人形師 7
まんじりともせず。
その言葉の意味が、初めて分かった気がした。
五見が帰った後、
酔い覚めのせいもあってとても眠いのに、
目を閉じても意識は遠のいてくれず、
耳は、辺りの気配を疑って、
ちょっとした物音にも反応し、
なんか変なんじゃないの、ちょっと大丈夫なの?と、
脳へ信号を送ってくる始末。
そのたびに、私はびくりびくりと体を動かして、
おばあちゃんの応接室のソファの上に起き上がって、
そっと辺りを見回すのだ。
静かだった。
その静けさは、かえってあの鬼の顔を私の脳裏に蘇らさせた。
つぶった目の裏に、
血の混ざったよだれの糸を引くあのぎざぎざの鋭い牙は、
喉の奥に残る腐った肉の匂いと共に、
まざまざと、鮮明に浮かんで来るのだった。
あれは実体ではないのだ。
人の呪いが夜のしじまに浮かび上がらせた特殊なホログラム、
普通の人では見ることでさえないような、幻なのだ。
何度も何度も、自分に言い聞かせるのだけれど、
そう思い込むのは、とても難しかった。
何故なら、私は知っているからだ。
あれがかつて、実際に起こったことに違いない事を。
やがてそうして小一時間を堪えていると、
ようやく夜の闇は白々と明け始め、
月明かりに映っていた庭の木の葉の茂みの影が、
障子の上で薄れ始めた。
その時になって、
ほっと私の体の力も抜けてきたのだった。
世の中には、
学んで身につく事よりも、
ただ耐えて慣れて、身につく事の方が多い。
どちらが、のちのち自分のためになるかといえば、
絶対的に、後者のような気がする。
何故なら、この世には、
己の小さな頭などで考えても、
追いつかない事の方が多いのだから。
恐い思いも、
辛い思いも、
悲しい思いも、
痛い思いも、
何度も経験して、慣れてさえしまえば、
人間は、なんとかやり過ごしていけるようになるものだ。
じゃなければ、どんな人でも、
長い人生を生き続けるのは難しい。
人様々な、環境や状況の違いはあれ、
繰り返し同じことに同じように、苦悩するのであれば、
生きていく事すらが、苦痛になる。
「慣れ」と「忘却」は、
人が生まれて来る時に与えられた、
もっとも最たる、そして唯一の祝福なのだ。
死んだ人がうんぬん、鬼がうんぬん、それはどうであれ、
日々を生きるのが恐いのは、きっと私だけじゃない。
もしかしたら、私が死んだ人を見ることなんかより、
もっと恐い思いをしている人もいるはずだ。
きっと、辛いのは、私だけじゃない。
こんなのまだまだ甘いほうなのだ。
幾分空回りな激だとは、自分でも分かっているのだけれど、
そこで止まっていては、どこへもいけない。
私はソファから起き上がると、
再び、台所の冷蔵庫へと向かった。
腹を壊しているのに懲りもせず、
もう一本缶ビールを取り出す。
そして一息に350mlを飲み干して、大きく息をつくと、
私はソファに戻ったのだった。
新たなアルコールが胃を通り、
体中の血管に運ばれていくのを感じながら、
障子越しにだんだん強くなる朝日を見ていたら、
今まで緊張していたのがまるで嘘のように、
私はいつの間にか、
おばあちゃんの応接室のソファの上で、
爆睡していた。
五見に起こされた。
「真備ちゃん、真備ちゃん」
私は、なかなか起きなかったのだろう。
何発か、頬を殴られた気がして、
ようやく私は身を起こしたのだった。
「何よ、痛いなあ」
私がしかめ面をしながら、ソファの上に起き直ると、
「まー、よくもそんな台詞を吐けるね」
脳天から突き抜けるような声を出しながら、
五見は私の側にどすんと、腰をおろした。
「私なんて、あれから一睡もしてないんだから。
もう夕方の四時だよ?もしかして、ずっと寝てたの?信じられない」
高校の制服のセーラー服のスカートがめくれるのもかまわず、
五見はソファの上であぐらをかいた。
確かに、障子の外の日の明かるさは、
夏だというのに、大分昼間の明るさを失いつつあった。
