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二月三日の水門(超短編)

 二月三日。

 東京の空は、痛いほどに澄み渡った快晴だった。

 雲ひとつない青。

 冬特有の、高く、突き抜けるような空だ。


 都立中高一貫校の受検日。

 私立中学の入試が「受験」と書くのに対し、公立である都立は「受検」と書く。知識の量を問うのではなく、適性を検査する。倍率は六倍。六人に五人は落ちる、理不尽な椅子取りゲームだ。

 父である私と、息子のかけるは、電車に揺られていた。

 朝の通勤ラッシュの時間帯だ。車内は殺気立った会社員たちで埋め尽くされているが、私たちは運良く座席に座ることができていた。

 最寄りが始発駅だったおかげだ。

 目の前には、吊革に掴まる大人たちの壁がある。その圧迫感から逃れるように、私は隣の息子を盗み見た。

 翔は、参考書を開くでもなく、ただ車窓を流れる街並みを眺めていた。

 膝の上には、妻が持たせたリュックサックが置かれている。

 そのリュックを見て、私はふと、胸を締め付けられるような感覚に襲われた。

 いつも塾に行く時は、分厚い電話帳のような参考書や過去問集でパンパンに膨れ上がり、形が崩れるほど重かった。背負うだけで肩にベルトが食い込む、知識の塊。

 けれど今日は、ぺしゃんこに萎んでいる。

 中に入っているのは、クリアファイルに入れた受検票と、筆箱、そして「直前にこれだけは見直す」と決めたノートが一冊だけ。

 あまりにも軽く、心もとない。

 だが、その物理的な「軽さ」は、彼が積み上げてきた三千日近い日々の結晶だった。

 四年生からの三年間。

 学校の友達が放課後に公園へ走っていく背中を、彼は何度見送っただろうか。

 夏休み、近所から聞こえる花火の音を、冷房の効いた塾の自習室で、計算問題を解く音でかき消した夜が何回あっただろうか。

 遊びたい盛りだ。ゲームもしたいし、漫画も読みたい。眠たい朝もあったはずだ。

 それでも彼は、小さな背中にあの重いリュックを背負い、文句ひとつ言わずに通い続けた。

 きっかけは、私のエゴだったかもしれない。

 「いい環境で学ばせたい」「将来の選択肢を広げてやりたい」。そんな親の勝手な願いを、彼は「うん、わかった」と受け入れた。

 私の夢に、私の見栄に、この小さな体で付き合ってくれたのだ。

『受検ってさ、意外といいもんだね』

 昨日の夜、夕食のヒレカツを頬張りながら、翔は能天気に言った。

『だってお母さん、毎日すごいご馳走作ってくれるし。終わったらゲーム解禁だし。なんか、イベントみたいでワクワクする』

 その言葉を聞いた時、私は泣きそうになった。

 彼はもう、私が守るべき小さなメダカなどではなかった。

 過酷な環境さえも「ワクワクする」と笑い飛ばせる、私よりもずっと強く、逞しい一人の人間になっていた。

「父さん、貧乏ゆすり」

 翔に小声で指摘され、私はハッとして足を止めた。

「……悪い」

「俺が受けるんだよ? なんで父さんがビビってんのさ」

 翔はマスク越しにニカっと笑った。

 ああ、かなわないな、と私は思った。この期に及んで親を気遣う余裕まであるなんて。

 最寄駅に着き、私たちは並木道を歩いた。

 日差しは暖かいが、風は冷たい。

 周りには同じような親子連れが多くなる。どの顔も強張っているが、うちの息子だけは「あの犬、でかいな」などとキョロキョロしている。

 校門が見えてきた。

 都立の朝は静かだ。私立のような派手な応援合戦はない。

 ただ、校門の前に引かれた白い線が、世界を二分しているだけだ。

 保護者が入れるのは、ここまで。

 ここから先は、子供だけで行かなければならない。

「じゃあ、行ってくるわ」

 翔は立ち止まり、ぺしゃんこのリュックのベルトを締め直した。

「ああ」

 言いたいことは山ほどあった。

 記述は空欄にするな、字は丁寧に書け、時間配分に気をつけろ。

 でも、そんなアドバイスはもう不要だ。彼は私以上にそれを理解している。

 私が伝えるべき言葉は、一つしかなかった。

「翔」

 私はしゃがみ込み、息子の目を見た。

「……よく、頑張ったな。三年間、本当によく頑張った」

 声が震えた。

「父さんのわがままに付き合ってくれて、ありがとう」

 翔は少し驚いたように目を丸くし、それから照れくさそうに鼻をかいた。

「何言ってんの。俺がここに行きたいって決めたんじゃん」

 そう言って、彼は軽く拳を突き出してきた。

 私も慌てて拳を合わせる。グータッチ。

 その手は、ゴツゴツとしていて、温かかった。いつの間にか、私を守ってくれそうなくらい大きな手になっていた。

「行ってきます!」

 翔は迷いのない足取りで、校舎の方へと歩き出した。

 一度も振り返らなかった。

 その背中は、頼もしくもあり、同時に胸を抉られるほど寂しく、そして何よりも誇らしかった。

 息子の姿が昇降口の影の中に吸い込まれ、見えなくなった。

 周りの保護者たちは、三々五々、駅の方へと戻っていく。

 けれど、私の足は動かなかった。

 八時三十分。

 検査開始の時刻。

 キーン、コーン、カーン、コーン……。

 冷たく澄んだ大気を震わせて、チャイムの音が響き渡った。

 その音は、青空の彼方へ吸い込まれるように高く、どこまでも透明に響いた。

 それは、戦いの始まりを告げる合図であり、同時に、巨大な水門が開く音だった。

 堰き止められていた水が、一気に海へと流れ出す。

 もう、私の手は届かない。彼は、彼自身のヒレで、流れに逆らい、あるいは乗りこなし、進んでいくしかない。

 チャイムの余韻が消えると、世界は完全な静寂に包まれた。

 

 私は深く息を吐き出し、空を見上げた。

 視界が、不意に歪んだ。

 鼻の奥がツンと痛み、熱いものがこみ上げてくる。

 

 涙を堪えようと、私は空を仰いだ。

 だが、ダメだった。頬を伝って熱い雫がこぼれ落ちた。

 それは悲しみの涙ではない。

 我慢を強いてきた罪悪感と、それを乗り越えた息子への尊敬と、そして彼が私の手元から巣立っていく寂しさがない交ぜになった、温かい涙だった。

 あいつなら、大丈夫だ。

 美味しいものを食べてワクワクできる図太さと、三年間耐え抜いた強さがあれば、どんな海でも泳いでいける。

「泳げ」

 私は誰にも聞こえない声で、震えるように呟いた。

「泳げ、翔」

 涙が乾くまで、私は空を見上げ続けた。

 背中の後ろで、静かな戦場が、ただ青く澄み渡っていた。

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