前
宗翔は、現世に帰還した。
灯明の揺れる不動堂に立ち、静かに息を吐いた。
あの霧の山、あの声の響き、あの火の匂い――すべてが遠のいていく。
だが、手の中にはまだ、あのとき渡されたものがあった。
書付と脇差。
それは、夢の名残ではなかった。
確かに、そこに在った。
重さも、冷たさも、あの瞬間のままだった。
また、あわただしい世の中に戻った。
境内には参拝客が行き交い、鐘の音が響き、季節は容赦なく巡っていった。
朝には掃き清め、昼には経を唱え、夕には灯を点す。
宗翔もまた、その流れに身を置いた。
だが、心の奥には、あの山の静けさが残っていた。
霧の中で聞いた声、火の中で見た影、それらが時折、風に混じって蘇った。
変わったことと言えば、宗翔は寺の敷地内に小さなお堂を建てた。
本堂の裏手、竹林の縁に、ひっそりと。
その堂に、光秀を祀った。
誰に許されたわけでもなく、誰に問われたわけでもなかった。
ただ、そうするべきだと、宗翔は思った。
堂の奥には、書付と脇差が供えられた。
それは、光秀から手渡されたものだった。
墨は薄れ、刃は錆びつき始めていたが、宗翔は手を触れなかった。
語ることもなかった。
誰も信じてはくれないだろう。
時空を越えた旅路など、話せば笑われるか、疑われるか、あるいは忘れられる。
そして、光秀の真意が歪められる。
それだけは、避けたかった。
だが、光秀の思いを繋ぐために、宗翔は場を残した。
語らずとも、供えることで、後の世に託すことはできる。
お堂の周りには、桔梗が植えられた。
春には紫が揺れ、夏には白が咲いた。
風が吹けば、花が揺れ、香りが漂った。
誰もがその花を見て、何かを思った。
それが何であるかは、人それぞれだった。
だが、そこに立ち止まる者は、皆、静かだった。
宗翔の法話には、光秀が登場するようになった。
誠を説くとき、彼の名が自然と口にのぼった。
戦においても、日常においても、誠を貫いた者として。
だが、書付と脇差のことは、最後まで語らなかった。
それは、語るべきことではなかった。
語らぬことで守れるものがある。
宗翔は、そう信じていた。
ある朝、宗翔は九字護身法を唱えながら、静かに息を引き取った。
誰もその瞬間を見ていなかった。
だが、風が止まり、灯が揺れた。
桔梗の花が、わずかに震えた。
それは、別れの合図のようでもあり、始まりの兆しのようでもあった。
長い時を経て、やがて円明寺は桔梗寺と呼ばれるようになった。
紫の花が、寺の名を変えた。
明智光秀を慕う者たちが訪れ、手を合わせるようになった。
あの書付と脇差が、のちに発見された。
堂の奥、脇差が書付を護っているようだった。
それによって、光秀を見直す気運が高まった。
彼の選択が、彼の言葉が、再び人々の目に触れることとなった。
宗翔の託した光秀の思いが、ようやく繋がった。
だが、それは――また別の話である。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前
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