3. 奥様なら、ここで伺います
「検算の結果を、奥様へお届けいたします。どのように申し上げましょう?」
私はお盆を下げ、返事を待った。帳簿はもう閉じている。それでも手紙は脇へ片づけられず、旦那様の手元にある。折り目の上に置かれた指まで、つい目で追ってしまう。
「指摘のとおり直す、と頼む」
「お手紙の出来についても、お言葉をいただけますか?」
山形の濃い眉が、また寄る。少々欲張りすぎただろうか。私はお辞儀の角度を保ち、顔だけをそっと上げた。
「……手際は見事だ。それも付け加えろ」
「はい! きっと、お喜びになります」
声が弾む。右頬のえくぼまで見せてしまい、私は慌ててお盆を引き上げた。縁の向こうから、旦那様が不可解そうにこちらをうかがう。奥様に届く前に喜ぶ侍女では、無理もない。
◇
四日目の夜も、私は配膳室の暖炉前で茶を淹れていた。薪のはぜる音に、開いた扉の向こうから水音が重なる。料理番が明日の豆を浸すそばで、茶の香りが湯気とともにほどけていく。
「明日、コルネーリアが来るという。妻に会って昼食を共にすると、一方的にな」
「コルネーリア……様ですか?」
「いやまぁ、昔ちょっと縁のあった女だ」
「奥様は、お招きになったのですか?」
「いや。私の帰還を聞いたらしい」
旦那様の手には、来訪を告げる書き付けがある。私は茶器を寄せ、空けた場所へ置いてもらった。客を迎える支度より、紙の置き場が先に要るお招きらしい。
「では、お食事もまだお約束ではありませんね」
「妻は金のかからぬ返事を寄こすだろう。食事も茶も、用意するなとな」
「勝手に決めないでください! 奥様にも、お相手を選ぶお考えがございます」
茶壺の取っ手が、指に食い込んでいた。注ぎ口を戻してから、ようやく自分の声の大きさに気づく。侍女の口から出すには、あまりに私の言葉だった。
旦那様の視線が茶壺から私の顔へ移る。椅子の背が、かすかにきしむ。
「……まだ聞いてもいない返事だったな」
「どういうお知り合いか、伺ってもよろしいですか?」
旦那様は茶を見下ろした。私は空の盆を膝に置く。湯気の向こうの口元が動くまで、急かさずに待つ。
「以前、親しくしていた相手だ。贈り物を喜ぶ顔を、私への気持ちだと間違えた」
コルネーリアは子爵令嬢だという。終わった間柄だと付け足す声は短く、そこで話の端を切り落とすように聞こえた。
「要は女の気持ちが分からん男なのだよ」
「最初から分かっている男性などいらっしゃいませんよ」
「はぁ……。妻もな、顔を見れば、また同じ間違いをするかもしれん」
私は自分を拒絶した公爵の本音を聞き、何とも言えない気持ちになった。
「奥様のお働きは、もうご覧になっていますよね……?」
旦那様が顔を上げる。濃緑の瞳にまっすぐ見られ、盆を支える指が止まった。今、その目が私を通り越していかないことだけは分かる。
「所詮金で結んだ結婚だ。妻も迷惑に思っているに違いない。顔を見て情が湧いたら困るではないか」
「奥様の肖像画もありますよね?」
「包みすら開いていない。自分で決めたことだ」
誰の顔でも忘れる人なのかと、私は思っていた。けれど、この人の言葉どおりなら、忘れたのではなく、あえて見なかったのだ。
「旦那様のお考え、よく分かりました」
けれど、その決まりの外で待つ側には、何も聞こえない。私は茶壺を傾け、空いた茶器を満たした。細い湯気が間に立つ。
「でも、そのお気持ちまで、奥様はご存じでしょうか?」
「……知るはずもない。金の条件ははっきりしていたから、それでよいとした」
私が決めた金額ではない。唇まで来た言葉をのみ込み、給仕の返事に戻すまで、わずかに間があいた。飲んでもいない熱い茶が、喉に引っかかったようだ。
「妻には客への返事を頼む。以前の席が今もあるつもりで来られては困る」
「以前は、どちらのお席に?」
