偏差値水槽のマーメイド
第一章 酸素の濃すぎる部屋
西野陸の朝は、午前六時三十分の電子音で強制的に幕を開ける。
目覚まし時計のアラームではない。リビングにあるスマートスピーカーが、母の設定したスケジュール通りに、BBCの英語ニュースを大音量で流し始めるのだ。
陸は重たい瞼をこじ開け、天井を見上げる。真っ白なクロス。四隅に設置された監視カメラのような火災報知器。
水槽の照明がオンになった。
今日もまた、泳ぎ続けなければならない一日が始まる。
リビングへ降りると、既に母の香織は戦闘服であるエプロンを締め、キッチンに立っていた。
「おはよう、陸くん。昨日の『計算と一行題』のタイム、三十秒落ちてたわよ。寝起きで脳が回ってない証拠ね」
「……おはよう、お母さん」
挨拶よりも先に、データの分析結果が飛んでくる。
ダイニングテーブルには、完璧にカロリー計算された朝食が並んでいた。脳のエネルギー源となるブドウ糖を効率よく摂取するためのバナナとヨーグルト、記憶力を高めるレシチンを含む納豆、そしてサプリメントの錠剤が三粒。
陸は椅子に座り、無言でスプーンを動かした。味はしない。ただ、燃料タンクに有機物を充填しているだけの作業だ。
壁一面を覆うホワイトボードには、今日の日付と共に『二月一日 開成中学入試まで あと48日』という文字が、赤いマグネットで強調されていた。
その下には、分刻みのタイムテーブル。
06:30起床・英語リスニング。07:00朝食。07:20計算・漢字・理社コアプラス。07:50登校……。
陸の人生において、「自由時間」という概念は存在しない。トイレに行く時間さえも、ドアの内側に貼られた歴史年号の語呂合わせを見る時間として定義されている。
「今日の学校の給食、パンでしょう? 炭水化物が多いから少し残しなさい。その分、夜の塾前のお弁当で調整するから」
母は陸の皿から、食べかけのパンの耳をちぎり取った。
「はい」
陸は従順に頷く。
母は飼育員であり、陸はその管理下にある貴重な観賞魚だ。水温、pH、餌の成分。すべてが最適化されていなければ、母の気が済まないのだ。
午後五時。都内最大手の進学塾「叡智館」自由が丘校。
陸は、専用のエレベーターで最上階へと運ばれていた。扉が開くと、そこは別世界だ。
高性能の空気清浄機が唸りを上げ、フィルターで濾過された直後の水のように人工的な空気が漂っている。ホワイトボードマーカーのツンとする揮発臭と、殺菌された床の匂い、そして緊張した子供たちが発する微かな汗の匂いが混ざり合った、独特の「塾の匂い」。
S1クラス。
選ばれし上位十二名だけが在籍を許される、この校舎の頂点。
窓のない密室には、LEDの白い光が影ひとつ許さない密度で降り注いでいる。深海とは対極にある、暴力的なまでの「浅瀬」の明るさだ。ここでは、誰も隠れることができない。
陸は、最前列の中央――通称「指定席」に座っていた。
ここは、前回の公開模試で四科目偏差値72以上を叩き出し、かつ校舎内順位で一位を取った者だけに許される場所だ。
水槽で言えば、給餌ポイントに最も近い、ボス魚のポジション。
だが、その座り心地は針の筵に近い。
カチ、カチ、カチ。
背後から、不快なノック音が聞こえる。二列目に座る「高田」だ。彼は前回の模試で陸に敗れ、一位の座を奪われた。その苛立ちが、ボールペンのノック音となって陸の背中を突いている。
振り返ってはいけない。反応してもいけない。
ここで弱みを見せれば、彼らはピラニアのように一斉に襲いかかってくる。ここでは、友情よりも順位が優先される。隣の席の人間は、友達ではなく「蹴落とすべき敵」なのだ。
「はい、顔を上げろ。ここ、今年の開成で狙われるぞ」
国語科のトップ講師である佐久間が、太い指で黒板を叩いた。その声は水中スピーカーからの振動のように、陸の鼓膜を直接揺さぶる。
陸は反射的にシャープペンシルを動かした。脳よりも先に手が動く。パブロフの犬ならぬ、パブロフの魚だ。
黒板に書かれた『他者理解の欠如』というキーワードをノートに写し取る。
――他者理解。皮肉な言葉だ。
この教室にいる全員が、他者の気持ちなど考えていない。考えているのは、偏差値と、親の顔色と、自分のプライドだけだ。
陸も同じだ。今の自分の心なんて、自分でもわからない。ただ、講師が求める「正解」を、AIのように出力するだけのフィルターになること。それが、この水槽で生き残る唯一の術だ。
息苦しい。
最新の空調システムは完璧に酸素濃度を管理しているはずなのに、陸の肺は常に酸欠を訴えていた。
「君たちの将来のために」「今が一番の頑張りどきだ」「一月の努力が一生を決める」「勝てば官軍、負ければ敗残兵」