時計を見ると、夕方の四時過ぎ。
朝方から、今の今まで熟睡してしまったらしい。
「あ、ごめん、ごめん」
私は一気に目を覚まして、
台所へ走り五見にカルピスを入れて持ってくると、
「まじ、ごめんねえ」
と、まるで囚人が監視に媚びるように、
へいこらして五見に謝った。
「分かれば良し」
五見は私から、カルピスの入ったグラスを受け取って、
ソファで改めて、足を組んで言う。
四つも下の従姉妹のくせに、憎たらしいと思いつつ、
カルピスを物凄く薄く作ってやったことにほくそえんで、
私は黙っていた。
「あー、美味しい」
五見が言う。
「味、薄くないの?」
私が呆気にとられて言うと、
「え、うちのカルピスは、いつもこのぐらいだけど?」
五見は言った。
叔母さん、カルピス薄すぎ。
「さっさとやることやっちゃおう」
五見がカルピスを飲み干して言った。
「うん、おばあちゃん達、もうすぐ帰って来そうだし」
と、私もうなずいて、夜中テーブルの上に置いた爪に目をやった。
ところが、夜中にそこに置いたはずの爪は、
テーブルの上のどこにも見当たらなかった。
五見は私の顔を見て、いぶかしげに眉をひそめる。
「真備ちゃん、どうしたの?」
「いや、昨夜、あの出来事の後、このテーブルの上に爪を置いたじゃん。
そのままで、私いじってないんだけど」
私は慌てて、その辺りに這いつくばり爪を捜す。
「どこかに落っこちたのかな」
不安な気持ちを隠せず呟くと、
「ちょっと洒落にならないわよぅ」
五見も言って、慌てて床へ這いつくばり爪を探し始めた。
「おねいちゃん、真備ちゃん、何やってんの?」
ふと、応接室の入り口で声がする。
床に伏せていた私と五見は、飛び上がらんばかりに驚いた。
「七見!」
五見が素っ頓狂な声を上げた。
中学の制服を着た五見の妹の七見が、
部屋の入り口に立っていたのだった。
五見が、
黒々とした長いまっすぐな髪をしている色白の黒目がちの少女なら、
七見は、正反対の少女だった。
明るい茶色の髪をしていて、
くるくると天然のウェーブがかかっているショートヘア。
その肌は夏の日差しに小麦色に焼けていて、
愛嬌のある瞳は、私や五見とは違い、
ためらい無くまっすぐに人を見る。
同じおばあちゃんの血を引いていても、
七見には死んだ人を見ることは出来なかった。
ただ、七見は私達と違い、
異常に死んだ人や不思議な現象に影響を受けやすく、
そのせいで、いつも病気がちなのだけれど。
「何で来たの?」
五見が聞く。
「何でって、バスに決まってんじゃん。中学生になったんだもの、
バスくらい一人で乗れるわよ。おばあちゃんからメールが入ったの。
真備ちゃんが留守番に来ているから、遊びに来たらって。
おねいちゃんにも、おばあちゃんからメール来たの?」
七見は右脇に、大きなポテトチップスの袋を抱えて言った。
「まあね」
言葉をにごらせて、五見は答える。
おばあちゃんも、余計な事をしてくれたもんだ。
と、勝手な独り言を私は心の中で呟いた。
「あ、真備ちゃん。これ台所にあったんだけど、
食べてもおばあちゃんに怒られないよね」
七見がポテトチップスの袋を持ち上げて、私を見て言う。
「う、うん。大丈夫だと思うよ」
私は七見に言って、目で五見に訴えた。
どうしよう。
どうしようったって、昨夜のことは七見には内緒にしないと。
五見も目線で答える。
「で、おねいちゃんと真備ちゃん、何してるの?」
床にはいつくばる私達を見て、七見が首をかしげて言った。
咄嗟に答えに困り、五見が私をすがるように見る。
「コ、コンタクト」
私は思い切り、口からでまかせの言葉を吐いた。
「そう、コンタクトをなくしちゃって」
五見も、慌てて頷いた。
「そう、真備ちゃんのコンタクトを探しているのよ」
「え、じゃあ、七見も一緒に探してあげるよ」
「大丈夫、大丈夫だよ」
私が慌てて言う。
「あ、七見、それよりもビャクに餌やってくれる?
