郎の家に寝泊りするわけがない。

しかし、一体どこで?

ふと、あの夢の中の青い頭巾の女を思い出した。

あの女と、何か関係があるのだろうか。

確か「一緒に楽しい事をしましょう」とか、

言っていたのでは無かったか。


「馬鹿な」

要七郎は口に出して呟いた。

みつがあの夢の中の青い頭巾の女と関係があるとしたならば、

今こうしてもう空高く上った朝日の中で、

ぼーーっとみつを送り出したまま立ち尽くしている自分も、

全てが夢の中のはずだ。

それにしては、すっかり目覚めて辺りは現実に満ち満ちている。

それに、みつと過ごした昨夜は、

今までに無いような珍しい体験とはいえるが、

あの頭巾の女が言ったような楽しい事というには、程遠いものだった。


要七郎は頭を振って気を取り直すと、

家の中へと戻って行った。








それから数日は、まるで毒気を抜かれたかのように、

何事にも手がつかず、要七郎は人形を作る道具を目の前にして、

ただ座って過ごしていた。


人形を催促するお客の使者は、

毎日のように仕事の様子を見にやってくる。

しかし、どうしても新しい人形を作り始めることが出来ない要七郎は、

度重なる催促に、

とうとう、最後に作ったみつに似た人形を取り出して見せたのだった。


「要七郎様、手前どもの欲しいのは、

 親戚の祝言に使い物にしようとしております祝いの品。

 これも変わっていて、面白いのは面白いのかもしれませぬが、

 私どもが要望しておりますのは、いつもお作りになってらっしゃいますような、

 美しい乙女の人形でございます。これは別の方にお譲りくださいませ」

苦笑いをしながら、どの使者も丁寧な言葉で言うものの、

みつの人形を見ての、嫌悪の表情は隠せないようだった。




一人の屋敷の縁側で、要七郎は貰い手の無いみつにそっくりな人形を前に置いて、

傾いていく日の陰りを見つめていた。

「人形の中身はどうせ空っぽだ。

 見た目が美しかろうが醜かろうが、同じ空虚な作り物にしか過ぎない。

 もともと何の役にも立たぬものだ。

 それなのに、どうして人はその空虚なものが、

 単に見た目が美しいからとって、無分別に価値を見出そうとするのだろうか。

 醜いものには価値が無いと言うのか。

 今まで作った人形達と変わらず、この人形とて、

 私が一生懸命心をこめて作ったものに違わないというのに」

不本意なやるせなさが、みつに似た人形を見ていると、

こみ上げてくるのだった。

しかし、もし要七郎が金を出して人形を買うとしたならば、

やはりこの醜い人形を買う気にはならぬだろうと、

我ながら理不尽な思いを抱くのだった。



人形を作る気も起こらず、

かと言って、今までのように頻繁に美しい女を見つけては家に誘う気も起こらずに、

ただぶらぶらと、要七郎は町の中を彷徨うようなった。

何も手につかないというよりは、

もともと何も持っていなかったような頼りない心持であった。







ある貧しい長屋の立ち並ぶ細い路地で、

要七郎は足を止めた。

長屋の住人が共同で使っているらしい大きい井戸の前に、

いつか見たような頭巾を被った青い地味な着物を着た女が、

座り込んでいたからだった。

要七郎は、はっとして女へ走り近づくと、

「お前は、もしやあの女なのか」

形振り構わずに、女の青い着物の肩を掴んだ。

「あれ、旦那様。卵がご入用か」

要七郎の掴んだ肩の手をいぶかしげに見ながら、

頭巾の下からは、しわくちゃの老婆の顔が覗いた。

良く見ると、老婆の前には鶏の白い卵が入れられたざるが、

いくつか並んでいる。

どうやら、卵の行商の老婆のようであった。

要七郎は、老婆の肩を掴んだ手を緩めると、

自分の荒い行動を謝って、懐から財布を取り出し、

老婆の売る卵を一山買った。

手ぬぐいに大事に包まれた卵を手にぶら下げて、

要七郎はため息をついた。

一体、最近の自分はどうしてしまったのだろう。

要七郎は老婆に背を向けて、家に向かってとぼとぼと歩き始めた。

要七郎は、その地味な青い着物を着た老婆が、

頭巾の下でにやりといやらしい笑いを浮かべたことには、

まるきり気がつかなかった。



貧しい長屋は、夕餉の支度に活気付いていた。

継ぎはぎだらけのボロを着た子供達が元気に走り回り、

長屋の軒下には、干した魚を焼くような香ばしい匂いが立ち込めていた。

夕日は紅く空を染めていて、

寝ぐらへ帰る鳥たちの小さく黒い影が、いくつもいくつも横切って行った。


そして、要七郎は何気に覗き見た一軒の長屋の奥に、

見覚えのある女を見つけた。

米を研いでいるその横顔は、みつだった。



その瞬間、不思議なことに、

要七郎の中で、相対する二つの気持ちが戦った。

みつに見つからないうちに、

すぐさまここを立ち去りたいという気持ちと、

自分の作ったあの人形をいつも眺めていたせいか、

みつを見て沸いて出てきた、懐かしいような親しみのある気持ちだった。


人は葛藤していると、身動きをすることが出来ないものだ。

そうこうしているうちに、

みつの方が、要七郎を見つけた。

「要七郎様」

みつは驚いた。そしてその後はにかむように微笑む表情を浮かべる。

要七郎の中で、みつのその表情を見た瞬間、

逃げ出したい気持ちが圧倒的に勝った。

けれど、その時はもう逃げ出すタイミングを失っていた。


「どうなさいました。どうしてこんなところまで」

みつは嬉しそうに、米を洗っていた手を前掛けで拭きながら、

要七郎に走り寄って来た。

要七郎は何故自分はここに来てしまったのだろうという、

物凄い後悔の念に駆られながら、

おずおずとみつに先ほど老婆から買った卵の包みを差し出していた。

みつは目を輝かせて、要七郎から包みを受け取った。

しかし、どんなに嬉しさから上気していようとも、

やはり、みつの顔はずんぐりとしていて、

じっと見るには、耐えない醜さなのであった。


まるで、逃れられ無いくもの巣に捕らえられた、

蜻蛉のような心持なのは、一体どうしてだろう。

みつの顔を見て懐かしいというような気持ちを抱いたくせに、

要七郎は心細く思うのであった。



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