大人たちが巨大なポンプで送り込んでくる過剰な期待が、水流となって陸の身体を押し流そうとする。エラを強制的に広げさせられ、飽和状態の酸素を無理やり血管にねじ込まれているような感覚。溺れているのに、もっと吸えと強要される。
授業の合間、二十分間の食事休憩。通称「塾弁」の時間。
ここでも、空気は張り詰めている。
S1クラスの生徒たちは、誰一人として笑いながら食事をしたりはしない。参考書を開いたまま、あるいは単語カードをめくりながら、黙々と弁当を口に運ぶ。
陸は、母が持たせてくれた保温ジャーを開けた。
中身は、牛ヒレ肉のステーキ丼と、温野菜のサラダ。
周りの生徒たちがコンビニのおにぎりや、菓子パンを食べている中で、陸の弁当は異質だった。完璧すぎるのだ。
「うわ、西野、今日もすげえ弁当だな」
高田が横目で覗き込み、揶揄するように言った。
「お母さんの愛が重すぎて、胃もたれしそう」
周りの数人が、クスクスと笑う。嘲笑の泡が立つ。
陸は何も答えず、黙って肉を噛み切った。
柔らかい。最高級の肉だ。だが、飲み込むのが辛い。
この肉は、母の「投資」だ。
『これだけお金と手間をかけているのだから、結果を出しなさい』
弁当箱の底には、そんな無言の請求書が貼り付けられている気がした。
咀嚼音が響く教室。
誰も「美味しいね」とは言わない。全員が、燃料補給を済ませ、次の戦闘に備えて牙を研いでいる。
陸はふと、窓のない壁を見つめた。
外の世界では、今頃家族が食卓を囲んで、テレビを見ながら笑っているのだろうか。そんな当たり前の光景が、まるでファンタジーの世界のように遠く感じられた。
午後九時。授業終了。
校舎の外には、高級車の列がハザードランプを点滅させながら並んでいた。まるで深海魚の群れが発光しているようだ。
ベンツ、BMW、アウディ、レクサス。
ここは保護者たちの見栄の品評会会場でもある。
陸の母、香織の車はいつもの指定位置――校舎の入り口に最も近い場所――に停まっていた。純白のドイツ製セダン。泥はねひとつない、鏡のように磨き上げられた車体は、街灯の光を冷たく弾いている。
陸が自動ドアから出てくると、他の保護者たちが道を空ける。
「S1の西野くん」
その肩書きは、水戸黄門の印籠のように機能する。だが、それは陸への敬意ではなく、嫉妬と羨望、そして「いつか落ちろ」という呪いが込められた視線だ。
助手席のドアを開ける。革のシートの匂いと、母が好む柑橘系のアロマの香りが鼻腔を満たす。
「陸くん、お疲れ様」
ハンドルを握ったまま、母が微笑む。
完璧なメイク、乱れのない巻き髪。その笑顔は、能面のように整いすぎていて、感情の機微が読み取れない。
「今日の算数の週テスト、手応えはどうだった?」
「おかえり」でも「寒くなかった?」でもない。ドアを閉める前の第一声が、常に評価の確認だ。
「……計算問題は全部できたと思う。最後の大問も、たぶん合ってる」
「『たぶん』じゃ困るわ。大問の(3)は、整数の性質を使うやつでしょう? 昨日やった類題と同じパターンだった?」
母は塾のカリキュラムを全て把握している。陸がどのテキストの何ページをやっているか、今日のテスト範囲がどこか、全て頭に入っているのだ。自分が解くわけでもないのに、その知識量は異常だった。
「うん。同じだった。だから大丈夫」
「よかった! さすが陸くん、ママの最高傑作だわ」
母の声が弾み、車内の温度が一度上がる。
これが、母の機嫌(水質)を管理するための正解コードだ。
もしここで「一問ミスしたかも」と言えば、車内の空気は一瞬にして絶対零度まで下がる。母は無言になり、荒い運転でハンドルを切り、家に着くまで深く重い溜息を繰り返すだろう。それは陸にとって、殴られるよりも痛い拷問だった。
陸は、母が喜ぶ言葉を選んで差し出す。
それは、飼い主のご機嫌を取るために芸をするイルカと同じだ。
帰宅後のリビングは、昼間よりもさらに空気が張り詰めていた。
パパはまだ帰ってきていない。この家において、父親の存在感は希薄だ。「ATM」と「スポンサー」としての機能しか期待されていない。
「さあ、お風呂に入って目を覚まして。十時からは理科の『浮力』の解き直しをやるわよ」
母はキッチンで洗い物をしながら、背中で監視している。水流の音に混じって、母の視線が突き刺さるのを感じる。
陸は風呂から上がると、パジャマに着替えてリビングの学習机に向かった。
目の前には、巨大なホワイトボード。
そこに書かれたスケジュール表は、陸を縛り付ける鎖そのものだ。
「陸くん」