台所にキャットフードの缶詰あるから。こっちは大丈夫だからさ」
五見が早口で言いたたむと、七見はしばし首をかしげて私達を見た後、
「分かった」
唇を尖らせて、返事をした。
返事をしながらも、七見は抱えていたポテトチップスの袋を開けようと、
両手で掴んで構えた。
なんだか嫌な予感がして、私は七見を止めようと、
咄嗟に床から立ち上がった
次の瞬間、
バリバリッという音とともに、
大量のポテトチップスが部屋中にはじけ飛んだ。
大増量お徳用のポテトチップスの袋の口を、
七見が力の限り引きちぎった勢いで、
袋の中が全て辺りに飛び散ったのだった。
「うわあああああっ」
「あああああああっ」
五見と私は悲痛な悲鳴を上げた。
応接室中全てが、海苔塩味のポテトチップスの海になる。
「ああああ、七見のばかっ!」
五見が叫んだ。
「あああ」
私も絶望的な気持ちになって、ただ叫んでいた。
「あ、またやっちゃったあ。私袋開けるの下手なんだよね」
ぺろりと舌を出して、七見が言う。
「これじゃあ、見つけるの大変じゃないのよ」
五見は怒って七見に手を振り上げる。七見は逃げようとその辺を走り出した。
私はただただ座って、その悲惨な光景を眺めているだけだった。
これじゃあ、爪は容易に見つからないに違いない。
おばあちゃんがもう帰って来てしまうというのに。
「一体、何の騒ぎだい」
鋭い声がして、私は顔を上げた。
走り回っていた五見と七見も動きを止めて、声のするほうを見る。
「おばあちゃん!」
七見が叫んで、おばあちゃんの元へ駆けて行った。
海老茶色の粋な訪問着の着物を着たおばあちゃんが、
応接室の入り口に立っていて、呆れたように私達を見ていた。
その後ろには、おばあちゃんの助手で住み込みの家政婦をしているきつとさんもいる。
手には仙台出張のお土産の入っているらしい袋をたくさん下げていて、
相変わらず無表情に、茶色の作務衣姿で黙っておばあちゃんの少し後ろに立っていた。
「これわたし、わざとやったわけじゃないのに、おねいちゃんがぶとうとするんだよ」
七見はおばあちゃんの後ろに隠れて言った。
「あれあれ、これは本当に大変な騒ぎだ。だけど、五見七見をぶつのは、駄目だよ。
人に痛い思いをさせたら、自分だって痛いんだからね」
おばあちゃんは大きくため息をついていう。
そして後ろに立つきつとさんを振り向いた。
「きつと、掃除機をかけてくれるかい?」
掃除機!!!
私と五見はハッと顔を見合わせて、
「駄目、駄目、おばあちゃん、絶対駄目っ!」
同時に叫んでいた。
「どうして、駄目なんだい?」
まるで生き仏さながらの、優しい表情を保ったまま、
おばあちゃんが、首をかしげて私達に聞く。
その顔は、70歳を過ぎているとは思えないぐらい、
つやつやとしていた。
私達は言葉を失って、うなだれた。
「真備ちゃんのコンタクトを探してるんだって。
確かにこれじゃ、コンタクト見つけにくいや。
七見、悪いことしちゃったんだねえ」
七見もうなだれた。
七見の頭を撫でて、おばあちゃんは私に向き直る。
「あれ、真備。お前いつから目が悪くなったんだい?
