マル
仕事を終えて帰り支度をしていると、
職場の仲間達が、何だか騒いでいた。
「和ちゃんの、家の鍵がなくなっちゃったんだって」
別に聞いてもいないのに、その中の一人が私に言ってくる。
「ふーん、大変だねー」と、
心にもない追従を言って、私は着替えを続けていた。
居酒屋という職場柄、仕事が終わるのは終電に近くて、
誰も彼も一分一秒でも早く店を出たい。
その間際で、家の鍵をなくしたと騒いでいる人がいるのは、
とても迷惑なことなのだけれど、まさか無視して帰るわけにも行かず、
世間という波を穏やかに乗り過ごして生きたいと思っているような他の人達は、
面倒くさいと言う気持ちを隠して、
お付き合い上、その辺を探してみたりして騒いでいるのだった。
私といえば、他の人達と仲良くなるとか理解しあうとか、
そういった群れて暮らすための動物的な本能のような欲求は、
もうとっくの昔に諦めてしまっていることなので、
上辺だけの同情とか親切とは程遠い無表情で、
更衣室を先に出ようとしていた。
「あ、ごめんねえ」
声とともに、私の足元に赤い定期入れが転がってきて、
私は足を止めた。
和ちゃんの定期入れだ。
中に毛むくじゃらの犬の写真が入っている。
マルチーズとシーズーを合わせたような雑種の犬だ。
「どうもありがとう」
拾って渡すと、女子大生バイトの和ちゃんは言って私から定期入れを受け取った。
「飼い犬なの?」
なるたけ愛想の良い言い方をするように心がけて、
私は和ちゃんに聞いた。
ちょっとこの犬の写真に心当たりがあったからだ。
「うん、この間死んじゃったんだけどねー。12年飼ってたんだ」
「そうなんだ」
私が答えると、和ちゃんは少し寂しげな笑みを浮かべて、
鍵を探しに更衣室にまた戻って行った。
店を出た。
終電までにはまだ少し時間がある。
私はまっすぐ駅には向かわず、寄り道をして、
店の裏側にある従業員の自転車置き場があるところへと向かう。
「まだいたか」
呟いて、私は立ち止まった。
持ち主不明の自転車数台が、
放置されているような薄暗い従業員の自転車置き場で、
一匹の白い毛むくじゃらの小さい犬が、
一生懸命コンクリを前足で引っ掻いているのを見つけたのだった。
実はこの犬は、私が一服休憩で今日の夕方タバコを吸いに何気に店の裏側のここに来たときにも、
こうして自転車の並ぶ合間のコンクリの地面を引っ掻いていた。
何かを一生懸命掘り出すかのように、一心不乱にコンクリの地面を引っ掻いていたのだった。
「和ちゃんの犬だったか」
そう呟きながら、死んでもなお飼い主を思いやるその忠信に感心して、
私は犬がほじくっている側へと近寄って行った。
放置されたのか、時間に間に合わなくて乗り捨てたのか、
乱暴に止められている三台の自転車のペダルの間に、
赤い鈴のついたキーホルダーが落ちていた。
和ちゃんの家の鍵だろう。
どうしてここに落としたのかは知らない。
だけど、この鍵は和ちゃんの物に違いないのだ。
白い毛むくじゃらの犬は、
一生懸命その鍵を取ろうと地面を引っ掻き続けていたからだ。
犬の背中越しに、私は手を伸ばして鍵を拾った。
チゃリンと、赤い小さい鈴が可愛らしい音を立てた。
犬はちらりと私を振り返るなり、私の拾った鍵にじゃれついた。
まるで「こらっ、取るな!」とでも言うように。
そして、消えた。
どうしようかと、しばらく悩んだ。
この鍵を、和ちゃんに渡すのが普通なのだろうけれど、
これを見つけた過程がもともと普通ではないのだから、
悩むところだ。
後は、私の人間としての器がどうかという問題なのだろう。
そんなことは分かっている。
悩んだ挙句、私は鍵を持って店の更衣室へと戻って行った。