不意に背後から声をかけられ、陸はシャープペンシルを止めた。心臓が跳ねる。
「この前の模試の個票、改めて分析したんだけど」
母が濡れた手を拭きながら近づいてくる。その手には、赤ペンで真っ赤に修正された成績表が握られていた。まるで採点済みの答案用紙のように、陸の人格そのものが赤字で直されている気がした。
「理科の『天体』の正答率、S1平均より2ポイント低いわよ。これ、どういうこと?」
声から温度が消えていた。
「……応用問題で、読み間違えた」
「読み間違え? そんな言い訳が本番で通じると思うの? ケアレスミスは病気よ。治療しないと死ぬ病気」
母の手が、陸の肩に置かれた。手入れされたジェルネイルの硬い感触が、薄いパジャマ越しに肩の肉に食い込む。
痛い。でも、痛いと言ってはいけない。
母は顔を近づけ、陸の耳元で囁いた。
「貴方は特別な子なの。パパみたいな普通のサラリーマンで終わる人間じゃない。選ばれた人間になるの。そのためには、一点のミスも許されない。……わかるわよね?」
愛している。貴方のため。
その言葉は、粘着質の液体のように陸の全身に絡みつき、自由を奪う。
母にとって陸は、愛する息子であると同時に、自分の人生のリベンジマッチを戦う代理戦争の駒であり、磨き上げるべき作品なのだ。
もしトロフィーに傷がつけば、母は躊躇なくそれを修復しようとするだろう。あるいは、砕き割るかもしれない。
陸は水の中で口をパクパクさせる魚のように、音のない返事をした。
「はい、わかってます。ごめんなさい」と。
その言葉を吐き出すたびに、心の一部が壊死していく音がした。
リビングの照明が、やけに白く、眩しかった。陸は目を細め、心の奥底にあるバルブを閉じた。感情を殺す。それが、この過酷な水槽で生き延びるための、唯一の進化だった。
第二章 濁った水と深海魚
学校にいる間だけが、陸が「透明人間」になれる時間だった。
地元の公立小学校。そこは、塾の無機質な空間とは対極にある、雑多で、騒々しく、泥の混じった浅瀬のような場所だ。
六時間目の休み時間。教室の後ろでは、男子たちがプロレスごっこで奇声を上げ、女子たちがテレビアイドルの噂話に花を咲かせている。
チョークの粉が舞い、給食の残り香と汗の匂いが混ざり合う。
陸にとって、この空気は不潔であり、同時にどこか懐かしい「生物の匂い」がした。
陸は自分の席に座り、机に突っ伏して寝たふりをしていた。
昨夜は午前一時まで、過去問の解き直しをさせられた。睡眠時間は五時間を切っている。ここで体力を温存しておかなければ、夜の塾で溺れてしまう。
「おい、西野。サッカーやろうぜ」
クラスの陽気な男子が声をかけてきたが、陸は顔を上げずに首を振った。
「あーあ、またガリ勉モードかよ。つきあい悪ーな」
「ほっとけよ。あいつ、開成受けるんだってさ。住む世界が違うんだよ」
嘲笑とも尊敬ともつかない陰口が背中を通り過ぎていく。
住む世界が違う。その通りだ。
彼らは、水面で陽の光を浴びながら、何も考えずに遊ぶ小魚たちだ。悩みといえば、今日の夕飯のメニューか、好きな女の子のことくらいだろう。
自分は違う。光の届かない海溝の底で、偏差値という強烈な水圧に耐えながら、一ミリでも深く潜ることだけを強いられている深海魚だ。
陸は目を閉じたまま、深海の暗闇を想像した。そこは寒くて暗いが、少なくとも、こんなにうるさくはないはずだ。
午後六時。塾の休憩時間。
S1クラスの張り詰めた空気も、講師が去ったこの十分間だけは少し緩む。
男子たちは点数のマウント合戦をするか、あるいは卑猥な言葉を囁き合ってストレスを発散している。女子たちはライバルの志望校変更の噂をヒソヒソと交換し合っている。
陸はいつも、教室の隅にある窓際に立っていた。
ここから見えるのは隣の雑居ビルの薄汚れた壁と、室外機のファンだけだ。だが、空調の風が直接当たらない分、教室の中央よりは呼吸がしやすかった。
「ねえ、西野くん。また死んだ魚みたいな目をしてる」
唐突に声をかけられ、陸はビクリとした。
そこに立っていたのは、野々宮未散だった。
S1クラスの異端児。成績の乱高下が激しく、トップテンに入る爆発力を見せたかと思えば、宿題をサボってクラス落ちギリギリまで下がることもある。
髪は校則ギリギリの茶色で、制服のブラウスの第一ボタンが開いている。母が見たら眉をひそめて「関わってはいけません」と即答するタイプだ。
「……死んでないよ。省エネモードなだけ」
「嘘。エラ呼吸止まってるよ。酸欠でアップアップしてる顔」
未散はケラケラと笑った。その笑い声は、この密室には不釣り合いなほど明るく、少しだけ空気を揺らした。
