人形師 5
私と五見は息を切らしながら、
おばあちゃんの家の数ある部屋の一室で、
客用の布団が仕舞ってある襖の中を全て引っ張り出して、
今夜来るべきものから隠れる場所を作っていた。
「真備ちゃん、おばあちゃんの祈祷室の、
神棚のお酒持ってきて!」
ふと、五見が叫ぶ。
「へ?祈祷室?」
私が言うと、五見は叫んだ。
「おばあちゃんが信者さん達を迎える応接間に、
神棚があるでしょ?そこの神棚に神様に上げてるお酒があるはずだから、
それ取ってきて!」
私は訳も分からず、五見に頷いた。
そして、ダッシュで居間へ走ろうとする。
その時。
音という全ての音が、消えた。
庭で鳴く虫の声も、道路を通り過ぎる車のタイヤの音も、
自分の息遣いさえも、全て何も聞こえなくなった。
唐突に、辺りは無音になったのだ。
走り出した私は驚いて立ち止まった。
急に耳が真空パックの中に入れられたようだった。
自分の耳が無くなったのかと思った。
それほど、何も聞こえなくなったのだ。
五見もはっとして、私を見た。
やがて、
かすかな啜り泣きが、どこからともなく、
静寂の中を縫って聞こえてきた。
「・・・・どこへ行ったのじゃ・・うらめしや・・」
私は恐ろしさに固まった。
どうやら声は、さっきの人形が置いてある部屋の方角からのようだ。
今私達がいるこの部屋は、
その人形が置いてある部屋から、一番遠い位置にある。
五見も一瞬、固まって動かなかった後、
慌てて、私に向かって両手を振った。
そして自分の着ていたジャージを脱ぎだす。
一体何を始めたのかと思って、私がそこにとどまって見ていると、
気がついた五見が、またしても勢い良く手を振った。
行け、早く御神酒を取って来い。
という仕草だ。
その後、五見はジャージの下まで脱ぎ始めた。
私がそれでもまだ見ていると、とうとう五見が声に出して叫んだ。
「早くしてよっ!!!!」
私は堰を切ったように、応接室に向かって走り出した。
暗い廊下を足を滑らせながら走って、応接間の障子を急いで開ける。
すーっと障子は音も無く開いて、私はその中へ身を滑り込ませた。
電気をつけるのももどかしく、
ほのかな月明かりだけで部屋の中を見回す。
お客さんを迎える為の、重厚な座卓と座椅子が置かれた部屋の奥、
天井近くに、五見が言ったように神棚があった。
その辺に体をぶつけながら、私は神棚に走りより、
背伸びをして手を伸ばすと、白い綺麗な陶器の徳利を掴んで下ろした。
鼻を近づけると、プンと酒の匂いがする。
今夜は充分に酒が足りている私は、少しオエとえずきながら、
部屋を走り出した。
部屋に戻ると、五見は箒に自分の脱いだジャージの上下を穿かせていた。
何をやっているんだろうと思いながらも、
「五見、お神酒持って来たよ」
私が早口でささやいて言うと、五見は早口で言った。
「真備ちゃん、そのお酒をそこの襖の上下四隅のふちに塗って!」
「え?」
「いいから、早く塗って!」
私は言われたとおり、手のひらにお神酒をこぼすと、
布団を引っ張り出した後の空っぽの襖の中、
上下四隅に酒で線を引くように塗りはじめた。
五見はジャージを着せた箒を部屋の反対側の壁に立てかけ、
「いてっ」
なにやら髪の毛を数本抜いて、そのジャージの胸ポケットに入れて、
ジャージを脱いだ後の、Tシャツとパンティだけの姿で、
こちらへ走って戻ってきた。
「真備ちゃん、これから絶対に音とか声出しちゃ駄目だよ、分かった?」
何が何やら分からず、私が頷く。
「こんなの、どこであんた覚えたの?」
私が早口で聞くと、
「本で読んだのよ。映画にもなったシリーズものの。
あの「カンサイ」だか「マンザイ」だかっていう人が出ているやつよ」
「それって・・・・もしかして、野村萬斎のこと?
「陰陽師」じゃん!ちょっと、そんなんで大丈夫なの?!」
私が悲鳴のように言うと、
「何もやらないよりましでしょ。早くっ!」
五見は私を襖の中に押し込んで、自分も入ると襖の戸を閉めた。
私が中に入ってもなお、口を開こうとすると、
五見はバシリと手のひらで私の口を塞いだ。
そして、自分の口の前に人差し指を立てる。
仕方なく、私は黙ったのだった。
気配がした。
廊下がきしる音。
人が歩いている。
ゆっくりと。
ぎし、ぎし、ぎし。
そして、時々、泣き声のような、囁きのような、
か細い声がした。
「いずこじゃ、ヨウシチロウ様・・・うらめしや・・・」
ヨウシチロウ。
私と五見は顔を見合わせた。
誰なんだろう。
声は、おばあちゃんの家を彷徨いはじめていた。
どうやら、封印を解かれたものは、
その肉体を失ってさえからも、
恨んで妬んでいたものを捜し求めているようだった。
恨んで妬んで彷徨っているそれは、かつて生きている人間だった。
それも、女だ。
誰にもそんなことは聞いていないのに、血の呪いの遺伝が、
私と五見にそう告げていた。
でも、いつものように他の死者が送ってくる、
それ以上のイメージは来ない。
どうして死んだのか、何故こうなったのか、
それこそが知ってもらいたいと、
他の普通の死者が伝えてくるようなイメージは、一切無かった。
それからも、これが普通の死者ではないと明確に分かることだ。
ぎし、ぎし、ぎし。
家の廊下はきしる。
時々は、他の部屋の障子が開けられる音も聞こえてきた。
それは、探しているのだ。
何を?
私は声に出さない疑問を、すぐ目の前の五見の顔にぶつける。
さあ、
五見は目と表情で答えた。
やがて、
それは、私達のいる部屋にやって来た。
月明かりに照らされて、
人形を抜け出たその何かが廊下をやって来て、
私達の潜む部屋の障子越しに、ぬっと影となって現れた。
襖を少し開けて覗く、私達の息が荒くなった。
障子に映る影の黒いシルエットは、
はっきりと、着物を着ている女の人の形をしていた。
やはり、もとは死んだ人間なのだ。
ただ、シルエットには普通の人間には無い影があった。
角だ。
その着物を着た女性は、日本髪に髪を結っていた。
その上に、突き出た不恰好な大きい尖ったものが突き出ていたのだ。
鬼だ。
私が目で五見に言うと、
目を見開いて、五見も頷いた。
部屋の障子がずるずると音を立て、
ゆっくりと開き、
それは私達の潜む部屋の中へ入って来た。
私達は、この時はじめて、
その念の強さから実態と化した、
鬼を目の当たりにしたのだった。
人間とは、心次第で仏にも鬼にもなれる。
言葉では分かっていたけれど、
真実は言葉の認識を上回る。
それを身を持って感じた瞬間だった。