それとも、あれかい?今若い人で流行のカラーコンタクトって奴なのかい?」
相変わらず、おばあちゃんの表情は柔らかい。
その時、おばあちゃんときつとさんの足の合間を縫って、
大きな白猫のビャクが、くねくねと、
部屋の中へ入ってきた。
おばあちゃんは、ビャクの背中を一撫でする。
ビャクは目を細めて、ニャーオと一声鳴いた。
おばあちゃんはビャクから、私に目を戻した。
その穏やかだけれど、真っ直ぐな視線は、
私にうむを言わせなかった。
「ごめんなさい」
私は観念して、おばあちゃんに頭を下げた。
どうせ、おばあちゃんには隠し事は出来ないのだ。
今にしろ、後にしろ、
シキのビャクが全て、
昨夜の事をおばあちゃんに伝えてしまうんだろうし。
おばあちゃんはポテトチップスの海の中、
私と五見に正座をさせて、自分も正座した。
そして、事情を説明させた。
七見はきつとさんと一緒に、夕飯の買出しに行った。
「いいかい」
全ての事情を聞いた後、
おばあちゃんは、私達を諭すように、
そして相変わらず、優しい表情で言った。
「この世には、自分の手に負えるものと、負えないものとがある。
そして、どちらが多いかと言えば、後者の方が多い。
それが、俗人である私たちの生きる、俗世というもんだ。
だから、決して自分をうがってはいけないよ。
自分なんて、この世の森羅万象の出来事に比べたら、
本当に小さくて、取るに足らないものなのだから」
五見と私は、ひたすら頭を下げて、
おばあちゃんの言葉に聞き入るだけだった。
「でも、やってしまったことは仕方が無い。
後は、出来るだけのことをするだけさ」
おばあちゃんは言うと、
ポンと手を打った。
すると、
ビャクがスタッという感じで、
どこからともなく、この世のものとは思えない、
シキさながらの、恐ろしい速さで私達の前に飛んできた。
「お前、分かるかい?爪がどこにあるか」
おばあちゃんが優しく、ビャクに問いかける。
ビャクは一声「ニャオーン」と鳴くと、
正座する私の膝の上に、飛び上がってきた。
そして、私の頭をその前足でぴしゃりと叩く。
「痛てっ!」
私はビャクにはたかれた頭を手で押さえた。
爪は出してはいなかったものの、
ビャクの力は相当のものだ。
叩かれた右のこめかみの上辺りが、じんじんと痛んだ。
ビャクが私の頭をはたいた後、
ポロリと何かが落ちてきた。
それは、無くした例の小指の爪だった。
「封印するのも、辺りを彷徨わせるのも、
どちらも可哀想な事だ。
だけど、どうせ抱いている憎しみがなくならないのなら、
そのまま冬眠させてしまうのも、供養というもんなんだよ」
おばあちゃんは、悲しげな感じで言った。
その表情は、
まるで生きている人では無いかのように、
はかなげで、尊いものだった。
おばあちゃんは、ビャクが見つけた爪を大事に手に取った後、
「さて、この爪を元に戻してから、
お夕飯を食べようかね。お土産に、仙台の牛舌を買ってきたよ。
久しぶりに賑やかな食卓になるねえ」
明るく言った。
五見も私も、大したお咎めも無かったので、
ほっとした様子で、頷いていた。
だけど、
どうして、ここまで見知らぬ人の苦悩を、
まるで自分の事のように預かって、
背負わなければいけないのか。
私は、おばあちゃんに問い詰めてみたい気分になっていた。
あの部屋の、人形を初めとする多くの因縁物は、
あまりに多すぎる。
「真備」
おばあちゃんは、まるで私の心の中の呟きを聞きつけたように、
私の名前を呼んだ。
私はハッとして、息をつめおばあちゃんを見る。
「お前は、優しい子だね」
おばあちゃんは、まるで幼い子にするかのように、
私の頭を撫でた。
「お前にも、いつか分かるときが来るだろうよ」
質問の投げかけをする前に、
おばあちゃんに答えられてしまった。
私が優しい。
どこがどの辺が?
おばちゃんに問い詰めてみたくなった。
でも、やめた。
おばあちゃんが「いつか分かるときが来るだろう」というのだ。
きっと、そうに違いない。
その時が来たら、
分かるのだろうか。
私が私という人間を生きる意味も。
おばあちゃんは、
その人形にまつわる、ある人形師の話を静かに始めた。
それはとても、
切なく悲しい物語だった。