彼女は小脇に抱えていたスケッチブックを開き、陸に見せた。
「見てこれ。理科の授業中に描いたやつ」
そこには、グロテスクだが妙に神々しい魚の絵が、鉛筆の濃淡だけで描かれていた。
長い背びれ、銀色の平たい体、赤い鶏冠のようなヒレ。
「……リュウグウノツカイ?」
「おっ、正解! 西野くん、知ってるんだ」
未散が目を輝かせた。
「うん。……好きだから」
陸の心臓が少しだけ跳ねた。
実は陸も、深海生物が好きだった。母には内緒で、学校の図書室で借りた『深海生物大図鑑』を、ベッドの下の段ボール箱の底に隠している。
光の届かない、数百気圧の高圧の暗闇。そこで静かに、独自の進化を遂げた異形の生き物たち。メンダコ、オオグソクムシ、デメニギス。
彼らの姿を見ていると、なぜか心が安らいだ。彼らは「誰かに見られるため」ではなく、「ただ生きるため」にその形をしているからだ。
「いいよね、深海魚。こいつらさ、水圧に潰されないように、体の中に水を取り込んでるんだって。周りの圧力と内側の圧力を同じにしてるの。だから平気なんだよ」
未散はスケッチブックを指でなぞりながら言った。
「私らもさ、これくらい図太く生きなきゃね。ママたちのプレッシャーなんか、スルーしてさ」
彼女の指先には、微かに絵の具がついていた。
「野々宮さんは……絵、習ってるの?」
「ううん。家で勝手に描いてるだけ。私ね、受験なんてどうでもいいんだ」
彼女は窓の外、隣のビルの隙間から見えるわずかな夜空を見上げた。
「ママは桜蔭行けってうるさいし、パパは医者になれって言うけど。落ちたら落ちたでいいや。地元の公立行って、美術部入って、好きな絵描くの。ここじゃなきゃ死ぬわけじゃないし」
陸は言葉を失った。
ここじゃなきゃ、死ぬ。陸はずっとそう思っていた。
S1から落ちたら、御三家に落ちたら、自分には価値がない。母に捨てられる。社会から脱落する。
そう刷り込まれてきた。偏差値という水圧に潰されないためには、泳ぎ続けるしかないと。
けれど、目の前の少女は、水槽の外にも海があることを知っていた。
「西野くんもさ、行きたいとこ行けばいいじゃん。偏差値とかママの顔色じゃなくて、好きなとこ」
「僕の行きたいところ……」
考えたこともなかった。偏差値72の学校に行くのが「正解」だと信じて疑わなかったから。
予鈴のチャイムが鳴った。
未散はスケッチブックをパタンと閉じ、席へ戻っていった。
陸はその背中を見つめた。彼女の周りだけ、水が透き通っているように見えた。
それは、陸が初めて触れた「外の世界」の匂いだった。
一月十日。埼玉県の中学入試が解禁された。いわゆる「一月入試」「前哨戦」だ。
陸は、偏差値的には余裕のある最難関校を受験した。
結果は、上位数%しか選ばれない「スーパーエリート特待生合格」。一年間の授業料免除の権利付きだ。
その通知を見たとき、母は狂喜乱舞した。
「見た!? やっぱり陸くんは天才よ! 埼玉のトップ校で特待なんて、開成も筑駒も間違いなしだわ!」
その夜の食卓には、祝いの霜降りステーキが並んだ。父も珍しく早く帰宅し、ビールを開けた。
家の中は祝祭の空気に包まれた。水槽の水温は最高潮に達していた。
だが、陸の心は鉛のように重かった。
成功体験は、母の期待値をさらに吊り上げる燃料にしかならない。
「特待生合格したんだから、本命で落ちるなんてありえない」
「ここで気を抜いたらダメよ。次は全国一位を目指しなさい」
ハードルは極限まで上がり、失敗の許容範囲はゼロになった。陸の首には、「天才」という名の重い首輪が嵌められただけだった。
肉を噛み締めながら、陸は思った。
いっそ、落ちていればよかったのかもしれない。そうすれば、少しはこの窒息するような期待から解放されたかもしれないのに。
そして、一月下旬のある日。事件は起きた。
二月一日の本番まであと一週間。
塾から帰宅した陸は、玄関のドアを開けた瞬間、強烈な違和感を覚えた。
空気が、凪いでいる。
いつもなら聞こえるはずの、母の「おかえり、手洗いうがいしてすぐご飯よ」という声がない。
静かすぎる。深海の底のような静寂。だが、それは安らぎではなく、捕食者が潜んでいる気配のする静寂だった。
「……ただいま」
恐る恐るリビングに入る。
部屋の様子がおかしかった。
いつも整然としている本棚が、微妙に乱れている。カーペットの位置が数ミリずれている。
そして、ベッドの下に隠していたはずの段ボール箱が、部屋の中央に引き出されていた。
ダイニングテーブルの上に、見覚えのある本が置かれていた。
『深海生物大図鑑』。
陸にとっての、唯一の酸素ボンベ。隠れて読みふけり、未散と語り合った、大切な聖書。