和ちゃんとその他数人は、まだおおわらわで、
和ちゃんの失くした鍵を探していた。
「これ」
私が声をかけると、一斉に彼女達は振り返った。
帰ったはずの私が戻ってきて、びっくりしたようだった。
「自転車置き場に落ちてたよ」
その後は、わああっという歓声が上がって、
何がなにやら分からないほど、感謝の声が上がった。
和ちゃんより、一緒に探していた人達から声が上がる。
よっぽどこの騒ぎにうんざりしていたんだろう。
「ああ、そういえば急いで出勤したから、
あの辺りで転んでバッグをぶちまけちゃったんだった」
和ちゃんが、ひらめいたと言う感じで叫んだ。
「でも、どうして見つけられたの?」
和ちゃんが言った。
「犬がね」
私はちょっと緊張して肩をすくめて、言った。
「一生懸命、その鍵を拾おうとしてたのを見たのよ。その写真の犬」
和ちゃんの目が、大きく見開かれる。
「なんちゃって。たまたま見つけたのよ」
私はあわてて付け足した。
そしてふざけて肩をすくめて見せる。
やっぱり、まだ私は器の小さい人間なのだ。
帰り間際、誰かがひそひそ和ちゃんに言っていた。
「真備ちゃんは、ちょっと怪しいとこあるんだよね・・」
「本当は、盗んだのかもしれないよね・・」
「あの人、霊感があるとか言われてるらしいけど、どんなもんだか」
「わざわざ犬がって話、さっき定期入れの犬を見たせいかもしれないし」
「怪しすぎるよねえ・・・」
聞こえよがしの悪口は、箸にも棒にもかからない。
飼い主を思って、死んだ犬が何かを教えようとしていても、
それを分かってやれないのが普通の人間なのだ。
そして、それを分かってしまう私の方が異常なのかもしれない。
電車の時間が迫っていたので、
気を取り直して、小走りに私は駅に向かった。
馬鹿なことをしたもんだ。
何も言わずに鍵を渡せば良かったのに。
もしくは、知らん振りをしてれば良かったのに。
和ちゃんが追いかけてきた。
無視して私は走り続ける。
「ねえ、ねえ」
和ちゃんは息を切らしていた。
その必死さに、走る私の足も緩んでしまう。
「マルは、元気にしてた?マルは、幸せそうだった?」
和ちゃんは、私にすがるように言った。
私は立ち止まって和ちゃんを振り返った。
「あの犬、マルっていう名前なの?」
私が言うと、和ちゃんは涙ぐんでいた。
そして、何度も何度もうなずいた。
少し迷った挙句、私は言った。
「私が鍵を拾ったら、勢い良く鍵に飛びついたよ。
まるで、和ちゃんのだから取るなって感じで。
でも、それまでは一生懸命和ちゃんの鍵を取ろうと、
コンクリの地面を一日中、引っ掻いていたんだよ」
「そうなんだ。そうなんだ・・・」
和ちゃんは嬉しそうに、そして涙を流して言った。
12年も飼っていた犬は、本当に可愛いかったんだろう。
死んでしまって、いなくなってしまって、
とても寂しいんだろう。
そういう気持ちは、第三者で見ている私にも分かる。
和ちゃんと一緒に涙ぐんでしまうほど。
でも、死んでしまっても、
死んだものは決して、
それきりいなくなるということではないということを、
どうして彼女のような普通の人に伝えたらいいのだろうか。
いや、本当は伝えるべきではないのかもしれない。
普通に分からないことを、普通じゃない手段を経て、
分かることはあり得ないだろうし。
和ちゃんが私をどう思ったかは知らない。
それ自体は、別にどうでもいいことだから。
私は私だけのこの目に見えることを、
結局、軽はずみに口に出してはいけないのは事実なのだ。
気をつけなければならない。
死んだものや、他の人には見えないものを、
見えるのだと、軽々しく口に出してはいけないのだ。
それも今回は職場だ。
失敗した。