「私の隣だ。昼食の後も居残り、夕食まで待つことがあった」
そこまでは伺っていない。足りない情報に、ご本人がたっぷりと注ぎ足してくださる。私は盆を胸元へ戻し、口元を隠した。
「奥様へお知らせすることが、ずいぶん増えます」
「詳しすぎる手紙が来たら、君が話したと分かるな」
「お話の出所は、たいへん確かでございますね、旦那様」
旦那様の指が、書き付けの端を離す。その目を正面から受け止めるには、私も口を結ぶ時間が少々必要だった。
部屋に戻り、ご期待に応えられる昼食はすぐには出せないので、私への面会は受けないと手紙に記す。ただし門前のベンチで、温かいお茶を一杯だけお出しする。紙の上なら、私は私の名で決められる。ケーテに応対を任せるよう願い、妻の名を添えた。
◇
翌朝、書斎前で手紙を渡す。旦那様は立ったまま、終わりまで目を通した。給仕の確認に来た侍女頭も横に控え、廊下には紙を持ち直す音だけが響く。
「簡潔だな。客を招いていないという理由も、よく分かる。……だが、茶は出すのか?」
「お帰りの前に、温かいものを一杯。奥様のお考えです」
「食事は出さずに、茶は出す。妙に行き届いた女だ」
「お昼の人数は、いかがなさいます?」
侍女頭の問いは、私の隣を通って旦那様へ向かう。旦那様は手紙の一行を指で叩いた。
「妻の返事のとおりだ。増やさなくていい」
侍女頭の丸く高い頬が上がる。旦那様はうなずき、署名のある手紙を私へ返した。紙越しに指の温もりを探しそうになり、私は両手をきちんと揃える。
「応対はケーテに任せる。妻の返事を、そのまま渡せ」
「奥様の返事として、そのままお伝えいたします」
侍女頭と並んで門へ向かう。厨房では人数を増やさない指示が届き、余分な皿が棚へ戻されていた。かちゃりという小さな音に、背筋が伸びる。私の返事で、この家の支度が決まる。
◇
門の鉄に触れると、朝露の冷たさが指先へ染みた。盆に載せた茶碗は一つ。白い湯気が、門の外へ細く流れていく。
馬車から降りたコルネーリアは、艶めく赤い髪を手で整えていた。私が迎えに出ると、その足はまだ開いていない門へ向かう。こちらが道を空けるのを疑わないような、迷いのない歩みだ。
「奥様に会わせて?」
「奥様は本日の面会もお食事も、お約束になっておりません。こちらは、奥様からお客様へのお茶です。どうぞそちらのベンチにお掛けになって……」
「まあ。わたくしと話せば、いろいろ教えて差し上げられるのに?」
彼女の視線が私の帽子をなぞり、盆の茶碗へ落ちる。隣では侍女頭が手を揃え、門の内側に立った。足元に落ちる鉄格子の影を、誰もまたがない。
「あなたはお茶だけ運んでいればいいの!」
「お会いになる相手は、奥様がお決めになりますので」
「あなたとは話していません! 奥様に取り次ぎなさい!」
私は盆を支え直し、署名のある手紙を示した。コルネーリアの手が差し出され、紙に届く前に宙で止まる。
「こちらが、そのお返事です。旦那様にもお読みいただいております」
「では公爵様に、わたくしがここで待っていると知らせて」
「このお返事で応対するよう、旦那様からも任されております」
彼女は私の肩越しに、門の向こうをのぞこうとした。侍女頭はそばを動かない。私も盆を傾けずに立つ。
「昼食の時刻まで、ここに立たせるつもりなの?!」
「お待ちになっても、お食事はお出しできません。お茶が冷めないうちに、そちらのベンチでどうぞ」
受け取れる高さへ盆を差し出すと、コルネーリアは唇をきゅっと引き結んだ。茶碗へ伸びる手はない。湯気ばかりが、遠慮なく彼女のほうへ流れる。
「奥様は、さぞお忙しいのね!」
「はい。いまも大変に面倒くさいお仕事をなさっております」
横で侍女頭が咳払いをする。私は口元を引き締め、礼をして踵を返した。
背後から届いた声は、先ほどより低い。
「あの侍女、何者?」