キッチンに母が立っていた。
洗い物をしているわけでも、料理をしているわけでもない。ただ、シンクにもたれかかり、腕を組んで床を見つめている。
「……陸くん」
呼びかけられた声は、今まで聞いた中で最も低く、底なし沼のように濁っていた。
「これ、何?」
母が顎でテーブルの上をしゃくった。
「それは……図書室で、借りて」
「ママ、今日お掃除を徹底的にしたの。本番前に、環境を整えようと思って。そうしたら、ベッドの下からこんなものが出てきたわ」
母はゆっくりと歩み寄り、図鑑を指先で摘み上げた。まるで汚染物質でも触るような手つきで。
「一月の埼玉入試、理科で一問ミスしたわよね? 浮力の計算。……その原因は、これだったのね」
「……え?」
「貴方は天才なの。脳のキャパシティは限られてるの。それなのに、こんな無駄な魚の記憶に容量を使ってたから、肝心なところでミスが出たのよ」
論理が飛躍している。だが、母の中ではそれが絶対的な真実として成立していた。
「無駄じゃ、ないよ。僕、好きなんだ。息抜きに……」
陸は初めて、小さな抵抗をした。
だが、それは母の逆鱗に触れるスイッチだった。
「息抜き? 好き? そんなもので人生が決まるの? 好きで勝ち組になれるの!?」
母の顔が歪んだ。美しかった能面が、鬼女のそれに変わる。
彼女の目には、陸への愛情ではなく、自分の作品を汚された制作者の怒りだけが燃えていた。
「貴方のためなのよ! ママはね、貴方の邪魔をするノイズは全部排除してあげてるの! こんなゴミに現を抜かして、落ちこぼれるなんて許さない!」
母の両手が、図鑑の表紙にかかった。
ミシミシ、という音がする。ハードカバーが悲鳴を上げる。
「やめて!」
陸が手を伸ばした瞬間。
バリッ!
乾いた音がリビングに響き渡った。
図鑑のページが、無惨に引き裂かれた。
母はヒステリックに叫びながら、次々とページを破り捨てていく。
深海のアイドル・メンダコも、神秘的なリュウグウノツカイも、強固な鎧を持つオオグソクムシも、すべて紙切れとなり、床に散らばった。
「掃除機! 掃除機かけなきゃ! ゴミだわ、全部ゴミ!」
母は破り捨てた紙片を足で蹴散らし、ゴミ箱へ叩き込んでいく。
陸は、その場に立ち尽くしていた。
泣き叫ぶことも、止めることもできなかった。
ただ、頭の奥で、プツン、と何かが切れる音がした。
それは、陸と母を繋いでいた細い糸――あるいは、陸がこの世界の「酸素」を吸うためのチューブが、完全に切断される音だった。
(ああ、そうか)
散らばった図鑑の破片を見つめながら、陸は思った。
(お母さんは、僕を見ていない。僕の偏差値しか見ていない)
急速に、心が冷えていくのを感じた。
怒りも悲しみも通り越し、絶対零度の静寂が訪れる。
陸の視界から色彩が消え、リビングの白い照明が、深い群青色に沈んでいった。
(ごめんなさい、お母さん)
心の中で、陸は静かに呟いた。
(僕は、そっちの水ではもう泳げないみたいだ)
陸は深く息を吐き出し、自ら心の殻を閉じた。
深海魚のように。誰の声も届かない、冷たくて静かな底へ向かって、ゆっくりと潜っていった。
母の怒鳴り声が、遠い水面のさざ波のように聞こえた。
第三章 二月一日の選別
二月一日。東京、早朝五時。
夜明け前の世界は深い群青色に沈んでいた。陸は起こされた。いつもの英語ニュースではない。母の、張り詰めた声によってだ。
「陸くん、起きなさい。今日は決戦の日よ。絶対に勝つのよ」
ダイニングには、母の祈りと執念が込められた朝食が並んでいた。
「カツ(勝つ)サンド」、「い(いい)予感」の伊予柑、そして「受かる」ようにという語呂合わせのうどん。
消化に悪い揚げ物を朝から食べさせられる陸の胃は、拒絶反応でキリキリと痛んだ。
「ママ、ちょっとお腹痛いかも」
「気のせいよ。薬飲んでおけば大丈夫。さあ、全部食べて。エネルギーが足りなくなるわよ」
母は聞き入れない。彼女にとっての「正解」を遂行することだけが重要だからだ。陸は無理やりカツサンドを水で流し込んだ。
午前六時。玄関を出ると、冬の鋭利な冷気が頬を切り裂いた。
駅へ向かう道すがら、母はずっとブツブツと呟いていた。
「忘れ物ないわよね、受験票持ったわよね、お守り入れたわよね……」
それは確認というより、精神安定のための呪文のようだった。
電車は、同じような親子連れで満員だった。
黒や紺のコートを着た母親と、Nバッグを背負い、分厚い参考書を開く子供たち。車内には、静寂と緊張、そして微かな殺気が充満している。
誰も口を聞かない。子供が参考書のページをめくる音だけが、カサ、カサと響く。
陸は、向かいの席に座る親子を見た。少年は顔色が青白く、母親は鬼のような形相でスマホの時計を睨んでいる。
(みんな、同じだ)
陸は思った。この車両は、戦場へ向かう輸送列車であり、あるいは、屠殺場へ運ばれる家畜運搬車なのかもしれない。隣に座る人間は、席を譲り合う隣人ではなく、一つの椅子を奪い合う敵なのだ。
息が詰まる。母の香水の匂いと、車内の澱んだ空気が混ざり合い、吐き気が込み上げてくる。陸は目を閉じ、水の中へ意識を逃がそうとしたが、母が手を強く握ってきたせいで、現実に引き戻された。
西日暮里駅に降り立つと、そこは異様な光景だった。
駅のホームから坂道の上にある第一志望校「開成」の正門まで、黒い人の波が延々と続いている。
葬列のようでもあり、軍隊の行進のようでもあった。数千人の親子が、無言で、ただひたすらに正門を目指して歩いている。
沿道には、各塾の講師たちがのぼり旗を持ってずらりと並んでいる。
「叡智館」の旗を見つけた母が、陸の背中を押した。
そこには、国語の佐久間先生が立っていた。普段の威厳ある姿とは違い、寒さで鼻を赤くし、必死の形相で教え子たちを探している。
「西野! おお、来たな!」
佐久間先生が駆け寄り、陸の両手をガシッと握った。その手は分厚く、脂汗で湿っていた。
「お前ならいける! S1の意地を見せろ! あの記述力があれば、絶対に合格できる!」
先生の瞳孔が開いている。唾が飛ぶほどの熱量。
「……はい」
陸は短く答えた。先生の熱意が、今の陸には重すぎる鉄塊のように感じられた。先生が見ているのは陸ではない。「合格実績」という数字だ。
いよいよ、正門の前。ここが「母の水槽」の最終出口だ。
ここから先は、子供だけで行かなければならない。
母は立ち止まり、陸の襟元を直し、両肩を掴んで正面から見据えた。その指が、コート越しに食い込む。
「いい? 陸くん。ママの言った通りにやればいいの。貴方は天才なんだから。埼玉でも特待取ったじゃない。貴方は選ばれた人間なの」
母の目は血走っていた。彼女が見ているのは陸の顔ではなく、陸の背後に透けて見える「開成合格」という二文字だけだ。
「お願いよ、合格して。……ママのために」
最後の一言は、祈りというより、どす黒い呪詛だった。
「私を裏切るな」「私の人生を肯定しろ」
そんな声なき声が聞こえた気がした。母の手が小刻みに震えている。その震えが、陸の身体にも伝播し、冷たい鎖のように巻き付く。
「行ってきます」
陸は母の手を振りほどくようにして、背を向けた。
校舎へと吸い込まれていく受験生たち。それはまるで、巨大な養殖場から出荷され、選別ラインへと流されていく魚の群れそのものだった。
試験会場の教室は、塾のそれよりも古く、寒かった。
歴史ある校舎特有の、埃とワックスの混じった匂い。木の机には無数の傷跡や落書きが刻まれている。何十年分もの受験生たちの、焦りと怨念、そして祈りの記憶だ。
陸の席は窓際だった。だが、外を見る余裕などない。
黒板の上に掲げられた古びた時計。その秒針だけが、カチ、カチ、カチ、と乾いた音を立てて時を刻んでいる。この音は、時限爆弾のカウントダウンに似ていた。
周囲からは、咳払いや、椅子が軋む音、そして深呼吸をする音が聞こえる。全員が極限状態にある。ピリピリとした静電気が肌を刺すようだ。
「始めてください」
試験官の合図と共に、一斉に紙をめくる音が響いた。
サワサワサワ……。
数千枚の紙が擦れる音。それは、魚群が一斉に方向転換する時の水音に似ていた。
一限目、国語。
陸は震える手で問題文に目を落とした。
……読める。いつも通りだ。記述問題の構成も、塾で叩き込まれたパターンにはまる。
僕ならできる。合格できる。そうすれば、ママは笑ってくれる。破かれた図鑑のことは忘れよう。合格さえすれば、また平和な日々が戻ってくる。この地獄のような日々も、今日で終わるんだ。
シャーペンを走らせる。順調だ。手応えはある。
休憩時間を挟んで、二限目、算数。
陸の最も得意とする科目であり、合否を分ける天王山だ。ここで満点近くを取らなければならない。
大問1の計算問題を機械的に処理する。AIのように正確に、迅速に。
大問2、図形の移動。これも典型題だ。手が勝手に動く。
異変が起きたのは、大問3に入った時だった。
『水槽に水を入れる』問題。
直方体の容器に、仕切り板があり、一定の割合で水を入れていく。グラフから仕切りの高さを読み取る、よくある問題のはずだった。
問題文を読もうとしたとき、文字が滲んだ。
『毎分5リットルの割合で……』
その「水」という文字が、ぐにゃりと歪んだ。
(え?)
目をこする。疲れ目だろうか。
だが、違った。
問題用紙の上の「水」という文字から、本当に水が溢れ出してきたのだ。
透明な液体が紙面を濡らし、グラフの線が海藻のように揺らめき始めた。
幻覚だ。わかっている。でも、止まらない。
『点P』が、黒いオタマジャクシになって泳ぎ出し、紙の外へ逃げていく。
『底面積』という数字が、カニの泡のようにブクブクと膨れ上がり、視界を埋め尽くす。
――解けない。
――読めない。
心臓が早鐘を打つ。ドクン、ドクン、ドクン。
血流の音が、轟音となって耳を塞ぐ。
耳鳴りがする。キーンという高い音に混じって、母の声が聞こえ始めた。
『陸くん、できるわよね?』
『ママの最高傑作だもの』
『失敗したらゴミよ。ただのゴミ』
冷や汗が背中を伝う。指先が痺れて、鉛筆が持てない。
周りからは、カリカリカリカリという鉛筆の音が聞こえる。それは、他の魚たちが猛烈な勢いで餌を食む音だ。貪欲なピラニアの群れが、肉を食いちぎる音。
僕だけが取り残される。僕だけが餌を食べられない。
落ちる。落ちる。順位が下がる。偏差値が下がる。
深海の底へ。光の届かない場所へ。
(ママに怒られる)
(「なんでできないの」ってヒステリックに叫ばれる)
(お前は失敗作だと言われる)
(捨てられる)
恐怖で過呼吸になりかけた。ヒュー、ヒュー、という自分の呼吸音がうるさい。
視界が白く明滅する。息ができない。ここは水深何メートルだ? 酸素ボンベがない。水圧で肺が潰れる。
誰か助けて。お母さん、助けて。
いや、僕をここに沈めたのは、お母さんだ。
その時。
混沌とした視界の底に、鮮烈な記憶が蘇った。
リビングの床に散らばった、引き裂かれた図鑑のページ。
ゴミ箱に捨てられた、深海魚たちの姿。
『深海では、水圧に耐えるために独自の形に進化する』
『彼らは、光のない世界で、誰のためでもなく、自分自身の光を灯す』
未散の声が聞こえた気がした。
『ここじゃなきゃ死ぬわけじゃないし』
『私らもさ、これくらい図太く生きなきゃね』
陸の手が、ふっと止まった。
震えが収まる。
呼吸が深くなる。
周りのカリカリという捕食音が、急速に遠のいていく。
そうだ。僕は深海魚だ。
ここは、水深六千メートル。
太陽の光も、偏差値という重力も、母の監視の目も届かない場所。
誰もいない。あるのは、圧倒的な静寂と、自由な闇だけ。
この水圧こそが、僕の居場所なんだ。
陸はシャープペンシルを持ち直した。
計算するためではない。
彼は、解答用紙の余白を見た。真っ白な空間。そこは、誰にも汚されていない、彼だけの海だった。
陸はそこに、小さな線を描き始めた。
震えはもうない。
長い背びれを持つ、リュウグウノツカイ。
大きな目をしたメンダコ。
鎧のような鱗を持つオオグソクムシ。
問題など解かない。
この問題を解いて正解することは、またあの窒息しそうな「母の水槽」に戻るチケットを手に入れることを意味していたから。
帰りたくない。あそこには、もう戻りたくない。あそこは僕の海じゃない。
陸は憑かれたように描き続けた。
数式よりも、記号よりも、今の彼にとっては、この下手くそな魚の絵こそが、世界で唯一の「正解」だった。
シャーペンの芯が紙を削る感触が、心地よい。一筆描くごとに、自分を縛り付けていた鎖が一本ずつ切れていく気がした。
それは、彼が初めて自分の意志で行った、静かなる反乱。
「僕は、君たちの水槽では泳がない」という、独立宣言だった。
「やめっ」
試験終了の合図と共にチャイムが鳴った時、解答用紙の計算欄は白紙のまま、余白だけが魚たちのパレードで埋め尽くされていた。
陸は顔を上げた。窓の外の空が、驚くほど青く見えた。
最終章 エピローグ・新しい海流
二月三日。正午。合格発表。
学校の掲示板の前は、歓喜の悲鳴と、絶望の沈黙が入り混じっていた。
母は、掲示板の前まで猛ダッシュし、番号を探した。
上から下へ。右から左へ。
何度も、何度も。指でなぞりながら。
やがて、母の動きが止まった。
その背中が、小刻みに震え始める。
「……ない」
母はその場に崩れ落ちた。
ドラマのように、アスファルトの上に膝をつき、人目も憚らずに泣き叫んだ。
「なんで……なんでないのよ! あんなにやったのに! 埼玉では特待だったのに! 私の人生、何だったのよ!」
周りの親たちが、憐れみと、自分たちは勝ち組であるという優越感の混じった視線を向けて通り過ぎていく。
「S1の西野くんが落ちたらしいよ」「まさか」「本番に弱かったのね」
無責任な囁き声が、泡のように弾ける。
陸は、地面に這いつくばって泣き叫ぶ母を、冷めた目で見下ろしていた。
不思議なくらい、心が凪いでいた。
悲しくなかった。悔しくもなかった。むしろ、重い鎧を脱ぎ捨てたような清々しさがあった。
第一志望の開成は不合格。第二志望も不合格。
合格したのは、偏差値50ほどの、家からバスで通える私立「清亮中学」だけだった。そこは理科教育に力を入れているが、進学実績は平凡で、母にとっては「行く価値のないゴミ溜め」であり、滑り止めにもならない学校だ。
母が顔を上げた。
高級ファンデーションは涙と鼻水でドロドロに溶け、マスカラが黒い筋を作っている。美しかった能面は崩壊し、そこにはただの、夢破れた中年の女がいた。
「陸くん……どうするの……」
母は陸の足首にすがりついた。その手は、溺れる者が藁をも掴む必死さだった。
「高校受験よ。高校受験でリベンジよ。今から塾を探して……英語も先取りさせて……まだ間に合うわ。早稲田アカデミーなら高校受験に強いから、そこに入り直して……」
まだ、諦めていない。
この人は、まだ陸を自分の水槽に連れ戻し、新しい首輪をつけて、ポンプで空気を送り込もうとしている。
陸が「失敗作」のまま終わることを、彼女のプライドが許さないのだ。
陸は、足首を掴む母の手を、ゆっくりと、しかし力強く剥がした。
母の手は驚くほど軽く、そして冷たかった。
「お母さん」
陸の声は、冬の空気のように澄んでいた。
「僕は、その中学に行くよ」
「え……?」
母が動きを止めた。
「何を言ってるの? あんな偏差値の低い学校、恥ずかしいわ! ママの友達になんて言えばいいの! 『息子はバカ学校に行きました』なんて言えない! 私の教育が間違ってたことになるじゃない!」
「恥ずかしくないよ」
陸は母の目を真っ直ぐに見つめた。
「あそこの生物部は、海洋生物の研究で賞を取ってるんだ。設備も整ってる。僕はそこで、魚の研究がしたいんだ」
初めて、自分の言葉で未来を語った。
母は呆然と陸を見上げた。まるで、自分が育てたはずの金魚が、突然言葉を喋り出したかのような恐怖の表情で。
「貴方は……誰? 私の陸くんじゃない……私の最高傑作じゃない……」
「そうだよ。僕は、お母さんの作品じゃない。僕は西野陸だ」
陸は母に背を向け、歩き出した。
「待って! 陸くん、待ちなさい!」
背後から母の叫び声が聞こえるが、足は止まらなかった。
校舎の向こうには、突き抜けるような冬の青空が広がっていた。
そこには天井もなければ、ガラスの壁もない。
空調もなければ、濾過装置もない。
ただ、冷たくて乾いた風が吹いているだけだ。
陸はポケットを探った。
くしゃくしゃになった手紙が入っている。
昨日、未散からLINEではなく、ポストに投函されていた手紙だ。
『西野くんへ。私、やっぱり桜蔭落ちちゃった! ママは激怒してるけど、私はスッキリ。地元の公立に行くことにしたよ。美術部に入って、コンクール目指すんだ。西野くんも、どっかで生きててね。またいつか、広い海で会おうね』
余白には、下手くそだが勢いのあるリュウグウノツカイの絵が描かれていた。
それは陸が試験中に描いた絵よりも、ずっと生き生きとしていて、自由だった。
空気は冷たかったが、呼吸はしやすかった。
喉の奥にあった見えない詰まりが取れ、肺の隅々まで新鮮な空気が満ちていくのを感じる。
エラ呼吸はもう終わりだ。これからは、自分の肺で呼吸をする。
陸は大きく息を吸い込んだ。
肺胞の一つ一つが喜びの声を上げる。
ここからが、本当の遊泳の始まりだ。
偏差値という狭い水槽を出て、予測不能な海流が渦巻く、広大で危険な、けれど自由な世界へ。
そこには、母が用意した餌はないかもしれない。外敵がいるかもしれない。
それでも、自分で泳ぐことを選んだのだ。
少年は一歩、また一歩と、自分の足でアスファルトを踏みしめて歩いていった。
もはや、泣き叫ぶ母の声は、遠い波の音にかき消されて聞こえなかった。
彼は二度と、飼い主の方を振り返ることはなかった。
(完)




